7.僕と、引っ越しと、ハンバーグ
「よいっしょっと……。ねえヒロキ、このベッド、新しい部屋のどこに置けばいい?」
新しくあてがわれた旧館の特別寮。
その廊下で、僕は自分の目を疑った。
サリーは木製の頑丈なシングルベッドを丸ごと背中に担いで、平然と階段を登ってきたのだ。
黒い猫耳を器用に動かし、尻尾でバランスを取りながら、まるでお気に入りのリュックでも背負っているかのような軽やかさである。
「え、ええっ!? サリーさん、それ一人で運んだんですか!?」
「あったり前じゃん。これくらい普通だよ? あ、アオイなんてさっき冷蔵庫を両手で抱えて持ってきてたよ」
僕は獣人たちの規格外の怪力にただただ圧倒されるばかりだった。
僕が手伝えることなんて、彼女たちのパワーの前には文字通り「塵」に等しい。
「あの……僕、足手まといになりそうなので、その間にみんなの晩御飯の買い出しに行ってきますね」
「あ、ホント? 助かるー! お腹ペコペコにして待ってるから、ガッツリ系で頼むね!」
サリーに笑顔で見送られ、僕は昨日とは別の、少し大きめのスーパーへと向かった。
正体がバレないようにパーカーのフードで耳は隠しておく。
カートを押し、賑やかな店内の調味料コーナーへと足を運ぶ。
今夜はみんなが引っ越しで体力を激しく使っているから、スタミナがつく肉料理にしよう。
そう考えて棚を見渡した時、僕は再び奇妙な違和感に足を止めた。
「……あれ? ないな……」
棚を一通り見渡してみるが、元の世界で当たり前のように使っていた調味料が、
ちょいちょいこちらには存在していないのだ。
例えば、ソースの棚。
「ウスターソース」はボトルで大量に並んでいるのに、なぜか『とんかつソース』や『お好み焼きソース』のような、ドロっとした濃厚なソースが一本も見当たらない。
さらに探してみるが、冷しゃぶに最高な「ポン酢」もなければ、
肉料理の定番である「焼肉のタレ」の類も一切置いていなかった。
「(パスタの時もそうだったけど……この世界の食文化、やっぱりどこか歪だ……)」
数億年という果てしない時間の中で、人類の文明が一度完全に風化し、
そこから獣人たちが独自に文化を再構築した『未来の地球』。
彼らは過去の遺物を断片的に発掘して文明を真似たのだろうか。
だから、伝わっているものと、失われたものの差が激しいのかもしれない。
しかし、落胆しかけた僕の目に、馴染みのあるパッケージが飛び込んできた。
「あ、でも……これはあるんだ」
棚の奥には、缶詰のデミグラスソース。そして別の棚には、お馴染みの赤と白のボトル——ケチャップとマヨネーズがしっかりと並んでいた。
ウスターソース、デミグラスソース、ケチャップ、マヨネーズ。
あるものはある。ないものはない。
この不思議なラインナップを見つめながら、僕の脳内のレシピ帳がパチパチと音を立ててめくられていく。
「よし……これだけ揃っていれば、あれが作れるな」
スタミナがついて、みんなが大満足して、この世界の調味料の組み合わせだけで最高に美味しくなる、あの洋食の王様。
僕はひき肉の塊と玉ねぎ、そして付け合わせのジャガイモをカゴに放り込み、
獣人たちがお腹を空かせて待つ、僕たちの『秘密の城』へと急ぎ足で引き返した。
買い物から特別寮に戻ると、すでに大まかな荷物の運び込みは終わっていた。
さすがは全員が驚異的な身体能力を持つ獣人たちだ。普通の人間なら数日はかかる引っ越しを、
彼女たちはものの数時間で終わらせてしまっていた。
「おかえりヒロキ! 晩御飯、何にしてくれたの?」
ロビーのソファで完全にエネルギー切れを起こし、
尻尾をだらんと垂らしていたコニーが、僕の姿を見るなり耳をピクッと跳ね上げた。
「今夜はハンバーグにします。みんな疲れてると思って」
「お、ハンバーグ! いいじゃん、私あれ大好きなんだよね!」
サリーが嬉しそうに八重歯を覗かせる。
どうやら、ハンバーグはこの世界でも一般的なメニューのようだった。
デミグラスソースやパン粉、ケチャップといった材料が普通にスーパーに並んでいたのも、そのためらしい。
彼女たちにとっては「食べ慣れた家庭の味」なのだ。
「(みんなが知ってる料理なら、なおさら手は抜けないな)」
新しい寮の広々とした厨房で、僕はさっそく調理に取り掛かった。
まずは玉ねぎを細かくみじん切りにし、IHヒーターの上でじっくりと飴色になるまで炒めていく。
それを冷ましてから、たっぷりのひき肉、パン粉、牛乳、そして隠し味に少々のウスターソースを加えて、一気に捏ね上げていく。
バチ、バチ、と手のひらで往復させて肉の空気を抜く心地いい音が、静かな厨房に響く。
「……ヒロキくん、それ、すっごくお肉が詰まってて美味しそう……」
いつの間にか、巨体をドアの陰から覗かせるようにして、アオイがじっと僕の手元を見つめていた。
彼女の鼻先が、早くもくんくんと動いている。
「ふふ、美味しく作りますからね。楽しみに待っていてください」
フライパンを熱し、成形した大きなタネを並べる。
僕のこだわりは、最初に両面を強火で一気に焼き固めて、肉汁の逃げ道を完全に塞ぐこと。
それから市販のデミグラスソースにケチャップや赤ワインを少し加え、弱火でじっくりと煮込みながら中まで火を通していく。
仕上げに生卵を別のフライパンに落とし、ぷっくりと膨らんだ美しい目玉焼きを作る。
さらに、付け合わせとしてカリッと黄金色に炒めたジャガイモを添えれば完成だ。
「皆さん、お待たせしました。今夜のディナー、ハンバーグプレートです!」
大皿に盛り付けられたのは、ツヤツヤとした深みのあるデミグラスソースを纏った分厚いハンバーグ。その上には白身の縁がカリッと焼けた半熟の目玉焼きが乗っており、横にはホクホクのジャガイモが並んでいる。
「わあ……! これ、本当にウチらが知ってるハンバーグ……?」
丸メガネを直しながら、委員長のピピが感嘆の声を漏らした。
「いただきまーす!」
待ちきれない様子でフォークを突き立てたサリーが、肉を一口大に切り分けた、その瞬間だった。
じゅわああああっ!
「ひゃっ!? お、お肉からスープが溢れてきたんだけど!?」
サリーが琥珀色の目を丸くして驚愕した。
切り口から、信じられないほどの澄んだ肉汁の鉄砲水が噴き出し、デミグラスソースと混ざり合っていく。彼女たちが普段食べているハンバーグは、肉汁が外に逃げてしまって、
もっと固くてボソボソしたものだったのだ。
「んむ……っ! なにこれ……柔らかい……! 噛むとお口の中で、お肉が溶けちゃう……!」
アオイが両頬を手で押さえ、幸せそうに身体をくねらせる。
「やっば! この目玉焼きの黄身をソースに絡めて食べると、濃厚さが爆発するんだけどー!」
コニーが金の尻尾をプロペラのように激しく振り回し、
フェイ先生も「ちょっとこれ、どこの高級レストランの味よ……。寮長、マジで採用して大正解だわ……」と悶絶している。
「よかった。味付けはこの世界にあるものだけですけど、焼き方を少し工夫すれば、肉汁はいくらでも閉じ込められるんですよ」
おとなしく微笑む僕の前に、カツンとお皿が差し出された。
「ヒロキ、おかわり」
「サリーさん、まだ食べるんですか?」
やっぱり猫耳少女の底なしの胃袋だけは、僕の料理の常識を遥かに越えているようだった。
けれど、みんなの幸せそうな笑顔に囲まれて、僕の新しい寮長としての初日は、最高の形で更けていくのだった。




