37.サリーと、焼きおにぎりと、器用貧乏
夜、特別寮のダイニング。
いつもの賑やかさが嘘のように静まり返った厨房で、僕はシンクの前に立ち、お皿をすすぐサリーの真横にそっと並んだ。
ここ数日、サリーの元気が明らかにない。
頭の上の黒い猫耳は力なく垂れ下がったままだ。何より、いつもなら夕飯に茶碗3杯のご飯をペロリと平らげるのに、最近は2杯しか食べていない。これは大事件だ。
「サリー、最近元気ないけど……どうかしたの?」
水音に混じるように優しく問いかけると、サリーの手がピタッと止まった。
彼女は濡れた手を見つめたまま、ぽつり、ぽつりと胸の奥に溜まっていた劣等感を吐き出し始めた。
「……あのね、ヒロキ。私、最近思うんだ。この学校のみんなに比べて、自分には『何もないな』って」
垂れ下がった猫耳が、さらに切なげに伏せられる。
「私は勉強もスポーツも、何をやっても平均点以上は取れるけど、それだけ。ピピほど頭が良いわけでもないし、コニーほど運動ができるわけでもない。それに……アオイほどルックスが良いわけでもない。ただの『器用貧乏』なんだなって気づいちゃって……。将来の目標もないから、余計に焦っちゃうんだよね」
自虐的に笑うサリーは、いつもの自信に満ちた彼女とはまるで別人のようだった。
そんなサリーの深刻な告白を、僕は無言で聞いていた。
そして、おもむろに炊飯器から温かいご飯をボウルに移すと、そこへたっぷりの「かつお節」を投入してさっと混ぜ合わせ、手際よく三角のおにぎりをいくつか握り始めた。それだけでなく、テーブルの上の量産型ホットプレートのスイッチを入れ、その平らな鉄板の上におにぎりを静かに並べたのだ。
じゅう、と小さな音が響く。
自分の真剣な悩みの最中に、いきなり料理を始めた僕を見て、サリーの猫耳がピクリと怒りで跳ね上がった。
「ちょっと、ヒロキ……! 私、真面目に話してるんだよ!? 聞いてるの!?」
怒り混じりの涙目が僕を睨みつける。
だけど僕は何も言わず、静かに刷毛を持ち上げると、じっくりと両面を焼き固めたおにぎりの表面へ、『特製焼肉のタレ』をたっぷりと塗りつけた。
「ジューーーッッ!!!!」
鮮烈なにんにくの香りと醤油の芳醇なコクが熱い鉄板の上で焦げ、深夜の厨房に爆発的なまでに美味しそうな香りが立ち込める。
かつお節の旨味が仕込まれたおにぎりとタレが合わさり、香ばしい煙がサリーの鼻腔を容赦なくくすぐった。
「……サリーは、行き倒れそうだった僕を一番最初に拾ってくれた、大切な恩人だ」
おにぎりをひっくり返し、裏面にも丁寧にタレを塗りながら、僕は静かに語りかけた。
「だから、悩んでるサリーのために何かの役に立ちたいって思う。だけど、ごめん。僕には難しい勉強のアドバイスも、将来の偉大な展望を語ることもできない。僕にできることは、結局、このくらいしかないんだ。……だから、これ食べて元気出して」
僕はホットプレートから、表面がカリカリのキツネ色に染まった出来立ての『特製おかかタレ焼きおにぎり』をお皿に取り、サリーの目の前に差し出した。
サリーは恨めしそうな目で僕と焼きおにぎりを交互に見ていたが、お腹の虫の誘惑には勝てず、ゴクリと喉を鳴らして、おにぎりを両手で包むように持ち上げた。
「……バカヒロキ。ずるいよ、こんなの……」
文句を言いながらも、サリーはその大きな口で焼きおにぎりに思い切り齧り付いた。
カリッ、と小気味良い音が響く。濃厚なタレの旨味と、中に仕込んだかつお節の奥深い出汁の風味が、お米の甘みと合わさって口いっぱいに広がっていく。サリーは目を丸くしながら、もくもくと、だけど一心不乱におにぎりを口へと運び続けた。
そんな彼女の横顔を見つめながら、僕は優しく言葉を紡ぐ。
「まだ僕たちの将来のことなんて、誰にもわからないよ。16歳なんだから、今すぐこれっていう道を選ぶ必要なんて、どこにもない。……とりあえず僕はね、サリーにはたくさんご飯を食べて、たくさん笑っていてほしいな。サリーの笑顔に、僕は何度も救われたから」
僕は一呼吸置いて、少し照れくさそうに笑った。
「それに、これからも僕の隣で、ずっとお手伝いをしてほしいな」
「……っ」
おにぎりを口に含んだまま、サリーの動きがピタッと止まった。
長い黒髪の隙間から覗く猫耳が、今度は赤く染まりながら、嬉しそうに小さくピコピコと震え始める。
「……んぐ。……もう、本当にお手伝いだけでいいの?」
「それが一番助かります」
「……しょうがないなぁ。ヒロキは私がお手伝いしてあげないと、何もできないもんね!」
最後の一口をパクリと飲み干したサリーは、いつもの元気で少しお調子者な笑顔を取り戻していた。茶碗2杯で止まっていた食欲のストッパーが完全に外れたのか、彼女の尻尾はプロペラのように嬉しそうに大回転している。
「よし! 元気出た! ヒロキ、ホットプレートに残ってるやつ、もう1個食べていい!?」
「あはは、もちろん。サリーにはやっぱり、3杯以上食べてもらわないとね」
誰かと自分を比べて落ち込む必要なんてない。
特製タレの焦げる香ばしい匂いの中、僕は2個目の焼きおにぎりをサリーの皿へと乗せ、ようやくいつもの輝きを取り戻した彼女の笑顔に、
心からの安堵を覚えるのだった。




