第12話 筒抜けの秘密作戦と、漆黒の追跡者(レディ・ドロップ)
【現在の蓄積リビドー:70%】
「ふはぁ〜〜〜〜……。助かりました……」
数分前まで地獄の尿意と戦っていた私は、魂が口から半分抜け出たような、実にお見苦しい顔でトイレの個室から這い出てきた。
なんとか一人の女子高生としての、そしてサキュバスとしての尊厳は守られた。
守られた、のだが……。
(ああ、ダメです。尿意が去って冷静になった途端、あの個室に充満していた魅夜さんの甘い残り香の記憶が、再び私の脳髄をダイレクトに刺激してきます……っ)
一度は下がったはずのリビドーゲージが、私のどうしようもない限界オタク脳のせいで、再び70パーセントという危険水域まで跳ね上がってしまっている。
下腹部がじんわりと熱い。
早く自室に戻って、本日二度目のガス抜き(自家発電)をしなければ脳がとろけてしまいそうだった。
ジャージの襟元を正し、二階へ続く階段へ向かおうと廊下を歩き出す。
その時、リビングのドアの僅かな隙間から、妹の天衣ちゃんの、いつもより少しトーンの低い真剣な声が漏れ聞こえてきた。
「それじゃあ、雑談はこのくらいにして——二人とも……そろそろ『ピュア・セラフィム』の話をするわよ」
ピタ、と私の足が止まった。
(ピュア・セラフィム……? はて、何のことでしょうか? 中学生の間で流行っている最新のアニメの名前か何かですかね……?)
普通なら、妹とそのお友達の微笑ましいごっこ遊び(?)だと思ってスルーするところだ。しかし、サキュバスとしての本能が、私の背筋にゾクゾクとした冷たい警告を送ってくる。
なにか、とてつもなく嫌な予感がする。
私は自室に引きこもるのを止め、妹たちの会話を盗み聞きするべく、さりげなくその場に立ち止まって聞き耳を立てることにした。
* * *
自分で言うのも悲しい話だが、私は日頃からクラスの底辺に生息する、隠密特化のジメ子である。教室でも家でも、とにかく存在感が薄い。
気配を消して、誰にも気づかれずに他人の会話を盗み聞きすることにかけては、プロフェッショナルと言っても過言ではないのだ。現に、リビングのすぐ外にジャージ姿の姉が張り付いていることなど、中の誰も気づいていない。
私は息を殺し、ドアの隙間に全神経を集中させた。
「——最近この町で、強力な悪魔の気配が多数出現しているわ。パトロールの回数を増やさないと、いつ一般人に被害が出るか分からない」
天衣ちゃんの、いつになく凛とした声。
(えっ? あ、悪魔……? 待ってください、なぜ天衣ちゃんがそんな単語を……?)
「パトロールを増やすって言ってもよぉ。わたしらも現役の読モだしさー、レッスンとか撮影とかで結構忙しいんだけど?」
次に聞こえたのは、赤髪ツインテールのメスガキこと、雛ちゃんの面倒くさそうな声だった。
「雛、愚痴を言わないの。街の平和を守るのが、天界から力を授かった私たちの使命でしょう? ……天衣の言う通りパトロールは強化したいけれど、現実的には、ルキちゃんが不穏な気配を察知するたびに私たちが現場へ倒しに行くという、現状のやり方を続けるしかないわね」
サファイアブルーの髪を持つ清楚美少女、魅夜さんの冷徹で落ち着いた声が、信じられない内容を淡々と告げる。
【現在の蓄積リビドー:72%】
(て、天界……!? 力の授与……!? 街の平和を守る……!? ちょっと待ってください、それってまるで……!)
私が廊下で目玉を飛び出させそうになっていると、さらに追い打ちをかけるように、あの聞き慣れた『犬の鳴き声』が響き渡った。
『お喋りはそこまでだワン、みんな! 悪魔の気配だワン! 非常にドロドロとした、破廉恥で強力な悪魔のエネルギーが、このすぐ近くで急激に膨れ上がっているワン!』
ポメラニアンのルキちゃんに気付かれてしまったようだ。
「し、しまった……っ!!!」
私は思わず、自分の口を両手で強く押さえた。
心臓が、まるでドラムの連打のように激しく脈打ち始める。
【現在の蓄積リビドー:65%】
(恐怖によるリビドーの一時的な減少。しかし――)
(ドロドロとした破廉恥な悪魔の気配って、それ、絶対に今の私のリビドー(72%)のことじゃないですか!? 見つかりました! ついに、完全に正体がバレましたあああ!)
終わった。
私の平穏なジメ子ライフはここで終了だ。
ドアを蹴破って出てきた妹たちに、不審な悪魔として問答無用で浄化される未来が脳裏をよぎる。私は恐怖のあまり、その場にへたり込みそうになった。
しかし——
事態は、私の予想とは全く異なる方向へと動き出した。
「なんですって!? ルキ、場所はどこ!?」
「ここから南へ三キロ! 市街地の中心部だワン!」
「行くわよ、二人とも! ——ピュア・セラフィム、変身!」
天衣ちゃんの掛け声とともに、リビングのドアの隙間から、目も眩むような凄まじい『聖なる光』が溢れ出してきた。
あまりの眩しさに私が目を細めていると、部屋の中から衣服が擦れ合う音と、何やら不思議な呪文のようなものが聞こえ、直後、窓が勢いよく開け放たれる音がした。
シュバッ! シュバッ! シュバッ!
三つの可憐な影が、背中に小さな白い羽を羽ばたかせながら、リビングの窓から大空へと飛び出していったのだ。
白いモフモフのポメラニアンを小脇に抱えた天衣ちゃんたちが、あっという間に遠くの空へと消えていく。
静まり返る我が家。
私は、開いた口が塞がらないまま、ゆっくりと立ち上がった。
* * *
「よ、よかった……。私に気づいたわけでは、ないようですね……」
床に座り込み、はぁーっと深い安堵の息を漏らす。
ルキちゃんが察知したのは、どうやら街の南に出現した別の悪魔の気配だったらしい。すぐ目の前にいる私の70%のリビドーには目もくれず、遠くの気配に釣られていってくれたのだ。
本当にポンコツな犬で助かった。
だが、安堵の後には、あまりにも巨大すぎる事実が頭を殴りつけてきた。
(それにしても……何ということでしょう。あの三人が、私を脅かす『天使』に覚醒していたなんて……。しかも、天衣ちゃんが拾ってきたあの口の悪いポメラニアンは、天界の回し者だったのですか……!?)
灯台下暗し。
天敵は、最初から我が家のリビングに居座っていたのだ。
【現在の蓄積リビドー:80%】
驚愕の事実に脳がパニックを起こす一方で、私のサキュバスとしての血が、ドクドクと怪しく脈打ち始めた。
天敵が妹たちだったという恐怖。
しかしそれ以上に、あの清楚で生意気な中学生たちが、天界の戦士として変身して戦うという事実に、私の不謹慎なリビドーが最高潮に達しようとしていた。
「……このまま、部屋で大人しくエロゲーをしている場合ではありませんね」
私はニヤリと、前髪の奥で妖しい笑みを浮かべた。
彼女たちの正体を知ってしまった以上、そしてこの街のどこかで悪魔との戦いが始まる以上、見届けるのが『姉』としての、そして『悪魔』としての義務というものだろう。
「——力を解放します」
私は胸元に手を当て、体内に眠る淫靡な魔力を一気に引き出した。
まばゆいピンク色の光が私のヨレヨレのジャージを包み込み、光が収まった後には、妖しい光沢を放つ漆黒のドレスを身に纏った、妖艶なるサキュバス『レディ・ドロップ』がそこに立っていた。
「ふふ、お留守番は性に合わないのです。可愛い妹たちの戦い、この姉が特等席で見守ってあげましょう」
私は自室の窓を静かに開けると、隠密の魔力を全身に巡らせ、存在感を完全に消し去った。
そして、夜の帳が下りつつある街の空へと、三人の天使の気配を追って、静かに跳躍したのだった。
(第13話へ続く)




