第26話 ギャルとの攻防と、真面目な委員長の牽制
あれから数日後――。
私は極端な猫背のまま、登校する生徒たちの波に紛れて、逃げるように校舎の廊下を進んでいた。
視線は常に斜め下四十五度。
誰とも目を合わせないための防衛術だ。
しかし、今日に限っては、その努力も虚しく特定の人物の気配を敏感に察知してしまっていた。
「あ……」
「ひっ……!」
廊下の角を曲がった瞬間、前方を歩いていたパステルグリーンのウェーブヘアの少女——文芸部の千代田野乃さんと、ばっちり視線が絡み合ってしまった。
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。
野乃さんも私を見た途端、マシュマロのように白い頬をゆでダコのように真っ赤に染め上げ、ビクゥッと肩を震わせた。
彼女のその反応には理由がある。
あの日の放課後――旧校舎の密室で野乃さんは私に対して、あんなことやこんなこと(主に情欲交じりのお仕置きの再現という名のセクハラ)をしてしまったのだ。
私の中で高められたリビドーと、限界を突破した彼女の百合妄想。
その記憶がフラッシュバックし、お互いに気まずさの極致に達している。
「あ、あの……し、潮見さん……っ」
野乃さんは逃げ出したい衝動を必死に堪えているような顔で、抱きしめていた大学ノートを盾にするようにもじもじと近づいてきた。
ただならぬ決意を秘めたような、血走った瞳孔が少しだけ怖い。
「な、なんでしょうか、千代田さん……。そ、その節は、その、お疲れ様でした……」
「はい……、あの時はなんか――興奮してしまって、なんか色々すみませんでした。それはそれとしてですね、あの、お願いがあるんです。今日の放課後、また文芸部に来てもらえませんか? ……是非とも、同士である潮見さんに、新作の小説を読んで欲しいんです!」
新作の小説。
それはつまり、私と生徒会トップ二人を巡る、あの倒錯した愛憎劇の完成版ということだろうか?
正直、恐ろしくもあるが、同時にサキュバスとしての私の本能が「読んでみたい」と疼き出す。
「わ、わかりました。……楽しみです」
「ありがとうございます! お待ちしていますから!」
野乃さんはペコリと深く頭を下げると、逃げるような小走りで自分の教室へと消えていった。
* * *
二時間目と三時間目の間の、短い休み時間。
私は自分の席に座り、ひたすら気配を消して次の授業の準備をしていた。
しかし、私の前の席に座る人物が、そんな平穏をやすやすと打ち砕く。
「あーマジだるい。次の数学、絶対寝るわー」
ドンッ、と無遠慮な音を立てて、私の机の真正面に誰かが腰を下ろした。
派手なハニーゴールドの髪をアップにまとめ、甘いバニラ系の香水と制汗剤の匂いを漂わせるクラスのスクールカースト上位陣、ギャルの軽井沢莉愛さんだ。
彼女は自分の席には座らず、後ろを向いて私の机の縁に腰掛け、友達の高橋さんや野沢さんと大声で喋り始めた。
短いスカートから伸びる健康的な太もも。
そして、机の縁に押し当てられた、プリンッとしたお尻の質量。
(……ごふっ)
私の顔の数十センチ先に、莉愛さんの無防備なお尻が鎮座している。
少し身じろぎするたびに、制服のプリーツスカート越しに柔らかな肉の感触が、机を通して私の腕に伝わってくるのだ。
(素晴らしい……。なんという無防備、なんという暴力的なまでの若さと弾力。本人は全く無自覚に私の机の先端を占拠しているのでしょうが、この特等席から拝むギャルの太ももとお尻の黄金比は、最高のリビドー供給源です……!)
私は前髪の奥から血走った目を輝かせ、限界まで息を潜めながら、その絶景と甘い匂いを密かに堪能していた。
【現在の蓄積リビドー:微増中】
サキュバスとしての魔力が、下腹部の奥でじんわりと温まっていくのを感じる。
と、その時。
友達と談笑していた莉愛さんが、ふと思い出したように首だけを後ろに向け、机に突っ伏している私を見下ろした。
「そういえばジメ子。お前、今朝廊下でよそのクラスの奴と話してたけどさ。友達いたんだな」
「……へ?」
突然話を振られ、私は素っ頓狂な声を漏らした。
よそのクラスの奴とは、十中八九、野乃さんのことだろう。
「どんな話してたんだよ、お前ら。顔真っ赤にしてさー」
莉愛さんは、怪訝そうな、それでいて少しだけ不機嫌そうな目を細めた。
普段は私なんて空気同然に扱っているくせに、私が自分以外の誰かと親しげにしているのが気に食わないのだろうか。
その不機嫌そうな顔を見た瞬間、私の中の『調子に乗りやすいスイッチ』がカチッと入ってしまった。
* * *
「ほう……? 私たちの会話に興味がある、と……」
「は?」
「ふふふ。ひょっとして、嫉妬ですか? いいですねぇ、強気なギャルの百合嫉妬。普段は冷たいくせに、私が他の女の子と話しているとヤキモチを焼いてしまうなんて、実に見事なツンデレ——」
「ふざけんな! 誰がお前なんかに嫉妬するかバカッ!」
ドスッ!!
莉愛さんの華奢だが容赦のない拳が、私のこめかみに勢いよく突き立てられた。
「気持ち悪いこと言ってんじゃねーよ!」
そのまま、ギリギリギリッ!
と容赦のない『ぐりぐり』が執行される。
「あだっ! あだだだだっ! ちょ、痛いです。本気で痛いですよこれは! 莉愛さん、やりすぎですぅ!」
私は大げさに悲鳴を上げながらも、こめかみに伝わる莉愛さんの手の温もりと、怒りで顔を赤くしている彼女の可愛い表情に、内心で(むふふ、極上のご褒美です)と歓喜の涙を流していた。
「あ、ああ、悪い。そんな痛かったか?」
私が涙目で頭を抱えていると、莉愛さんは少しだけバツが悪そうに手を離した。
根が素直な彼女は、やりすぎたと思ったらしい。
「ええ、それはもう。いくら温厚な私でも、これ以上やられたら、軽井沢さんの弱点のお尻の穴に報復しますよ」
私は冗談めかして、いや、半分本気でニチャリと笑いながら言い返した。
「おいジメ子、キモいこと言うんじゃねーよ! なんだよ、弱点って……、んなわけねーだろ」
「ふふふ、どうやら――後ろの穴が弱いというのは図星だったようですね? そこは強気な女性の弱点だと、昔から相場が決まっているのですよ。くふっ」
「だからちげーっての!」
ギャーギャーと私と莉愛さんが(私にとっては至福の)じゃれ合いを繰り広げていると——。
「ちょっと、そこの二人! 静かにしなさい!」
教室の空気を一瞬で凍りつかせるような、凛とした、いや、氷のように冷たく鋭い声が響き渡った。
* * *
声の主は、黒板の前で日誌を広げていたクラスの委員長、杉田橙子さんだった。
艶やかなアンバーのミディアムヘアを左右でカチッと三つ編みにし、度のキツそうな丸眼鏡をかけた彼女は、校則通り第一ボタンまでしっかりと留めた制服姿で、こちらをギロリと睨みつけている。
小柄だが、その背筋は定規を入れたようにピンと伸びており、一切の隙を感じさせない。
「もうすぐ授業開始のチャイムが鳴ります! 軽井沢さん、自分の席に戻りなさい!」
「ちぇっ、わかったよ委員長」
莉愛さんは舌打ちをして、私の側から自分の席へと戻っていった。
(ふう、軽井沢さんとの触れ合いは楽しいのですが、暴力的なところがあるのが玉に瑕ですね)
私はホッと一息つこうとしたが、橙子さんの視線はまだこちらを向いたままだった。
丸眼鏡の奥の瞳が、私を——潮見雫という存在そのものを、汚物でも見るかのように冷酷に射抜いている。
「それから、潮見さん」
「はっ、はいっ!?」
「教室で『お尻の穴』だなんて、いかがわしいことを言うのは止めてください! あなたのそういう不純な発言が、クラスの風紀を乱しているんです。校則違反レベルのセクハラですよ!」
ビシッ!
と指を突きつけられ、私は完全にフリーズした。
(ええええ!? 絡んできたのは莉愛さんですし、暴力を振るってきたのも彼女なのに、なぜ私が名指しで怒られているんですか!?)
納得がいかない。
しかし、超真面目で規律を重んじる委員長の橙子さんにとって、日頃から挙動不審で、常に薄気味悪い笑みを浮かべている私(ジメ子)は、どうやら要注意の監視対象としてロックオンされてしまったらしい。
(理不尽です……。私は悪くないのに怒られてしまいました)
私は深くため息をつきながら、さらに猫背を丸めて机に突っ伏した。
この生真面目な委員長とは、今後、決定的に相容れない運命になる予感がして、私の胃はキリキリと痛み始めたのだった。
(27話に続く)




