89話 居候は命の恩人
玲司は息吹の手を引いて、プールから上がった。
「まっ、何はともあれこの勝負は俺の勝ちだ。分かったか?」
「悔しいけど、私の負けね。ゴホッゴホッ。」
レイジは目線を反らしながら、そしてチラチラと見ながらイブキに教えた。
「気にしないなら、早く着替えてこいよ。今の格好だと、その……」
イブキは目線を下げ、自分の制服を見る。びしょ濡れになり、肌や下着が透けて見えていた。
「……見た?」
「見たけどたいしたものは見てないから。」
イブキには違うニュアンスで捉えられてしまったようで、みるみる怒りのボルテージが上がっていった。
「と、とにかく今はそれに着替えろ。他の奴にも見られちまうし、ただでさえ体力使い切っているのに……」
イブキの足がガタガタと震え、体を支えきれずにバランスを崩して倒れ出した。レイジは咄嗟に両肩を押さえるが、もう一度立つ気力は残ってない、にもかかわらず無理に立とうとしているのを読み取ると、一度プールサイドに座らせてシャツを脱いだ。
「とりあえずお前はこれ着てろ!」
レイジは脱いだシャツを耀に向けて投げ飛ばした。レイジが持ってきたのは三着分の体操着であり、もう予備は残っていない。登校してきたときに着てきたシャツは今教室に置いてあるため、今着ている濡れてない体操着を渡す他なかった。
「でもそれじゃあ、レイジの着る物が……」
「んなこと気にするなら始めから飛び込むなよ。そもそもそれも俺が貸したやつだからな。」
ヒカリは申し訳なさそうに、その一方で満足げに更衣室へ向かった。レイジはイブキの元に戻ると、肩を貸して更衣室の前まで同行した。
「じゃあ待ってるから着替えてこいよ。もしきつそうならヒカリに手伝ってもらって。」
「う、うん……ありがと……」
イブキはふらふらしながらドアを開けて女子更衣室に入る。もし何か容態が悪化しても心の声を聞けばすぐ対応できるので、中まで同行する必要はないと考えた。
脱ぎ始めたところで、ヒカリは困っていた。渡されたのは上の体操着だけで、下着もズボンもない。彼女が着用していた物は、ビショビショに濡れてしまっていて着られない。イブキも同じだ。彼女にはズボンも渡してはいるが、その下に付ける物がなかった。
元々は自分の着替えとして持ってきていた物であり、そもそも彼女たちが着替えなければならない原因は彼女たち自身にある。自分に責任はないと決めたレイジは、濡れた衣類が吸い込んだ水を抜こうと思い男子更衣室に入った。
そこでレイジは違和感に気づいた。自分が濡れることを想定していたなら、下着も持ってきたはず。けれどもここにはない。昨日の夜準備していたときのことを思いだそうとしていると、隣からその行方が聞こえてきた。
「はあ!? これを私に履けってこと!? 何考えているのあの男!」
イブキに渡した袋の中に、靴下も下着も入れっぱなしだったのだ。
「悪ぃイブキ。その下着、袋に戻して外に出してくれ。俺が履く物がねえ。」
レイジは更衣室の壁越しに声を上げ、廊下経由で取引をお願いする。しかしその下着は、すでに不審者の手に落ちていた。
「わ、私にも見せて。」
「ちょっ、シャツ一枚ではしたないわよあなた!」
ヒカリの手に渡ったら最後、何を言っても返してもらえないだろう。疲弊しているイブキでは、すぐに取られてしまう。自分で取りに行くのもできないし、誰かに頼むしかない。
中に誰もいないので、ドアを開けて人を探すべくキョロキョロを見渡した。ちょうどそのとき、イブキもドアを開けて袋を持って出てきた。
「あっ、それくれ!」
「え、ええ。」
イブキは袋を軽く放り投げ、レイジはそれをキャッチした。これで一件落着だ。
「せめて見るだけでも……」
イブキの後ろからヒカリも出てきた。サイズのおかげでミニのワンピース代わりにはなっているがシャツ一枚、替えがないにもかかわらず下着は全部脱ぎ、体は乾かしており幸い透けてはないものの、とても人前に出ていいような格好ではなかった。
そして廊下を生徒が次々と通っていく。男たちにとって、彼女たちの姿は注目の的だった。
「あ……ああ……」
「馬鹿、早く中に入れ!」
レイジはヒカリを押し戻してドアを閉めようとした。
「苦労してるわね。」
「小通……ヒカリの制服持ってきてくれ。ついでに俺のも……」
今の二人を残していてしまえば、いつ野蛮な男たちに襲われてもおかしくない。ここで見張りとして残りたいが、ヒカリをあの格好のまま教室まで連れていくわけにもいかないので、代わりに持ってきてもらう他はない。偶然通りかかったコミチに頼むレイジの声を聞き、イブキは中から頼み込んできた。
「あっ、ミチコ。ちょっとあなたの傘貸してくれない? この格好人に見られたくないのよ。」
イブキも上下着ているとはいえ制服も下着も替えはなく体操着だけの格好なので、よく見れば体のラインが分かってしまう。羞恥心とコンプレックスから、このまま外に出られなくなったイブキは、傘で体を隠そうと考えたのだった。
「心配いらないわ。あなたの起伏のない貧相で子ども同然の体なんか誰も気にしないわよ。」
そんな理由で傘を取ろうとするイブキにムカッとしたコミチは、イブキの力が弱まっていることをいいことに地雷を踏み抜く言葉を浴びせる。今にもドアを蹴破って来そうだが、コミチはまったく警戒していない。このまま行けば傘ごと押し潰されて誰も得をしない結果に終わってしまう。
ドアに向かって体当たりをかまそうと助走をつけて迫ってくるイブキに、タイミングを合わせてレイジは反対側からドアにぶつかる。両側から同時に力を加えることでコミチへの突撃を防ぎつつイブキの体力を削り二度目を封じた。
「これでよし。悪いけどよろしくなー。」
コミチは教室へ向かい、ヒカリの制服を持って戻ってきてくれた。そしてイブキを傘に入れて教室に戻り、帰り支度を済ませて一緒に駅まで帰った。
レイジとイブキの対決が一日繰り上げられたことで、二日目の試験は学力検査のみとなった。おかげで早く帰れたものの、レイジは帰宅してからが忙しかった。
イブキとヒカリ、二人同時に熱を出したのだ。今朝からふらふらしており、朝起きて熱を測ったら三十八度近くあり、それでも試験があるから無理して登校した結果、さらに熱が上がってしまったのだ。
現在レイジはイブキに代わって海岸のパトロールに向かっている。考え直した結果、イブキが限界を迎えるまで粘って戦ったのが風邪を引いた原因だと認めたレイジは進んで彼女の手伝いをすることを決めたのだ。
「入るわよー。」
イブキの部屋をノックして、お粥を持ってきた奥さんが部屋に入る。
「大変ねー、風邪なんか引いちゃって。明日終業式でしょ? 無理はしないでね。」
「ありがと、おばさん。でも私、風邪で済んで良かったわ。」
イブキは昨日のプールでの出来事を話した。
「あのままだったら私、溺れて死んじゃってたかもしれないって思う……レイジが助けてくれなかったら……」
「レイジも言ってたわよ。恩は一つ返したって。今もあんたの代わりに海へ行ってくれてるわ。」
溺れている人がいたら、助けに行くなり呼びに行くのは当たり前。けれどもそれは、溺れていると認識されればの話だ。地元のライフセーバーとして名を馳せていたがゆえに、あの場の誰もが溺れたのではなく潜ったのだと思っていた。すぐそばにいながら、誰も助けに来なかった、心配しなかった。
別に彼らを責めているのではない。溺れるなんて考えもしなかったし、水深もたいしたことはない。あくまでも自分の不注意だったと反省しつつ、限界をもっと伸ばさなければならない、もっと訓練を積み重ねなければならないと深く心に刻んでいた。
そしてレイジのしたことは、溺れている人を助けるという、当たり前のことだ。最初に助けてくれた人が、たまたま彼だっただけ。そう思いたいはずなのだが、イブキの中での彼への認識が変化しつつあった。どこか晴れないモヤモヤを抱えながら、お粥に手を伸ばした。
「おう、ご苦労さん。夕飯食うか?」
「んー、先にシャワー浴びるわ。ついでに着替える。」
海岸から戻ってきたレイジは一度着替えを取りに二階へ向かった。イブキは部屋の中で起きていて、症状は悪化していない。問題はなさそうなので、レイジはすぐ下に降りようとした。
「ちょっと待って。」
部屋の中から彼女の声がした。中の様子は分かっているので、二度手間にならないようノックをせずに入る。
「呼んだか?」
「ちょっ、勝手に入ってこないでよ! うつったらどうするの。」
部屋の外から話をすれば、声を大きく出す必要がある。喉への負担を減らすことを優先した方が良いという判断だったのだが、気遣われることを嫌うイブキには正直に話せなかった。
「そんなこと心配するならスマホで連絡すればいいのに。直接話がしたいんだろ?」
またこの目だ。何もかも見透かしているような彼の目が、イブキは苦手だった。それでもこれだけは直接言わなければいけないと思ったイブキは、体を起こして真っ直ぐに彼を見つめた。
「なんかすっきりしないから、もう一度言うわ。助けてくれて、ありがとね。」
「これに懲りたら、もう無茶するなよ。お前は一人で頑張りすぎなんだから。」
レイジはそれだけ言うと背を向け、部屋から出ようとした。イブキは一瞬戸惑ったが、結局言い出すことができなかった。しかしその代わりに咄嗟に思いついたことがあり、すぐさま口にしてしまった。レイジは逃げるのが間に合わなかった。
「ところで、夢の中で私と殺し合ったって話、詳しく聞かせてくれるかしら?」
「あー、結果だけ覚えていただけで、どんなことしてたかは……覚えて、ない!」
「待ちなさい!」
レイジは階段を駆け降りるが、順調に体力の回復しているイブキにはすぐに追いつかれてしまった。また一時的に限界を取り除いているだけであって、しばらくしたらまた風邪が悪化するのは免れないが、それ以上に自分の身の危険を感じたレイジは捕まるまいと必死に逃げ回った。
「こら! 家の中で走り回らないの。しかも風邪引いてるのに。」
そうは言われても頑固なイブキがここまで来て黙って部屋に戻るはずがない。レイジはもう諦めた。
「あくまで俺の夢の中の話だからな。妄想じゃなくて、偶然見たものだってことを理解したうえで聞いてくれよ。」
レイジにとっては夢ではないが、誰にとっても現実ではない。そのときの記憶は残っていても、体は何も覚えていない。そんなややこしいことまで話す必要はないので、あくまで夢として、あの日のことを語った。
「俺はイブキに真空掌を浴びせられて死んだ。別の日にお前は崖から落ちて溺れ死んだ。それだけ。」
真空掌。皮膚や肉などの物理的障害を無視して心臓に響かせ、一時的に呼吸不可能にするイブキの必殺技だ。今までレイジは何度も受けてきたが、ある日ポックリ死んでしまった。それがたまたま夢の中だったので、今後不用意に使わないようにという警告も兼ねて話した。
「その崖から落ちたって話、詳しく聞かせてちょうだい、ね。」
やはり本題はこっちか。そして笑顔が怖い。しかしこれは、今後彼女の考えを変える良い機会かもしれないとも思えた。
文化祭二日目のタイムリープ中の出来事。人を助けるために崖から飛び降り、それを利用して溺死させたこと。レイジも鮮明に覚えており、過去の出来事通りに話した。
「へぇ……ようするに、私の親友を利用したんだ……そうすれば私に勝てるって思っちゃったってことねぇ……」
イブキの右手に力がこもる。言ったばかりだというのに、真空掌を浴びせる準備に入っている。
「ま、待ってくれ。この話、まだ続きがあるんだ。」
勝負がついたのに何が続くのかと疑る目をしているが、ここからの話も鮮明に話す。
イブキたちの敵を討ちに真っ先に十四哉が駆け出したこと。幼なじみの誰よりも怒りを覚えていて彼によって自分は裁かれたこと。それがこの夢の終末だ。
「トシヤはお前が死んで悲しんでたぜ。お前はどうだ。いつまでも疎遠のままでいいのか?」
「馬鹿馬鹿しい。そんなのあなたの夢の中の話じゃない。私が死んだら、あいつは清々するに決まっているわ。」
言葉の裏に抱える本心は分かっている。いつまでも二人はこのままでいてはいけない。だからレイジは二人の力になりたかった。そのために頼ってもらわないといけなかったが、昨日の勝負に勝ったことで一歩前進した。
「仲直りしたいんなら、その気持ちを言葉で伝えてくれ。そうすれば、全体祭のときになんとかしてやるから。」
イブキは何も言わなかった。拒絶をしなかったのだ。全校一斉体育祭。ここで二人が思いをぶつけ合えば、そして後押しをしてやれば、それがきっと彼女の役に立てるはずだ。
「……仲直りなんてする気はないけど、もう一度ぶつかる必要があるとは思っているわ。」
「分かったよ。あいつもきっと同じ考えだろうしな。」
全体祭は九月、夏休み明けだ。
その頃にはもう、お前のそばにいられないかもしれないが、約束は絶対に果たす。
いつもなら言えたかもしれない格好つけた言葉が、このとき彼は口から出せなかった。




