18.
この先の未来について、お母様には結局何も聞けなかった。そんな時間がなかったとも言うが、もう既に私の中での優先順位ではなかったのだろう。
そして思った通り、直ぐ側にあった幸せで温かなぬくもりは、後を引くことすらなくあっさりと消えた。
パタリと落ちた手にふっと意識を戻せば最初と同じような暗い空間にいる。
戻ってはいなかった。
ツンとした痛みが鼻を抜ける。熱い目蓋。乱れた呼吸に深くゆっくりと息を吐く。
別れではない。これは別れではない。
次に会う時までの長い余暇だ。…とても、寂しい余暇ではあるけれど。
もう一度深く息を吐き目を閉じると頬に一筋の線が落ちた。
「痛いの? 悲しいの?」
ふいにそんな声がした。
お母様の声じゃない、おぼつかない幼い声。
振り向くと、その通りに小さな少年がいた。
「それ。泣いてる」
私の頬に残る跡を指し、痛いの? 悲しいの?と少年はまた繰り返す。
いくつくらいだろう。きっと二桁にはなっていない。黒い髪黒い瞳、朴訥な顔立ち。先ほどのお母様と似通ったものがある。でもそれは、どちらかと言えばもう一人の方が近いか。
まだ続く寄り道の意味。それがこの少年なのだろうか?
どことなく私の従者の面影を漂わす少年はつぶらな目をパチパチと瞬き、まだ座り込んだままだった私の目の前に回り込むと小さな手で頬に触れた。
「おねえちゃんの目キレイだね」
さっき尋ねてたことはもう忘れたのか、少年はこちらを熱心に覗き込んで言う。
子供特有の丸みもなく痩せっぽっちで、頬に触れる手はかさついている。
「紫色、キラキラしてる。すごいね、お姫様みたい」
感嘆の言葉を口にしているはずなのにその声は平坦で表情もなく。子供ならばもう少し感情を出すものだと思うが、自分自身も表情が乏しい子供であったことを思いだしそこは取りあえず流して少年に尋ねた。
「君は、フェイ…なの?」
「ん?」
「お名前」
「ああ。ううん違うよ、僕は―――だよ」
「え?」
何故か、少年の名前の部分だけ雑音が入ったように聞き取れない。
「ええっと?」
「―――だよ」
「……もう一度いい?」
「―――」
「………」
何度繰り返してもそれが聞き取れることはない。なので諦めた。
聞かせたくないのか、必要がないのか。
私と会う前の幼き頃のフェイだと思ったがどうやら違うらしいことはわかった。
ではどうしてこのフェイと良く似た、でも知らない少年とこの場にいるのか。
気にはなるが、だからといってあまり悠長にしてる場合でもない。
あれからどれくらい経ったか。ここに、流れる時間という概念があるのかどうかわからないけど、今日現実の私には約束がある。これが夢であるならば、最悪誰かが起こしてくれるだろうけど…。
今回のここは、部屋のような感じはなくただの薄暗い場所。ただそんな暗い場所で人をきちんと認識出来るはずもないのだけど、そこはそう言うものだと触れないでおこう。
少年は私と近付き過ぎず離れ過ぎずの微妙な間合いで、今は膝を抱えて座り込む。それをどうしたものかと眺めつつも、やはり早く戻る為の算段をつけないといけない。
ふぅ。と、ため息を吐いて立ち上がると、少年がビクリと大きく肩を揺らした。
さっきまで何の感情を浮かべなかった小さな顔に恐怖が浮かぶ。
「え…、何…? どうしたの?」
「――っ…!」
そして近寄ろうとしたら怯えたように慌ててぎゅっと目を瞑り、両腕で顔を庇った。
………これは…。
弧児院や養老院の慰問を繰り返してきた私は幾度か見たことがある。
これは、一方的な暴力にさらされ続けた者が見せる動作だ。
「………」
少しだけ唇を噛む。
子供らしからぬ色々の原因がこれか。
……ホントに、なんなのだろう。
私に、何をさせたいのだろう。
怯える少年に聞こえないようにもう一度小さく息を吐くと、少年の目の前にストンと座った。何も言わず、同じように膝を抱えて。
しばらくそうして見つめていたら、恐る恐るという体で少年は両腕の囲いを緩めた。
目が合うと再びビクッと身を竦めた。
「……た、叩くの…?」
「私が? ……叩かないよ」
答えたそれに、何で?と言う顔で見られて苦い気持ちが浮かぶ。
「会ったばかりの君に、理由なく暴力を奮うことなんてしないよ。理由があったとしてもしない」
「理由…」
「何かしたの?」
「…置いて…、いかないでって…、ワガママ言った…」
「……は…」
「今日も、そう言ったら、叩かれて…、ごはん貰えなくて。…それで、ここに閉じ込められた」
「………」
だから、ホントに。
……それにしても、置いていかないで、か…。
「……でも、君は私に我が儘なんて言ってないでしょう?」
尋ねる私に、コクリと、少年は小さく頷く。
「だったら――、」
こういう時どうすればいいかは自分の身でもって知っている。
それが同じ条件でないとしても与えられるものは同じだ。お母様がくれたものと。
私は膝で立ち、腕を緩く広げた。
「………な、に…?」
少年は怪訝な目を向ける。
「おいでよ」
「……?」
「ぎゅってしよう?」
「…………なんで?」
「なんでって…、…そうだね、したいから?」
「………」
手を伸ばせば届く距離だ。だけど私から動けば少年はまた怯えて逃げるだろう。どうすべきかと戸惑ったように私を見つめる黒い瞳がうろうろとさ迷う。野良の黒い子猫と対峙しているみたいだ。
苦い思いとは別に、自然に口の端が緩く上がる。
「――ねえ、ほら」
後一押しの声を掛ければ、おずおずと小さな体が前に出た。そして私の腕の中へと納まった。
それに妙な達成感を覚えてしまったのは、…うん仕方ない。
ゆっくりと腕を回し、囲った体は本当に細く痩せっぽっちで。力を込めずに緩く抱きしめる。
「必ず――、出会えるよ」
「……?」
少年の身じろぎをやんわりと押し止め言葉を続けた。
「今は側にいなくてもいつかきっと。君を大事に、大切に思ってくれる人に、置いていくことなくいつも側にいてくれる人に、必ず出会えるから」
「………よく、わからない…」
「うん、今はまだそれでいいよ。でも諦めないで。いつか、絶対に幸せになれる」
「……………そうしたら、……そうしたら、叩かれない…?」
「それは――、」
と、一度声を詰まらす。
「……それは直ぐには無理かもしれない…」
「………」
少年の肩が落ちたのを感じた。
でもそこに嘘は付けなかった。軽率で、あまりにも安易な気休めにしかならないのがわかってるから。
少年が今本当に切実に欲しいものは、現状の私では与えることは出来ない。
「でも変えることは出来ると思う。ううん、変えれるよ。だから心を折らないで、絶望しないで」
私はとても残酷なことを言っているのだろう。必要なのは直ぐに救い上げれる手だ。いつか――、なんて希望は少年にとっては救いにもならない。なのに絶望するな希望を持てなんて、酷い話し。
………わかっているのに。
少年の小さな手が私の腕にそっと触れた。
「…大丈夫だよ、だいぶん慣れたし」
いや、それは慣れてはいけない案件だ。
というか、こんな小さな子に気を使わせてしまった?
「おねえちゃんは…」
「ん?」
続いた声に少し体を離し少年と視線を合わせた。
「じゃあ…、おねえちゃんが…、」
――待っていてくれる?
とは、声にならなかった。
この今の状況が少年としても不思議なことだというのがわかっているのか、言ってもしょうがないと思ったのか。視線を落とすと小さく首を振った。
「…………うんん、何でもない」
でも私にはその飲み込まれた声が聞こえた。耳になのか、心になのか。私の独りよがりの妄想でないことは、俯いた少年の寂しそうな顔でわかった。
なのでもう一度ぎゅっと抱きしめる。さっきよりも少しだけ強く。
「待ってるよ。いつかの先で待ってる。これが夢で、君が忘れたとしても私は待ってる。それがこの世界でなくても私は待ってる。君を――、…ずっと待ってるよ」
これも言葉だけの気休めと言われればそうだし、戯れだと思われても仕方ない。
だけどちゃんと伝えておかなければいけないと思った。
そう、これは布石。望む結果へ向けての道しるべ。
今回のこの幾つかの不思議な邂逅は、私にとっても、その先へと繋がる道標になるんじゃないかと、そう思ってしまうのはまだ少し早計だろうか。
……やっぱり、戻ったらきちんと話さなくてはいけない。
細い腕がそろそろと伸び、きゅっと私の首に回される。「あのね…」と耳元で告げられた返答に、私は小さく笑って頷いた。
***
ふっと気付けば視線の先には見覚えのある天井。
今度こそ戻ってこれたのか?と、数回目を瞬けば視界の中に見慣れた顔が覗いた。
「あ、起きました?」
「………フェイ…?」
「はい」
閉ざされていた黒い瞳は細くとも開いていて、何です?というように私を覗き込む。
その私がいるのはフェイが寝ていていたベッド。フェイがいるのは私が座っていた椅子だ。つまりは位置が逆転している。
私は再び目を瞑った。そして口を開く。
「起きたんだ?」
フェイが尋ねた言葉をそのまま返す。
「ええ。とってもスッキリです」
「そう」
目は閉じたままもう少し近くにと手招きし、フェイの気配が近付いたところでパチリと目を開けた。
「……………何なんすかね、これ」
不服な声だ。それにしれっと返す。
「フェイの頬って伸びないね」
「いや、十分伸びてますし、痛いんですけど」
「そう?」
と嘯き、フェイの両頬をぎゅーっと摘まんでから手を離した。
何だと言われても理由なんてない。ただ引っ張ってやりたかっただけ。起き上がった私にフェイは非難がましい視線を向けて、痛がる素振りで自らの頬を撫でるがどうせそんなのは演技だ。大体避けれるはずだし。
そうだ、避けれるで思い出した。
「フェイはもうあれだよ、危ないこと禁止だから」
「何です? 急に」
「わざと避けなかったでしょ」
「――ああ」
と、頷く。だけど私の冷たい眼差しを受けても、フェイはどこ吹く風だ。
「いやー、自分の耐火性能がどんなもんかなって?」
「耐火性能…? どんなものって…」
「でもほら、何ともなく無事でしょ?」
自分が一日半も眠っていたのを知らないのか? しかも、そんなわけのわからない理由で。
「…あれから一日半経ってるんだよ」
「へえ。道理でスッキリしてるわけですね」
「………」
ホントにどうしてくれようか。
あの時、私がどれほど驚いたかと、いや心配したかと、……いや…心配、したっけ?
心臓が止まりそうになったのはそんな理由ではなかったはず。あの時の私は―――。
「で、ルメリア様はずっと付いててくれたわけですね」
思考はフェイのそんな声で中断された。
「起きたら側で気持ち良さそうに寝てるもんで入れ替わったんですけど…。まさか寝ずの番で?」
そう問うフェイの顔はいつものあの笑みだ。
寝ずの番はさすがにお父様に止められたので出来なかったが、ほぼ付きっきりだったのは間違いない。
だからその向けられた胡散臭い笑顔に、実は起きてたんじゃないかと勘繰る気持ちも浮かぶ。なんせあの夜は色々と語ってしまったので。
「…夜はきちんと寝たよ。でもそれ以外は側にいた」
「……は…?」
正直に答えたのにフェイは驚いたように軽い息を漏らした。失礼な。
でもまぁそれもわからないこともない。フェイの前では素直でないこともよくあったから。
だけど私は決めたのだ。自分の心を、覆さないし、受け入れると決めた。
「フェイ、話しをしよう」
なので告げた言葉に、それについては驚くこともなく。「…そうですね」と答えたフェイは、私の視線を避けるかのようにゆっくりと顔を伏せた。
あと二話です(予定)




