88.僕と、嫁候補と、獣人世界のルール
「はははは! そいつは災難だったな、ヒロキ!」
特別寮の談話室で、事の顛末をかいつまんで話すと、フェイ先生はいつものようにソファーに深く腰掛け、お腹を抱えて大爆笑した。
「笑い事じゃないですよ! 本当にヘッドギアが壊れるかと思いましたよ……。息はできないし、いい匂いはするし、実際にお花畑と川が見えましたし、本気で命の危機だったんですから!」
僕が本気で抗議すると、フェイ先生はようやく笑いを収め、ニヤニヤとした笑みを浮かべた。
「レミはああ見えて、中身はものすごい乙女なんだよ。ずっと戦いの中にいて、ようやく自分と対等に話せる、肩を並べられる男が現れたんだ。そりゃあ大象に手放したくないわな。……おそらく、君はあの子の初恋の相手だぞ?」
「は、はあ!?」
僕が素っ頓狂な声をあげると、フェイ先生はふっと真面目な教育者の顔に戻り、顎に手を当ててレミ社長の背景を分析し始めた。
「レミは優美林の女子高、女子大と、完全に女性ばかりの環境の中で学び、卒業してすぐに獅子丸食品の幹部となった。彼女ほどの地位と美貌があれば、周りに寄ってくるのは地位目当てか、媚びへつらう男ばかりさ。社長の座を引き継いだとはいえ、彼女は中身はまだ25歳の若い女性だ。自分がこれから先、普通に家庭を築けるのかどうか、きっと人知れず不安だったのだろうね」
先生の分析を聞いて、少しだけレミ社長への申し訳なさが湧いてくる。……とはいえ、あの質量兵器並みの抱擁を思い出すと、やっぱり胃のあたりがキュッとするけれど。
「それにしても、君はモテモテだなあ。アオイにサリーに、今度はレミか。他の寮生たちだって男性慣れしていないこともあって、君への特別な感情は少なからずあるだろう。……いっそもう、みんな嫁に貰えばいいんじゃないか?」
「何言ってるんですか! そんなのムリに決まってるでしょう! だいたい法律ってものが……」
「法律?」
フェイ先生が不思議そうに片方の眉を上げた。
「へ? いや、普通、一人の男性が結婚できるのは一人の女性だけでしょ? いわゆる『一夫一婦制』っていう……」
「ここにはそんなものないぞ?」
「……え?」
「一応、その『一夫一婦』とやらが美徳とはされているが、厳密に言えば法の定めではない。例えば、グヌマーの白虎族、ハク族長なんて50人以上の妻を娶っているぞ」
「ご、ごじゅう……っ!?」
まさかの衝撃の事実が発覚した。ハクさん、あのストイックな顔をして50人以上も奥さんがいるのか。白虎族の圧倒的な少子化対策、文字通り身体を張ってやってるんだな……。
僕が脳内フリーズを起こしていると、フェイ先生は興味深そうに身を乗り出してきた。
「ちなみに、君がいた時代の人間の男女は、恋仲になるまでにどのようなプロセスを辿るのだ?」
「え、プロセスですか? ……まずは、お互いに何回かデートとかして、気持ちが固まったら『好きです、付き合ってください』って告白して……」
「それは男性の方からか?」
「場合によりますけど、だいたいは男のほうからですね」
「なるほど、まずその点が大きく違う。この世界で男から愛の告白なぞ、ほぼありえないな」
「ぇぇぇぇ!?」
本日二度目の衝撃に、思わず声が裏返った。
「結婚にしても、もちろん双方の同意は必要だが、主導権は完全に女性にある。もし男性からの強要が発覚すれば、その婚姻関係は一切認められない。昔の世界には年端もいかない少女と関係を結ぼうとする不届きな男もいたようだが、今は第三者機関も発達しているので、そういったケースは厳しく排除されるようになったからね」
フェイ先生の話を整理すると、現代のこの世界が『一夫一婦』を美徳としているのは、単に「お互いに一途」という純愛精神の現れだけではないらしい。
そもそも、二人以上の妻、そしてそこから産まれる子供たち全員を不自由なく養えるだけの、並外れた経済力が必要なのだ。さらに、いくら多妻を認めているとはいえ、当然ながら妻同士の序列やマウント争いといった、家庭内トラブルもついて回る。要するに、一夫多妻は「恐ろしく金がかかる上に面倒くさい」という、現実的な問題のほうが強いのだ。
「なるほど……。じゃあ、ハクさんは相当な資産家で、なおかつ家庭内をまとめるカリスマ性があるってことか……」
「白虎族の場合は、種族維持の意識が高すぎるせいもあるけどな」
僕が妙に納得していると、フェイ先生はソファーから立ち上がり、部屋の出口へと歩き出した。そして、扉に手をかけたところで、振り返って僕にいたずらっぽいウインクを投げかけてきた。
「ま、そういうわけだから、選択肢は広めに持っておくといい。……あ、ちなみに、君の嫁候補には私も入っているかもしれないぞ?」
「――っ!?」
冗談とも本気とも取れる爆弾セリフを残して、フェイ先生はヒラヒラと手を振りながらリビングを去っていった。
一人残された僕は、しばらく椅子のポーズのまま動けなかった。
サリーの「一緒に歩いていくために」という言葉。レミ社長の「私ごと会社をあげる」という号泣。そしてフェイ先生の「私も候補」発言。
料理とビジネスで世界を変える。そのために進路をどうするか真剣に悩んでいたはずなのに、気づけばそれ以上にややこしい「この世界の婚姻・恋愛観」という巨大な迷宮に放り込まれてしまった。
その夜、僕はベッドの中で何度も寝返りを打った。
昼間のレミ社長の強烈なハグの感触が蘇るのと、これから先、自分がどんな未来を選ぶべきなのかというぐるぐるした思考、そして何より、キャパシティを完全にオーバーした脳のせいで、胃がキリキリと痛んで全く寝付けない最悪の夜を過ごすのだった。




