89.僕と、自意識過剰と、鶏白湯スープ
「ダメだ、完全に自意識過剰になってる……」
キッチンのIHコンロの前で、僕は小さく頭を振った。
フェイ先生から聞いた「この世界の婚姻・恋愛事情」と、レミ社長やサリーたちの言葉が、頭の中で巨大なパズルになってグルグルと回り続けている。
これまでは「みんなが喜んでくれる美味しいごはんを作る」ということだけを純粋に考えていればよかったのに、一度意識してしまうともうダメだった。
リビングでサリーと目が合うだけで「……もし結婚するってなったら、やっぱりサリーのご実家に正式に挨拶に行かなきゃいけないのかな」とか、「猫族の伝統的な結納って何を持っていけばいいんだ?」とか、勝手に思考が未来へすっ飛んでしまう。
さらに、一夫多妻がシステム的に可能だと知ってしまったせいで、余計なことまで頭をよぎる。
「いや、待てよ……もし本当にそうなった場合、序列とかどうなるんだ? 最初に出会ったサリーが第一夫人? でも年齢や社会的な地位で言ったらレミ社長のほうが上だし、アオイさんだって大スターだし、アニーは『うちが一番やろ!』って絶対怒るし……」
考えれば考えるほど、恐ろしい家庭内紛争の未来予想図しか浮かんでこない。
そんな不純な(というよりパニックに近い)雑念を抱えながら料理なんてできるはずがなかった。
ピピッ、ピピッ、とIHの安全警告音が鳴ってハッと我に返る。
「あ、また焦げた……!」
手元の玉子焼き器では、ほんのり優しい黄色に仕上がるはずの炒り卵用の卵液が、トッププレートの高火力に負けて、これで3回目となる黒い焦げ目を綺麗にまとっていた。こんな初歩的なミス、特別寮の厨房に立つようになってから一度だってやったことがないのに。
それだけじゃない。
シンクの横の深い寸胴鍋からは、ゴボゴボと激しい音が響いていた。
IHの目盛りを弱めにして静かに旨味だけを抽出していたはずの鶏ガラスープ。完全に熱量コントロールの入力を忘れ、グラグラと猛烈に沸騰させてしまっていた。
慌てて蓋を開けると、僕の理想とする「澄み切った琥珀色のスープ」とは程遠い、まるで豚骨スープのように真っ白く濁った液体が激しく波打っていた。
「うわぁ……白濁しちゃった。これじゃあ上品なタレのベースに使えないや……」
お玉でスープをすくい上げながら、僕は深いため息をついた。
焦げた卵に、濁ったスープ。料理は嘘をつかない。僕の心の迷いが、そのまま形になって現れている。有毒ガスが出ない安全な電気のキッチンなのに、僕の頭の中だけが一番危険な状態だ。
「しっかりしろ、僕。まだ誰に告白されたわけでもないし、進路のことだって決まってないのに、一人で何をごちゃごちゃ考えてるんだ……」
冷たい水で顔を洗い、ヘッドギアの位置をきゅっと直す。
目の前には、楽しみに待ってくれている寮生たちがいて、カントウの街には僕の餃子を待っているお客様がいる。今はこんなことで悩んで、料理のクオリティを落としている場合じゃない。
白濁してしまったスープを味見してみると、
「……待って。これ、ちょっと信じられないくらい美味いぞ……!」
怪我の功名とはまさにこのことだ。
加熱しすぎてしまい、真っ白に濁らせてしまった鶏ガラスープ。捨てるのはもったいないからと、塩と少しの醤油で味を調え、そこに大象食品のアキラ専務からサンプルで貰ったあの『冷凍うどん』を合わせてみたのだ。
即興で作った『鶏白湯うどん』。
これが、僕の想像を遥かに超える大傑作になってしまった。
箸で麺を持ち上げ、ずずっとすする。
大象食品の冷凍うどんは、ただでさえ驚異的なコシとツヤがある。それが、強火(高火力IH)でガンガン沸騰させたことで鶏の旨味とコラーゲンが完全に乳化した濃厚な白湯スープを、これでもかと表面に纏って上がってくるのだ。
スープのガツンとしたコクに、小麦の風味が全く負けていない。むしろ、うどんの強い弾力がスープの濃厚さを受け止めて、完璧なバランスを保っている。
「うわぁ、何これ……めちゃくちゃ美味しい……!」
いつの間にかキッチンの入り口に立っていたサリーが、鼻をピクピクさせながら目を輝かせていた。どうやら濃厚なスープの香りに釣られてやってきたらしい。さっき部屋に逃げ帰った気まずさなんて、美味そうな匂いの前には霧散してしまったようだ。
「サリー、ちょうどいいところに来た。これ、ちょっと食べてみて」
「えっ、いいの……? じゃあ、いただきます……」
小さな器に小分けにして渡すと、サリーはふーふーと息を吹きかけ、長い耳を揺らしながらうどんを口に運んだ。
次の瞬間、サリーの丸い猫目がさらに大きく見開かれる。
「……んんーっ! すごい、すっごく濃厚! この太くてツルツルした麺にすっごく合う!」
「でしょ? 大象食品の冷凍うどん、ポテンシャルが高すぎるよ」
サリーが幸せそうにスープまで一滴残らず飲み干す姿を見て、僕の頭の中で、さっきまでモヤモヤと渦巻いていた雑念が綺麗に消え去っていくのが分かった。
やっぱり、僕の原点はここだ。
誰が第一夫人だとか、実家への挨拶がどうとか、そんな先のことで頭を悩ませる前に、目の前にある食材と向き合って、最高に美味い一皿を作る。それが僕の役割だし、一番楽しい時間なんだ。
「アキラ専務、とんでもない武器を置いていってくれたな……」
このコシの強い冷凍うどんと、僕の鶏白湯スープ、そしてあの自家製ラー油を数滴垂らしたら、それだけで大ヒット間違いなしの新メニューができる。
獅子丸食品との絆も、レミ社長の情熱も大切だ。だけど、大象食品が持つこの圧倒的な「技術力」も、料理人としてはどうしても無視できない。
「よし……。どっちの会社と組むにしても、あるいは全然違う道を歩むにしても、まずはこの世界の食文化をもっともっと面白くしてやるぞ」
すっかり料理モードに脳が切り替わった僕は、もう焦げた卵を作ることも、スープの火加減を間違えることもない…と思いたい。
手元に残った試作のうどんを豪快にすすりながら、僕は再び、料理人としての確かな自信を取り戻すのだった。たぶん。




