87.僕と、獅子の咆哮と、見えた花畑
「ヒロギぐーーん! おろろろ……!」
事務的な用事があって、いつも通り獅子丸食品の社長室へ足を運んだ瞬間のことだった。扉を開けた僕の視界に、大粒の涙をボロボロと流しながら猛スピードで突進してくる獅子の影が映った。
ドガァァン!!!
「ぶふっ!?」
それはもはやタックルという名の質量兵器だった。凄まじい衝撃とともに僕は背後の壁まで吹っ飛ばされ、そのまま床に押し潰される。
「ねえ、私たちを見捨てるの? 大象さんに行っちゃうのぉぉぉ? おろろろろろ……!」
どうやら、大象食品のアキラ専務からヘッドハンティングされているという話が、どこから漏れたのかすでにレミ社長の耳に入っていたらしい。情報網の早さが完全に裏目に出ている。
「あだじ〜ヒロキぐんに甘えちゃって〜お金のこととか〜適当になっちゃったから〜おろろろろ……!」
レミ社長は僕の体を折れんばかりの力でがっちりとハグしながら、泣きじゃくりながら捲し立ててくる。
だけど、百獣の王の系統たる獅子族のガチの抱擁力(文字通りの怪力)と、至近距離から漂う大人の女性のめちゃくちゃいい匂いと、何よりその豊かな胸部に顔が完全に埋まってしまっているせいで、物理的に酸素が遮断され、正直なところ僕は何も聞こえていなかった。
(あ、これ……普通に死ぬ……息が……っ)
「やだぁぁぁ! ヒロキくん、行っぢゃいやー! おろろろろ……!」
「しゃ、社長! ヒロキ様の顔色が大変なことに……ああ! 白目剥き始めてる!! これでは違う意味で遠いところに行ってしまいます!」
社長室に控えていた側近の黒服の一人が、僕の異変に気づいて悲鳴をあげた。
「ヒロギぐぅぅーん……お金もあげるし、なんなら私もあげるからぁぁ……おろろろろ……!」
「なっ、社長、何を口走って……! とにかく離れてください! おい、他の黒服にも応援要請だ!」
「いやぁぁぁぁ! ヒロキくぅぅぅん! おろろろろ……!」
社長室がにわかに大パニックに陥る中、レミ社長は僕にすがりついたまま頑なに離れようとしない。
バタバタと何人もの屈強な黒服たちが部屋に飛び込んできて、大の大人が4、5人がかりでレミ社長の腕を引っ張る。
「社長、落ち着いてください!」「ヒロキ様の命の灯火が消えかけています!」
増援部隊による決死のプロレスさながらの引き剥がし工作により、数分後、ようやく僕はレミ社長の強固なホールドから解放された。
ドサリ、と社長室の絨毯の上に仰向けに倒れた僕の視界は、ぐにゃぐにゃと歪んでいた。
ハァ……ハァ……と荒い息を吐く僕の視界の端には、なぜか見たこともない綺麗な色彩のお花畑と、その中央を緩やかに流れる三途の川のような川が見え隠れしていた。
黒服さんたちの必死の説得でどうにか落ち着きを取り戻したレミ社長が、今度は社長室の絨毯の上で、非の打ち所がないほど綺麗な姿勢で土下座をしていた。
「この度は私の軽率な行動により、ヒロキくんを生命の危機に至らしめたことを、ここに謹んで反省させていただきます」
キリッとしたいつもの凛々しい声で謝罪の言葉を述べた、その直後。レミ社長が顔を上げると同時に、その大きな瞳から再びポロポロと涙が溢れ出た。
「おろろろろ……!」
そして、再び綺麗な放物線を描いて床へ突っ伏し、土下座の体勢に戻ってしまう。
これでは話が進まない。僕はため息を吐きながら床に膝をつき、レミ社長の肩をそっと抱えて、どうにかソファへと立たせた。
「レミ社長、もう起きてください。……確かに大象食品のアキラ専務から、直接引き抜きの話はいただいています。でも、大象さんに行くかどうかは、僕自身も本当に悩んでいるんです」
「ふぇ……?」
涙目で僕を見上げるレミ社長に、僕は正直な胸の内を明かすことにした。
「今の『寮長』っていう立場もありますし、みんなが卒業した後のこととか、実際これからの進路にすごく悩んでいたところなんです。だから、大象さんの話も含めて、獅子丸食品でこのままお世話になるかどうかも含めて、自分の将来の選択肢を模索中なんです」
僕の言葉を聞いたレミ社長は、今度は悲壮感たっぷりに顔を歪めて、ソファのクッションに顔を埋めた。
「ふぇぇぇん……それって、最終的にうちから離れる可能性もあるってことじゃん……。そうなっちゃうくらいなら、ヒロキくんに私ごと会社もあげちゃったほうがマシよおおぉぉ、おろろろろ……!」
先ほどからさらりと混ざる、あまりにも規格外な爆弾発言。
背後に控えている側近の黒服さんたちが、一斉に「ヒッ……!」と小さく悲鳴をあげて、顔を真っ青にしながらガタガタと震え始めている。大企業の筆頭株主でトップの女性が、17歳の少年に向かって「会社と私をあげる」と言っているのだ。彼らの胃の痛みが痛いほど伝わってくる。
「ちょっと、落ち着いてくださいレミ社長! 獅子丸食品っていう大会社も、社長自身も、今の僕にはあまりにも荷が重すぎるので要りませんって!」
僕としては精一杯の「僕なんかには勿体ないです」というニュアンスを込めて、全力のツッコミを入れたつもりだった。……けれど、これが完全に裏目に出た。
「ふぇぇぇん……あたし、いらないって言われたぁぁ……。しかも、暗に『重い女』って言われたぁぁ……もうダメだわ、あたしのプライドはズタズタよ……ふぎぃぃぃ……!」
「あ、いや、そういう意味じゃなくて……!」
レミ社長の思考回路は、僕の言葉をすべて最悪の方向へと変換し、どんどんネガティブな底なし沼へと沈んでいく。普段のあの知的で完璧なキャリアウーマンの姿はどこへやら。
今のレミ社長には、これ以上何を言っても燃料を追加するだけで、まともな話し合いにはならない――。
その空気を、背後の黒服さんたちも瞬時に察知してくれたようだった。一人の黒服さんがそっと僕の肩を叩き、すがるような目でアイコンタクトを送ってくる。
「ヒ、ヒロキ様。社長のこの状態は、しばらく冷却期間が必要です……。ま、また改めて、落ち着いてお話ししましょう。ささ、本日はこちらからお引き取りを……!」
「あ、はい。すみません、よろしくお願いします……」
黒服さんたちにエスコートされ、僕はそっと社長室のドアを閉めた。背後からはまだ「重い女……要らない……おろろろ……」という百獣の王のうめき声が微かに聞こえていた。
「はぁ……。なんでこんなことになってるんだろ」
どっと押し寄せる疲労感に肩を落としながら、僕は獅子丸食品の本社ビルを後にした。
進路の悩みは、どうやら僕一人の問題だけでは済まなくなってきたみたいだ。大きな渦の中心に自分がいることに、僕は改めて、胃のあたりがきゅっと痛むのを覚えるのだった。




