52.僕と、ヨーコ先輩と、卒業式
気が付けば、獣人世界のカレンダーは『355日』を指していた。
今年も残すところ、あと10日ほど。
時の流れの早さに驚かされる。
僕がこの世界に来てから、環境は劇的に変わった。一般家庭の多くにホットプレートと小型IHクッキングヒーターが爆発的に普及し、今やその波はカントウだけにとどまらず、国境を越えてカンサイやナンゴクにまで輸出されるようになっている。
ただ、あまりの爆発的ヒットゆえに、どこもかしこも深刻な品薄状態が続いているらしい。
そんな中、僕という超強力な製造ルートへのコネを持っているアニーのところには、カンサイの実家や親戚、はたまた「うち、あんたの遠い親戚やねん」と名乗る怪しい人物からまで、「なんとかホットプレートを融通してくれへんか!」という購入依頼のメッセージが毎日マシンガンのように殺到しているそうだ。
そんな激動の年末、僕は今、カントウの一等地にある高級鉄板焼き料理店のカウンター席に座っていた。
僕のすぐ隣に並んで座っているのは、優美林高校チアリーディング部の主将。いや、3年生のこの時期だから、今はもう「前主将」と呼ぶべきか。
連続ドラマの主演も務める新進女優、198cmの圧倒的スタイルを誇る柴犬系の美女、シバ・ヨーコ嬢だ。
目の前には、美しく磨き上げられた巨大な鉄板が鎮座している。その下には、最新鋭のIHクッキングヒーターの技術が組み込まれている。
実はこのお店、僕の入れ知恵やアイデアは一切入っていない。あのレミ社長が、ホットプレートの技術と獅子丸食品の食材ルートを掛け合わせ、「目の前で料理人が最高級の肉や海鮮を焼き上げる」というシステムを独断で考案し、ついこの前オープンさせたばかりの完全新規ビジネスなのだ。
僕の世界にあった高級鉄板焼きの業態を、自力で思いついて形にしてしまうんだから、やっぱりあのギャル社長の経営センスは恐ろしい。
お店の名前は、『ししし亭』。
高級感のあるシックな内装とは裏腹に、店のロゴには、ライオンが口元に肉球を当てて「しししっ」と悪巧みするように笑っているポップなイラストが描かれていて、なんともレミ社長らしい遊び心が目を引く。
「……すご。家庭用のホットプレートを、まさかこんな高級感のあるお店に化けさせちゃうなんて。レミ社長の頭の中って、一体どうなってるのかしらね」
ヨーコ先輩が、薄茶色のショートボブを揺らしながら、感心したように目の前の鉄板を見つめた。
彼女がカウンター席に座ると、それだけで絵になるような大人の色気とオーラが漂う。
じっくりと温められていく鉄板を前に、料理人が恭しく一礼し、最高級の食材を並べ始めた。ヨーコ先輩と過ごす、少し特別な年末の夜。ここから一体どんな話が始まるのか、胸の高鳴りを覚えながら、僕は静かに次の言葉を待った。
時は、3日前に遡る。
その日、寮を訪ねてきたヨーコ先輩は、僕に小さな封筒を差し出した。中に入っていたのは、オープンしたばかりの高級鉄板焼き店『ししし亭』の、特別なディナー招待状。
「卒業式を前に、一度ヒロキくんと2人だけでゆっくり食事がしたかったの」
いたずらっぽく、でも少しだけ寂しそうに細められた柴犬系の瞳に真っ直ぐ見つめられると、それだけでドキリとしてしまう。
この世界の暦は、元の世界のような誕生日という概念とは少し違っていて、『365日』が終わると、次の日には世界中の全員が一斉に歳を取るシステムだ。
つまり、年が明ければ僕たち1年生も2年生になり、年始休みが明ければ優美林高校にも新しい新入生たちがやってくる。
だからこそ、1年の終わりである今の時期は、みんなが何かに区切りをつけ、大切な人との時間を過ごすための特別な季節でもあった。
「あ……アオイさん、ヒロキくんお借りしますね」
招待状を渡す僕たちのやり取りを、リビングのドアの影から耳をピコピコさせながら心配そうに見つめていたアオイさん。
それに気づいたヨーコ先輩は、チア部を引っ張ってきた前主将らしい余裕の笑みを浮かべ、優しく声をかけて微笑んだ。
アオイさんは「ふぇっ!? は、はい……!」と顔を真っ赤にして縮こまっていたけれど、あの時、ヨーコ先輩の背中にはどこか「覚悟」のようなものが漂っていた気がする。
そして今。
『ししし亭』の重厚なカウンター席で、料理人が見事な手捌きでステーキ肉にナイフを入れていく。
鉄板の上で弾ける脂の音と、香ばしい肉の香りが僕たちの間を満たしていた。
ヨーコ先輩は、目の前で焼き上がるお肉を見つめたまま、ふっと大人の表情になって静かに口を開いた。
「ヒロキくん。あなたがあの寮の寮長になって、この世界に色んな美味しいものを教えてくれてから、本当に充実していたわ……」
鉄板の上で、最高級のステーキ肉がじっくりと焼き上がっていく。その香ばしい音の最中、ヨーコ先輩が僕のほうへ体を向け、長い指先でそっと僕の頭に触れた。
「ねえ……あなたは……どこからやってきた人なの?」
心臓がドキンと跳ね上がった。
ヨーコ先輩の指先は、僕の頭の上にあるパンダ耳ではなく、その下――ヘッドギアに隠れた、僕の本来の「人間の耳」がある部分を、確かめるように重点的に優しく撫でてきたのだ。
「……っ」
「カントウでも、カンサイでも、ナンゴクでもない……。私たちが知らない、ずっとずっと遠いところ?」
内心で冷や汗が吹き出し、心臓が爆音で脈打つ。完全に冷静さを失いそうになるのを、僕は必死で奥歯を噛み締め、何でもないような顔を取り繕って静かに答えた。
「はい……遠い、ところからです」
それが精一杯の答えだった。
僕の嘘と、必死に保っている冷静さをすべて見透かしたように、ヨーコ先輩はどこか切なく、それでいて慈しむような愛おしそうな目で僕を見つめた。
「……そうなのね。わかったわ。私があなたに惹かれた理由は、この世界になかった刺激を、あなたがたくさん与えてくれたからなのね。でもそれは私が独り占めにしてはダメなのよね」
すっと、ヨーコ先輩の手が僕の顔から離れていく。その瞬間の冷たさに、胸が締め付けられるような感覚がした。
「今日はありがとね、ヒロキくん。卒業前に、本当にいい思い出になったわ」
「ヨーコ先輩……」
思わず引き止めるように名前を呼ぶと、彼女は悪戯っぽく片目を細めてクスッと笑った。
「あら、もう卒業だもの。先輩じゃなくて、これからは『ヨーコ』って呼んでほしいわ」
「よ、ヨーコ……さん」
照れ隠しで「さん」をつけて呼ぶと、彼女は嬉しそうに満足げに微笑み、フルートグラスに残ったぶどうの炭酸水を一気に飲み干した。そして、 身体をすっと引き起こし、カウンター席から立ち上がる。
「あなたと……あなたが大切にしている人たちの幸せを、ずっと願ってるわ」
彼女が僕に、そして特別寮の仲間たちに向けた、心からの祝福の言葉。
それだけを言い残すと、ヨーコ先輩はくるりと背を向け、足早に店をあとにしようと歩き出した。
「待って、ヨーコさん! 送ります!」
僕は慌てて席を立ち、その後ろ姿を追いかけようとした。けれど、ヨーコ先輩は立ち止まり、振り返ることもなく、ただ片手をすっと上げて僕を静止した。
「ごめん……一人で帰らせて」
その声は少しだけ震えているようにも聞こえた。
チア部の前主将として、そして一人の女の子として、僕の前で最後まで美しく、気高くありたかったのだろう。その背中にこれ以上踏み込むことは、僕にはできなかった。
静かに閉まっていく『ししし亭』の重厚な扉を見つめながら、僕はぽつんと立ち尽くしていた。
目の前の鉄板からは、肉のいい香りがまだ漂っている。
ヨーコ先輩が僕の心に残していった切なくも温かい温もりと、自分の正体に気づかれながらも守られた優しさを噛み締めながら、僕は1年の終わりを告げる夜の静けさに、深く息を吐き出すのだった。
『ししし亭』での切なくも温かい会食から2日後。
優美林高校の敷地内は、晴れやかな青空のもと、どこか寂しげで、それでいて熱い活気に包まれていた。
3年生たちの門出を祝う、卒業式。
式典が終わったあとの校庭では、ヨーコさんの周りには、ひときわ大きな人だかりができていた。チアリーディング部の後輩たちはもちろん、同級生や他部の生徒たちまで、代わる代わる彼女に花束や色紙を渡し、涙を流したり笑顔で記念写真を撮ったりしている。
すらりとした制服姿の彼女は、その輪の中心で、誰よりも眩しく輝いていた。
僕はその賑やかな人だかりから少し離れた、校舎の影の静かな場所から、そっと彼女の姿を見つめていた。
(ヨーコさん、本当にみんなに愛されてるな……)
あの日、僕本来の「耳」に触れ、僕の正体を優しく包み込んでくれた人。もう「先輩」ではなく「ヨーコさん」と呼んだ、あの特別な夜の記憶が胸をかすめる。遠くから見守るだけで十分だ。そう思って、心の中で「卒業おめでとうございます」と呟いた、その時だった。
大勢の人に囲まれ、次々と声をかけられていたはずのヨーコ先輩が、ふっと顔を上げた。
そして、広い校庭の端、豆粒ほどにしか見えないはずの僕の姿を、まるで見つけていたかのようにまっすぐに見つめてきたのだ。
「あ……」
僕の頭のパンダ耳がピコッと跳ねる。
ヨーコ先輩は、周りの歓声に合わせるようにハツラツと笑っていた表情から、一瞬だけ、僕たち2人にしか分からないあの夜の「ヨーコ」の顔に戻った。
そして、悪戯っぽく、でもこれ以上ないくらいに優しい、綺麗な笑顔を僕に向けて、小さくコクンと頷いてみせた。
言葉はなくても、視線だけで十分に伝わった。
『しっかりね、ちびっ子寮長さん。みんなのこと、よろしくね』
そんな風に言われた気がして、僕も静かに笑い返し、彼女の門出を祝うように小さく手を振り返した。
ヨーコ先輩は満足そうに視線を外すと、またすぐに「ありがとー!」と後輩たちの賑やかな輪の中へと戻っていく。




