第8話 リセットされた渇きと、天使の足音
【現在の蓄積リビドー:0%】
(あああ……。やってしまいました……。完全に、スッカラカンの、空っぽです)
保健室の無機質な白い天井を見上げながら、私は激しい自己嫌悪に苛まれていた。
妖しい光沢を放つ漆黒のドレスを身に纏い、圧倒的な魔力で空間を支配していた『レディ・ドロップ』の面影はもうどこにもない。
そこには、乱れた前髪から冷や汗をダラダラと流している、地味で冴えないただの『ジメ子(潮見雫)』がへたり込んでいるだけだった。
目の前のベッドでは、クラスのトップギャルである軽井沢莉愛さんが、完全に意識を失ってすやすやと眠りこけている。
先ほどまでの苛烈な『指導』のせいか、彼女の目尻にはうっすらと涙の跡が光り、無防備な寝顔は普段の強気な態度からは想像もつかないほど幼く、そして艶かしかった。
「……っ、急がないと!」
私は我に返り、震える手で莉愛さんの捲れ上がった短いスカートを直し、乱れた制服の襟元を大急ぎで整えた。
なんとか寝顔の可愛いギャルの姿に戻したところで、私は這々の体で保健室を脱出した。
* * *
キーンコーンカーンコーン……。
無情にも朝の一限目の予鈴が、静まり返った廊下に響き渡る。
走って教室へと向かう私の心臓は、先ほどまでの興奮とはまったく別の理由で、激しく早鐘を打っていた。
恐怖である。
(バカです、私は本当にバカです! いくらリビドーが限界突破したからといって、あんな無防備に、しかも全力で魔力を解放してしまうなんて……っ!)
サキュバスである私が魔力を使い果たし、リビドーゲージがゼロになるということは、一時的に身を守る術をすべて失うことを意味する。
そして何より恐ろしいのは、その強力な魔力の発露が、『天敵』を惹きつける強烈な撒き餌になってしまうということだ。
一限目の現代国語の授業が始まっても、私の心臓のバクバクは一向に収まらなかった。
ノートにペンを走らせるフリをしながら、ふと、窓の外に広がる青空へと視線を向ける。
「……っ!」
背筋に、ゾクッと氷の刃を当てられたような悪寒が走った。
――見えない。
目には見えないけれど、サキュバスとしての本能が警鐘を鳴らしている。
学園のすぐ近く。
どこかから、私の放ったドロドロに淫靡な魔力の気配を嗅ぎつけた、絶対的な『純潔』の気配が迫ってきている。
私たち悪魔を問答無用で浄化し、灰燼に帰す無慈悲な存在——
本物の『天使』の気配だ。
(ひえええ……! き、来てます、確実に学園の近くまでパトロールに来ています! もしこのまま正体がバレて浄化されたら、私のサキュバスとしての存在自体が消滅してしまいますぅ……!)
冷や汗で制服の背中をぐっしょりと濡らしながら、私はただひたすらに、嵐が過ぎ去るのを待つ子犬のように震えながら午前中の授業を耐え抜いた。
* * *
そして、恐怖と罪悪感に苛まれたまま、昼休みがやってきた。
朝の保健室での『指導』の罪悪感もあり、私は今日こそは誰とも関わらず、ひたすら下を向いて地味に過ごそうと固く決意していた。天使の目から逃れるためにも、とにかく気配を消すのが一番だ。
しかし、私のささやかな願いは、いつも通りあっさりと打ち砕かれることになる。
「あー、マジでお腹すいたー。購買でパン買ってくるの忘れたわー」
ドカッ。
私の目の前で、視界がいきなり暗くなった。
顔を上げると、そこには見慣れた短いチェックのスカート。
そして、その奥に包まれた健康的な曲線美——。
軽井沢莉愛さんが、いつものように私の机の真ん前にやってきて、どかっと机の端に自分のお尻を押し付けるようにして座り込んだのだ。
そして、私の存在など完全に無視して、自分の友人たちと大声で話し始めた。
* * *
(ち、近いです……! 朝、私が徹底的に揉みしだいたお尻が、私の鼻先わずか十センチの距離に……っ!)
私の机の周囲に座っているのは、莉愛さんの親友であるギャル二人組だった。
一人は、落ち着いたアッシュグレーの髪を綺麗なお団子にまとめている高橋千代さん。制服の着こなしはギャル風だが、莉愛さんに比べて露出は控えめで、普段から暴走しがちな莉愛さんのストッパー役を担っているしっかり者だ。
もう一人は、ゆるく巻いたピンクブラウンのボブヘアから広めのおでこを出している野沢ノン子さん。常に眠たげなタレ目をしており、ふにゃふにゃとしたマイペースな空気を纏っている。
「莉愛、あんた朝の一限目、どこサボってたのよ。先生探してたよ?」
千代さんが、呆れたようにお団子ヘアを揺らしながら尋ねる。
「あー、なんかさぁ……急に頭痛くなって、保健室のベッドで爆睡してたっぽいわ。つーか、なんか変な夢見たせいか、身体中すげーだるいんだけど」
「変な夢ぇ? 莉愛ちゃん、エッチな夢でも見たんっしょ〜? ふぁ〜、眠い」
ノン子さんが、大きな欠伸をしながらからかう。
「はぁ!? ばっ、バカじゃないの!? ちげーし!」
莉愛さんがムキになって否定する。
その瞬間、莉愛さんが私の机の上でモゾモゾと姿勢を変えた。
短いスカートの裾が跳ね上がり、朝の保健室で見たあのド派手な下着のラインが、布地越しに私の網膜へと強烈に飛び込んでくる。
【現在の蓄積リビドー:20%】
(……おや? 空っぽだったゲージが、一気に跳ね上がりましたよ)
リビドーがゼロの賢者モードだというのに、私は無意識のうちに、莉愛さんのその魅惑的なお尻を、瞬きすら忘れてガン見してしまっていた。
ふと、莉愛さんが背後からの私の熱烈な視線に気づき、クルリと振り向いた。
「おい、ジメ子。……さっきから人のケツ、ガン見してんじゃねーよ」
いつものように怒鳴られる。
そう思って身構えた私だったが、莉愛さんの態度はどこかおかしかった。
いつもなら「キモいんだけど!」と足蹴にしてくるはずなのに、今日の莉愛さんは、私と目が合った瞬間、なぜかビクッと肩を震わせ、無意識に太ももを擦り合わせるようにモジモジとし始めたのだ。
おまけに、ほんのりと頬まで赤らめている。
(……まさか。彼女の意識には残っていなくても、肉体と本能が『レディ・ドロップ』の気配を、そしてあの極上の快感を覚えているというのですか……!?)
莉愛さんのその予想外の反応に、私のサキュバスとしてのSっ気が、スルスルと顔を出し始めた。
「いえ、ここは私の席ですので。所有者の特権として、目前にある絶景に対する鑑賞の権利を行使させていただいているだけです」
私は前髪の奥で目を細め、丁寧かつオタク特有の早口と屁理屈で堂々と答えた。
「はぁ!? なにそれ、意味わかんないし……っ」
莉愛さんは顔を真っ赤にして、スカートの裾をギュッと押さえ込んだ。
すると、私たちのその謎のやり取りを見ていた千代さんとノン子さんが、ニヤニヤと悪ノリした顔で顔を見合わせた。
「あはは! ジメ子ちゃん、ウケるんだけど! そんなにお尻見たいの?」
千代さんが普段のストッパー役を放棄し、楽しそうに笑う。
「いいよぉ〜? ジメ子ちゃん、私らのお尻も見るぅ〜?」
ノン子さんが眠そうな目のまま立ち上がると、千代さんと二人並んで私に背中を向け、短いスカート越しにキュッキュッと可愛らしく腰を振り始めたのだ。
アッシュグレーのお団子ギャルと、ピンクブラウンのボブギャル。
二つの異なる魅力を持つ女子高生のお尻が、私の目の前でリズミカルに揺れている。しかも、本人の許可付きという完全合法のシチュエーションである。
【現在の蓄積リビドー:50%】
(役得……完全に役得です! 日頃から清子様への忠誠を誓い、学園の平和(?)を守るための善行を積んできた私への、神様からのご褒美でしょうか!)
私は鼻息を荒くし、前髪の隙間から眼光を鋭く光らせて、三人三様のギャルたちの腰回りを特等席で堪能した。
だが、その至福の時間は長くは続かなかった。
ゾクッ……。
窓の外から、再びあの、冷たく無慈悲な『純潔の気配』が肌を撫でたからだ。
「——ひっ」
私は小さく身震いし、咄嗟に机の上に突っ伏して両手で頭を抱えた。
いくらギャルのお尻が魅力的でも、このまま調子に乗ってリビドーを溜め込み、万が一にも尻尾を出してしまえば、今度こそ天使の光の矢で脳天を撃ち抜かれてしまう。
私は、目前に揺れる天国(お尻)と、窓の外に潜む地獄(天使)との間で、サキュバスとしての生きた心地のしない、冷や汗まみれの昼休みを過ごすハメになるのだった。




