第19話 逃亡劇と、完璧すぎる偽装工作の落とし穴
【現在の蓄積リビドー:15%】
(あばばばばば! 死ぬ! 捕まったら社会的に抹殺されるどころか、あの銀髪の副会長に物理的に解体されてしまいますぅぅぅ!!)
旧校舎の空き教室を飛び出した私は、サキュバスとしての全隠密能力を開放し、ほとんど自らの足音すら消し去るほどの勢いで廊下を激走していた。
目指すは、この階の突き当たりにある、普段は誰も使っていない古い女子トイレだ。
滑り込むようにして一番奥の個室に入り、音を立てないように細心の注意を払いながらドアの隙間へと身をひそめる。
——ハァ、ハァ、ハァ……っ。
激しく波打つ胸を両手で押さえ、必死に呼吸を整える。
その直後だった。
カツ。
カツ。
カツ。
古びたリノリウムの床を叩く、硬く冷徹な足音が廊下に響き渡った。間違いなく、生徒会副会長・御園絵里香さまの足音だ。
その足音は、私がつい数分前まで潜んでいた空き教室の前でピタリと止まった。
(ひぃぃっ……! 教室の中を確認しています……!)
心臓がドクン、ドクンと、耳の奥でうるさいほど脈打つ。
もし、あの中に私の忘れ物でもあったら?
もし、私の残り香を感知されたら?
恐怖で全身から嫌な汗が吹き出してくる。
静寂。
生きた心地のしない数秒間が、まるで永遠のように感じられた。
やがて、再びカツ、カツと足音が動き出す。
その足音は、あろうことか、私が隠れている女子トイレの入り口に向かって近づいてきた。
(う、うそ、嘘ですよね!? こっちに来る!? 隠密特化のこの私が、足跡を辿られたっていうんですか!?)
パニックで脳内が真っ白になる。
靴音が響き、冷たい気配が室内に流れ込んできた。
絵里香さまがトイレの中に入ってきたのだ。
彼女は一歩一歩、確実な足取りで奥へと歩を進めてくる。
コツ、コツ、コツ……。
私の隠れている一番奥の個室の前で、足音が止まった。
ドア一枚を隔てたすぐ向こう側に、あの完璧主義の鋭利な美刃が立っている。息をすることすら忘れ、私は歯がガタガタと鳴り出すのを必死に堪えた。
私が隠れているせいで、ドアは少し開き気味になっている。
(マズい。このままでは……)
隠密能力フル稼働、120パーセント!
限界を超えて覆い隠せ!!
「……誰もいないわね。気のせいかしら」
低く、凛とした声がすぐ近くで聞こえた。
衣服が擦れる音が聞こえ、どうやら彼女は諦めて踵を返したようだった。
遠ざかっていく足音。それが完全に聞こえなくなった瞬間、私はようやく「ぷはっ!」と、肺に溜まっていた空気を吐き出した。
「た、助かった……。さすがは私、隠密魔法の練度が違います……!」
完全に気配を消し去ることで、絵里香さまの鋭いセンサーを欺くことに成功した私は、胸を撫でおろし足元がまだ震えるのを感じながら、這うようにして女子トイレを脱出した。
* * *
「——というわけなんです! 生徒会室をほんのちょっと、本当にほんのちょっと望遠レンズで覗いていただけなのに、あの副会長の御園先輩に完全にロックオンされてしまいましたぁぁ!」
命からがら写真部の部室へと戻った私は、事の顛末を先輩たちに報告した。
そのただならぬ怯えっぷりに、部室の空気も一気に緊張感に包まれる。
「それはマズいわね……」
アリス先輩が、珍しく真面目な顔で腕を組んだ。
「御園絵里香は、清子を盲信してるからね。清子が関わる案件となると、彼女の執念は警察犬以上よ。っていうか、潮見ちゃん。いくら清子が綺麗だからって、生徒会室を直で盗撮するのはリスクが高すぎるわ」
「アリス先輩、これからどうすれば……」
私が弱々しく尋ねると、隣に座っていた暦さんが、前髪の奥の目をギラリと光らせて口を開いた。
「フヒッ、確かに生徒会に目を付けられたとなると、我が写真部の存続に関わりますね。アリス先輩の言う通り、不健全な部活だと判断されれば一発で廃部です。ここは一つ、私たちが『極めて真面目で健全な芸術集団』であるという確固たる実績(言い訳)を作るべきかと、デュフフ」
「そうね」
と同意するアリス先輩。
「実績、ですか?」
紡ちゃんがおさげ髪を揺らしながら首を傾げる。
「具体的に、どうするんですかぁ?」
「簡単なことよ」
アリス先輩がニヤリと不敵に笑った。
「近々開催される『全国高校生写真コンテスト』に応募するの。それと並行して、我が部の活動をアピールするためのSNSアカウントをフル活用するわ。実態はカモフラージュ用の偽装アカウントだけど、真面目な写真を定期的にアップしていれば、生徒会が監査に来た時の言い訳に使えるでしょ?」
「おお……! 流石はアリス先輩、悪知恵が働きますね!」
「潮見ちゃん、それ褒めてないからね?」
方針が決まれば行動は早かった。
私たちはさっそく、今日それぞれが校内で撮影してきた「健全な日常写真」のデータを持ち寄り、ノートパソコンの前に集まった。
「まずはコンテストの応募作ね。はい、これは私が撮った『夕暮れのグラウンド』」
アリス先輩が提示したのは、いかにも青春といった風情の爽やかな写真だった。
「私のは、中庭で日向ぼっこをしていた野良猫の写真です。フヒッ、実にかわいらしく撮れました。ぶひひひひっ」
暦さんが見せた写真も、ただの猫好きの女子高生が撮ったような微笑ましいものだ。
「私は、図書室の窓辺に差し込む木漏れ日ですぅ!」
紡ちゃんの写真にいたっては、純粋無垢な彼女の人柄が滲み出るような、芸術性の高い一枚だった。
「潮見ちゃんは?」
「私はこれです。旧校舎の、誰もいない空き教室の写真。余計なものは一切写っていません。完璧にクリーンです」
私が提出した無人の教室の写真を見て、アリス先輩は「よし、完璧」と太鼓判を押した。
これら四枚の写真をコンテストの応募フォームへと送信する。
「次は、偽装工作用のSNSの更新ね」
アリス先輩が、フォロワー数が四人の――実質部員しかいない、完全に放置されていたアカウント『百合ヶ丘高校写真部【公式】』の画面を開いた。
「ここに、今日撮った風景写真や小動物の偽装用データを、それっぽいハッシュタグをつけて大量にアップロードするわよ。タイムラインを健全な写真で埋め尽くすの。潮見ちゃん、あなたのスマホからもデータを一括で送って」
「了解しました。ええと、今日のフォルダを選択して、と……」
私はまだ、絵里香さまに追いかけられた恐怖で手元が少し震えていた。
早く作業を終わらせて安心したい一心で、私はスマホの画面をろくに確認もせず、今日撮影した画像フォルダ内のデータを『すべて選択』し、一括アップロードのボタンを勢いよくタップした。
『送信が完了しました』
画面に表示されたチェックマークを見て、私は大きく息を吐き出した。
「ふぅ……。これで、偽装工作もばっちりですね。生徒会が私たちのSNSを覗きに来ても、そこにあるのはただの真面目な女子高生たちの日常だけです」
「ええ、完璧な防壁だわ。これで見回り(監査)が来ても、笑顔で追い返せるわね」
アリス先輩も満足げに頷き、部活の解散を宣言した。
* * *
「フフ、フフフフ……。生徒会が何ですか。副会長が何ですか」
旧校舎を出て、夕焼けに染まる校門へと向かう私の足取りは、行きとは打って変わって非常に軽やかだった。
スキップでも踏み出したい気分だ。
サキュバスとしての高度なステルス能力で危機を脱し、さらに写真部一丸となった完璧な偽装工作によって、生徒会の追及の手を見事に遮断したのだ。
(我ながら、今日の私は冴え渡っていましたね。あの絵里香さまの鼻を明かしてやったかと思うと、ゾクゾクしちゃいます。これで私の平穏なサキュバスライフは守られました……!)
カモフラージュ用のSNSなんて、どうせフォロワーもいない過疎アカウントだ。
真面目に活動しているという『形』さえ残れば、誰も中身を精査などしやしない。
私はポシェットの中の一眼レフカメラを愛おしそうに撫でた。
中には、あの誰も見たことのない、清子さまの『恋する乙女のような美しい素顔』のデータが、誰にも知られることなく眠っている。家に帰ったら、これを大画面で眺めながら、じっくりとリビドーを回復させるのだ。
「あー、今日も良い仕事をしてしまいました。早く帰って、お布団に潜り込みましょう」
私はすっかり安心しきって、意気揚々と帰路についた。
自分の確認不足で、その『絶対にアップしてはいけない神域のデータ』まで、過疎SNSのタイムラインへ同時に放流してしまったことなど、この時の私は夢にも思っていなかったのだった。
(第20話へ続く)




