92.僕と、重い契約と、新業態
いつもなら僕のほうから獅子丸食品の本社へ足を運ぶのがお決まりのパターンだった。だから、特別寮のインターホンが鳴り、モニターにあの金髪のライオンの姿が映し出されたときは、心臓が跳ね上がるほど驚いた。
レミ社長が直接、特別寮を訪問してくるなんて本当に珍しい。
彼女にはまだ、僕がこの世界で唯一の『人間』であるという最大の秘密を明かしていない。慌てて大熊猫族のヘッドギアを厳重に装着し、リビングの応接スペースへ案内する。
それにしても、今日のレミ社長の顔つきは神妙すぎて、逆に怖いくらいだった。あのおろろろと泣きじゃくっていた姿の面影はなく、完全に百獣の王の冷徹なトップの覇気を纏っている。
一人で対峙するのは命の危険(物理的にも精神的にも)を感じたので、念のためにフェイ先生にも同席してもらうことにした。先生は「おや、面白いことになりそうだね」とでも言いたげな顔で、僕の隣に腰掛けた。
ソファーに向かい合って座ると、レミ社長は静かに、だけど真っ直ぐに僕の目を見つめて口を開いた。
「まずは、先日の私の軽率な行動と発言について、深く謝罪させていただきます。ヒロキくんを生命の危機に至らしめ、多大な恐怖を与えてしまったこと、本当に申し訳なかったわ」
いつもの「ギャル語」を完全に封印し、理路整然とした大人の口調。けれど、彼女の言葉はそこで終わらなかった。
「……ですが、あのとき口走ってしまった言葉に、嘘偽りは一切ありません」
レミ社長は一瞬だけ、耳をピクリと動かした。
「将来的に、私たちが夫婦……いえ、パートナーになれたなら、あなたには獅子丸食品の『会長』のポストを用意するわ。でも、それはあなたを組織に縛り付けるためのものじゃない。大象食品のアキラ専務とあなたが会談することに対しても、私は一切口を出すつもりはないわ。あなたの自由を、私が奪うような真似は絶対にしない」
さらに、レミ社長は手元のアタッシュケースから、きっちりと製本された書類を取り出してテーブルに滑らせた。
「それから、ビジネスの話。現在、私たちがあなたに支払っている『顧問料』についてよ。お好み焼きに始まり、今回の冷凍餃子、ラー油の単体販売……これほど数多くのヒット作品を世に送り出すきっかけを作ってくれたあなたに対して、現状維持の報酬ではあまりにも申し訳ないし、我が社のプライドが許さないわ。だから、顧問料の大幅な増額を提案させて。これを機に、お互いの権利と対価を明確にするためのちゃんとした契約書も準備してきたの」
非の打ち所がない、完璧なトップとしての立ち振る舞い。
自分の感情をきれいにコントロールし、僕の自由を尊重しつつ、ビジネスとしての誠意と、一人の女性としての不退転の決意をこれでもかと提示してくる。
……だけど。
(やっぱり、もの凄く『重い』……っ!!)
普段のギャルっぽさを抑えて、ここまで大真面目に「将来の夫婦」「会長ポスト」「契約書」を同時に並べられると、17歳の僕のキャパシティは完全に限界を迎えてしまう。隣に座るフェイ先生が、眼鏡の奥の目をニヤニヤと輝かせながら、僕の脇腹をツンツンとつついているのが分かって余計に胃がキリキリと痛む。
大象食品のアキラ専務からの破格の待遇提示に続き、今度はレミ社長からの直球勝負の契約書とプロポーズ(?)。
「……あ、ありがとうございます、レミ社長。あの、契約書、しっかり目を通させていただきますね……」
僕は引きつった笑顔をヘッドギアの裏に隠しながら、震える手でその重すぎる書類を受け取るのだった。
重すぎる書類を僕が受け取ったのを見届けると、レミ社長は小さく息を吐き、プロの経営者の顔に戻って次なる書類を開いた。
「続いて、『ししし屋』と『ししし餃子』の直近の売り上げ推移の報告に移るわね」
理路整然と報告書を読み上げるレミ社長。
まず、僕たちの原点である『ししし屋』。こちらはお好み焼きやたこ焼きという新しい食べ物がすっかり定着したこともあり、数字としては高いレベルを維持したまま、現在は安定した「横這い」の推移を見せているらしい。市場に深く根付いた証拠だ。
そして、先日オープンしたばかりの『ししし餃子』。
「さっきヒロキくんが言っていた通り、ランチャームの導入による爆発的な跳ね上がりこそなかったけれど……それでも、現在の売り上げ水準は『ししし屋』を大きく上回る数字を叩き出しているわ」
これには僕もホッと胸をなでおろした。レミ社長の分析によると、スーパーの冷凍餃子だけでなく、店舗で買ってその日のうちに家で焼く、冷凍していない『生餃子』のテイクアウトが予想以上に大健闘しているのが要因らしい。やっぱり「お店の味をそのまま生で持ち帰れる」という贅沢感は、この世界でも強い。
さらに、物販のほうも順調そのものだった。
「懸念されていた『焼肉のタレ』などの販売製品だけど、グヌマーとカンサイの工場が本格的に稼働し始めたことで、現在は安定供給が滞りなく行われているわ」
流通のラインが綺麗に整ったことで、獅子丸食品の足腰は以前より確実に強くなっている。レミ社長の迅速なインフラ整備には本当に頭が下がる思いだ。
一通りの数字の報告を終えると、レミ社長は書類を机に置き、組んだ指の上に顎を乗せて、僕をじっと見つめてきた。
「そこで、ヒロキくん。これだけの基盤が整った今、そろそろ次のステップに進みたいと考えているの。具体的には、テイクアウトや手軽なスナック感覚の軽食じゃない業態で、新しく『飲食店』を出せないかしら?」
「次の業態、ですか……」
「ええ。一応、うちには高級路線の鉄板焼きとして『ししし亭』があるけれど、私たちが次に狙うべきは、もっと広い層にアプローチできる『大衆向け』の店舗型クッキングよ。何か良いアイデアはないかしら?」
レミ社長はそう言って、試すような、だけどどこか期待を孕んだ笑みを浮かべた。
大衆向けの、店舗で食べる、テイクアウトじゃない新業態。
レミ社長のあの淀みのない口調と、確信に満ちた目の輝き。これ、絶対に彼女の頭の中には、すでに「これだ」という明確なイメージが浮かんでいるはずだ。
それをあえて僕に言わず、質問という形で投げてくるあたり……これは、自分の思い描く未来の景色が、目の前の「未来の旦那様(※ただし100%未確定)」と一致しているかどうかを確かめるための、無言の試練を課されているような予感がした。
もしここで僕が、彼女の理想と全く違う的外れな提案をしたら、せっかく落ち着いたレミ社長がまた「おろろろ……私たちの未来の方向性がズレてるわぁぁぁ」とネガティブ大爆発を起こしかねない。
僕はヘッドギアの裏で冷や汗を流しながら、必死に脳細胞をフル回転させた。
獅子丸食品が今持っている強力な武器。それは、お好み焼きの鉄板技術、餃子の調理ノウハウ、そして何より――。
僕の視線が、テーブルの隅に置かれた大象食品の『冷凍うどん』のパッケージに、一瞬だけ吸い寄せられた。
……いや、待てよ。大象食品が『うどん』で攻めてきているんだ。そして僕の手元には、今さっき完成したばかりの、あの最高に美味い「鶏白湯スープ」がある。
大衆向け、温かいスープ、みんなで囲む、あるいはサッと食べられる店舗。
元の世界で、老若男女を問わず圧倒的な国民食として君臨していた、あのジャンル。
「……レミ社長。もしかして、考えているのって、専門の『麺類』をその場で食べさせるお店……、それとも、みんなでテーブルを囲むあっちのスタイルですか?」
僕が慎重に探りを入れると、隣で静観していたフェイ先生が、面白そうに「ほう」と喉を鳴らした。レミ社長の耳が、僕の言葉に反応してピクリと動く。
未来を賭けた僕の次なる提案の行方に、社長室ならぬ特別寮の談話室に、心地よくも張り詰めた空気が流れるのだった。




