90.僕と、アキラ専務と、トップの立ち回り
「やあ、ヒロキくん! おじゃまするよ!」
噂をすれば影とはまさにこのことだ。
リビングでサリーと鶏白湯うどんの美味さに感動していたその日の夕方、大象食品のアキラ専務が、再びあの眩しい白スーツ姿で特別寮を訪ねてきた。
今回は一人ではなく、後ろにスーツをパリッと着こなした、物静かで知的な雰囲気を纏う猫族の女性を連れている。その彼女の両手には、これでもかと重そうな段ボール箱が抱えられていた。
「いよいよ我が社の『冷凍うどん』の正式販売が決まってね! ぜひ君に一番に届けたくて、製品版をたくさん持ってきたんだ」
アキラ専務はそう言って、段ボールから仕上がったばかりのパッケージを1つ取り出して僕に見せてくれた。驚いたのは、その裏面を見たときだ。
「あ、これ……!」
パッケージの裏の調理例の欄に、先日僕が即興で作って振る舞ったあのメニューが『ピリ辛卵黄うどん』というネーミングで、綺麗な写真とともにレシピ付きでバッチリ掲載されていたのだ。
「これの使用料、いわばロイヤリティとしての謝礼だ。受け取ってくれ」
専務が合図を出すと、同行していた猫族の女性が、段ボールと、そして……ずっしりと厚みのある茶封筒をそっと手渡してきた。中身を見なくても、それがかなりの額の「現金」であることは容易に想像がついた。
「い、いや! 専務、まだ僕は大象食品さんへの入社を決め兼ねていますし、こんな大金は受け取れません……!」
慌てて固辞しようとする僕に、アキラ専務は白い歯(牙?)を覗かせてニカッと爽やかに笑った。
「ははは、それとこれとは話が別さ! 私は心底、君のあの料理の虜になってしまってね。我が社の社運をかけた製品に、君の素晴らしいアイデアを刻ませてもらったんだ。相応の謝礼をしないと、ビジネスマンとしても、一人の男としても私の気が済まないのさ」
そうまで真っ直ぐな目で言われてしまうと、これ以上拒否するのも野暮に思えてきて、僕はありがたく封筒を預かることにした。獅子丸食品の時はレミ社長の勢いに流されて曖昧になっていた「アイデアへの正当な対価」を、大象食品はこうしてきっちり形にして示してくれる。そのビジネスとしての誠実さは、純粋に凄いなと思った。
……と、そこでお盆を運ぶ僕の手元に、目ざといアキラ専務の視線が突き刺さった。
長い鼻をピクピクと、先ほどよりも激しく動かしている。
「……ヒロキくん。もしや、そこに漂っているのは……新しいスープかね?」
さすがは冷凍食品のヒットメーカー、美味い匂いに対する嗅覚が尋常じゃない。コンロの上の寸胴鍋から漂う、濃厚な鶏の香りを一瞬で見抜かれてしまった。
これはもう、料理人として食べさせないわけにはいかない流れだ。
「ええ、ちょっと試作中に行き着いたスープなんです。大象さんのうどんで、一杯作りますね」
僕は手早く正式版の冷凍うどんをIHで仕上げ、例の白濁させてしまった鶏白湯スープを注いだ。
まずはスープを一口、そしてうどんを絡めて口に運んだ瞬間――アキラ専務の顔が、見たこともないほど恍惚とした表情へと変わった。
「な……なんだこれは……! 濃厚なのに、クドさが一切ない……! 麺のコシが、この濃密なスープを完璧に引き立てている……っ!」
衝撃のあまり言葉を失っていた専務は、ハッと我に返ると、隣に控えていた猫族の女性の肩を掴んだ。
「おい、お前もこれ食ってみろ。――飛ぶぞ」
元の世界でもなんとなく聞き覚えのあるセリフで専務に勧められ、普段は冷静沈着そうな秘書の女性も、恐る恐るスープを一口口に含んだ。
……次の瞬間、彼女の長い猫耳がピンと直立し、専務と全く同じ、恍惚とした表情のまま完全にフリーズしてしまった。主従揃って、脳内でどこか遠くへ飛んでいってしまっている。
「いやあ、素晴らしい! またしても君に新たな発見をさせてもられてしまったよ! ヒロキくん、私は君と、ぜひとも長〜いお付き合いをお願いしたいね!」
意識を取り戻したアキラ専務に、ガシガシと親しげに肩をポンポン叩かれた。
正直なところ、会社のしがらみさえなければ、この人はすごく気の良い、話の分かるお兄さんという感じで、めちゃくちゃ気が合いそうなんだよね……。これでまた一つ、僕の中に贅沢で、そして胃の痛い人間関係の悩みが出来上がってしまった。
専務の圧倒的な包容力に甘えて、僕は少し気になっていた「この世界の家庭事情」について、思い切ってプライベートな質問をぶ走らせてみることにした。
「あの……専務は、その……既婚者、なんですか?」
「ん? ああ、私かい? 妻なら3人いるよ」
「さ、3人……!」
やっぱりそうなのか。フェイ先生の話は本当だったんだ。絶句する僕に、専務はさらに驚くべきことを教えてくれた。
「実はね、そこにいる彼女が、私の『第一夫人』なのだよ」
「ええっ!?」
僕が声をあげると、さっきまでスープの美味さに飛んでいた秘書の女性が、ふっと上品に微笑んで小さく一礼した。同じ会社で公私ともに専務を支えているらしい。さらに、残りの2人の奥様も同じ大象食品の別の部署で働いているのだという。
「我が社の社長である父も妻が3人いてね。私の弟――同じく専務取締役をやっている男だが、彼は異母兄弟なんだ。だが、君が心配するような跡目争いや、妻たちの序列争いなんてものは、我が家には一切ないよ。みんな非常に仲が良い」
ドロドロした昼ドラのような世界を想像していた僕は、専務があまりにもあっけらかんと「全員仲良し」だと言うので、拍子抜けすると同時に、猛烈に興味が湧いてしまった。
どうやったら3人もの奥さんがいて、しかも同じ会社にいて、全員が穏やかに、かつ円満に暮らしていけるんだ……!? その立ち回り、というかメンタルコントロールの極意、いつかじっくり問い詰めたい。
「では、ヒロキくん。また素晴らしいスープの進展があったら教えてくれ。うちへの入社の件も、色よい返事を待っているよ」
アキラ専務は最後まで爽やかな風を特別寮に残し、第一夫人である秘書の方と仲良く並んで帰っていった。
手元に残されたのは、大量の冷凍うどんと、茶封筒のずっしりとした重み。
そして、一夫多妻を完璧に乗りこなしている人生の先輩からの、あまりにも濃すぎるアドバイスの余韻だった。
「会社経営も、家庭経営も、この世界のトップ層はレベルが高すぎる……」
進路の悩み、そして人間関係の悩み。
2つの大きな宿題を抱えながら、僕は茶封筒を机に置き、とりあえず今夜は、残った鶏白湯うどんをさらに美味しくするためのトッピングについて考えることで、現実逃避を試みるのだった。




