40話 命の恩人への恩返し
「そんで無様に負けてきたってわけね。」
「だからぁ、ルール上は俺が勝ってたんだ! それにあれは油断しただけで、本気でいけばあれくらい……」
はいはい、もういいから、とイブキは相手にするのをやめた。
現在時刻は午後十時半。レイジがバイトを終えたのが午後四時。そして目が覚めたのがついさっきの午後十時過ぎ。何があったのかというと、鬼ごっこの勝負でキヨシにタッチし、勝利を確信した瞬間レイジは気を失ったらしい。キヨシからの連絡を受けてイブキが片道一時間半以上かけて電車に乗り、気絶した彼を背負って帰っていったという。
「ったくもう、どれだけ私が苦労したか分かってる?」
「人助けに文句言うライフセーバーの屑め。」
なんて言ってしまうと本気で怒るだろうなと思っていつつ口に出してしまったのはなぜだったのか。イブキの右手がレイジの心臓に迫ってくる。なんとか回避を試みるが、こんなに狭い部屋の中ではどうにもならない。
レイジは昨晩に続き心臓の動きを止められ、イブキの部屋から放り出された。さすがに良心的になってくれたのか、外ではなく廊下に飛ばされた。
「もういいわよ。起きなさい。」
イブキは再びレイジの心臓に手を当て、目にも止まらぬ速さで押し潰した。
正式な心臓マッサージは分速百回のペースで三十回押すのを数回繰り返すのだが、特殊な自主訓練をこなしたイブキの手のひらにかかれば人工呼吸すら必要なく一撃で蘇生する。レイジは反動で体が大きく曲がり、数回咳き込むと意識を取り戻した。
「や、やるなら人工呼吸にしてくれよ。」
むせながらも冗談めいたことを言って和ませようとしたが、イブキは相手にもしなかった。それほどまでに興味を持たれてないことが、彼は認められず悔しかった。
「で、話ってなんだよ。」
レイジはイブキを追って部屋に入った。机に向かっていた彼女が引き出しから取り出したのは、中学生のときのノートだ。中身は中学校の生徒会選挙に立候補したときの演説台本と推薦文。それらが三年間分ある。
「特別にあなたを私の推薦者に任命してあげるわ。」
言い回しに腹が立つが、ようやく必要としてくれたので満足だ。嬉しさのあまり顔がにやけてしまうが、特に気にせず話しかけた。
「おうっ、任せな。肩書きは何が良い? 暴君暴波堤か?」
「何でそんな物騒なものなの……私は誠実で清楚な生徒会長候補よ。」
得意げに言っているが、巨漢だろうと海の海のギャングだろうと心臓があれば一発で静かにさせて海の平和を守っている人が名乗るものでないのは確かだ。勉強机の棚にある広辞苑で清楚について調べろと突っ込みたい。
その日の夜から翌日いっぱいは推薦文の作成に励んだ。参考に中学生時代の推薦文に目を通すと、その頃のイブキの人物像が目に浮かぶ。今と変わらない、一人で努力する強情で、それでいて信念を貫き通していた。
なぜイブキが生徒会長という立場にこだわるのか。このこともまた、過去のトシヤたちとの確執によるものだった。彼女から直接聞いたのではない。心の声が、強く響いてきたのだ。
ことの発端は二年前、彼女たちが中学二年生だったときだ。
この海に、仲間たち十八人だけでやってきて遊んでいた。ワタルにツトム、マサタ、そしてトシヤとその他諸々。彼らは小さな村に生まれ、幼い頃からいつも一緒にいた。小学校でも中学校でも、彼らは皆仲良しだった。
仲間からはぐれた一人、アオイが波に流され、海岸に戻れなくなってしまった。彼らの親は一緒に来ていない。誰に助けを求めればいいか、助けを求める時間はあるのかと焦る彼らは硬直してしまったが、一人だけ迷わず海に飛び込んだ。それがイブキだ。
何度も海水が口に流れてくるも、懸命に彼女を追いかけ、助けに向かったイブキを見て、トシヤは周囲を見渡した。海の監視員、ライフセーバー。彼らに言えば、助けにいってくれると気づいた彼は、仲間内で最も足の速いマサタに頼み、救助を要請した。
大分沖まで流されてしまった。イブキもここまで泳いだことはなかったし、焦るあまり、そしてアオイの名前を叫びながら進んだため、過剰に体力を消耗する泳ぎをしてしまい限界を迎えていた。すでに溺れた子の姿は見えない。横に流されたのか、沈んでしまったのか。見当がつかないうえいずれにせよ相当危険な状況であり、余計に焦りが出てくる。ライフセーバーがイブキに追いつくと、ライフジャケットを着せた。これでしばらく沈む心配はない、後は俺に任せろ。そう言ってライフセーバーは海に潜った。
やはり海の中か。いてもたってもいられなくなり、イブキはジャケットを脱ぎ捨て海に潜った。最後の力を振り絞り、一気に速度を上げ潜水する。闇雲に手を振り回し、何かが当たることを祈った。ゴミかもしれないが、人の可能性もある。海に沈んだ子の助け方など知らないイブキには、それが精一杯だった。
しばらくして、後方から光が見えた。追いかけてきたライフセーバーのライトだ。これで少しは探しやすくなる、そう思ったのもつかの間、息が限界のライフセーバーは上がっていってしまった。
限界なのはイブキも一緒だ。けれどもここで諦めるわけにはいかない。探索を続けた。
再びライフセーバーが潜ってきて照らされた所に何かが見えた。イブキはライフセーバーからライトをぶんどり、見えたほうへ進んだ。
見つけた。イブキはまず最初にアオイを引き上げようとしたが、それで手遅れにならないかと思い直した。イブキはまだ大丈夫だ。ならいっそのこと、体内の酸素を分け与えればいい。そう考えたイブキはアオイの口に自らの口を当て、息を吹き込んだ。
口と口を放すことなく、アオイの体内の海水を吸い取り代わりに酸素を送り込む。自分の体が海水で満たされていき、徐々に苦しくなる。しかし、ここで止めてしまってはきっと後悔する。アオイが息を吹き返すまで、イブキは何度も酸素を送り海水を取り込んだ。
砂浜ではイブキたちの無事を祈るワタルたちの姿があった。トシヤは茫然と立ち尽くしている。俺ができるのはこれだけなのか。己の無力さに嘆く彼の瞳は輝きを失い、耳には音が何一つ届かない。
海の中から誰かが出てくると、一斉に目を凝らしたが、上がってきたのはライフセーバーただ一人だった。
「アオイは……イブキはどうなったんですか!?」
「すまない……見失ってしまった……」
その言葉に愕然としたが、人命の責任を感じたくないその男は言い訳すると同時に可能性は残っているということを話した。
「助けにいった子にライトを取られてしまったんだ。あの子が助けてくれるといいけど……」
なんということだ。ライトを失い、海中を探索しずらくなっただけで諦めて戻ってきたというのか。
「なんで……何で諦めたんだぁ!」
トシヤはライフセーバーの男の胸ぐらを掴んだ。助けを呼ぶように指示したのは俺だ。俺の判断が間違いだというのか。そう思い詰めるトシヤは、感情を抑えきれず怒りを他人にぶつけてしまった。
素人が、子どもが何を言うのか。責任を一身に負わされる恐怖と、トシヤの態度により限界を迎えた彼のストレスは、その瞬間爆発した。
「うるせぇ! そもそもガキだけでこんな危険な所まで行くのが間違っているんだ! 何も知らない子どもの癖に、生意気なんだよ!」
男はトシヤを突き飛ばし、拳を握ったところで我に帰った。
トラブルが起きて十秒以内に発見、二十秒以内に救助する。それがライフセーバーのルールだが、連絡を受けて海を泳ぎ、発見するまでで一分を超えている。どんなに救助を増やそうと、もう間に合わないのは分かりきっている。救急車も到達したが、肝心の二人が見つからなくてはどうしようもない。
誰もが絶望し、多くは涙を流したそのとき、海面から飛沫が上がった。現れたのはイブキとアオイ。アオイを背負い、イブキが周りを見渡している。
「海岸を探しているんだ! おーい、こっちだー!」
全員でイブキの名を呼び、救助隊も海に入る。波に流されながらも懸命に陸に向かうイブキはアオイともども救出され、ボートに乗せられた。
「あのっ、二人は、助かりますよね!?」
「まだ息はある。やれることは残っている。大丈夫、きっと助ける。」
その言葉を信じ、トシヤたちは搬送していく救急車を見送った。
保護者たちも駆けつけ、トシヤたちは病院に着いた。そして治療室の前で、何も話さずじっとしていた。その手の震えは一向に収まらない。イブキとアオイは一緒の部屋で治療を受けている。二人とも助かることを信じ、じっと待っていた。
治療中のランプが消え、扉が開いた。
「応急処置は終わりました。海水も抜き取りましたし、体温が回復すればもう大丈夫です。ただ……」
峠は越えたようだ。誰もが助からないと思っていたアオイも一命をとりとめたと知り、皆は胸を撫で下ろした。
しかし、医師は続きを話した。
「一人は、意識が戻らないんだ……」
別室に運ばれ、ベッドの中で毛布にくるまり体温を温めることに努めるアオイは、意識が戻り話すことができるようになっていた。彼女の声を聞き、安心した皆のうち何人かは、嬉しさのあまり号泣した。
治療を担当していた医師は、彼女が助かったことが不思議でならず、思わず口を溢した。
「不思議な話だよ。あれだけ長い時間潜っていながら、体内に酸素が多く残っていたのだから。お陰で治療は間に合ったから、奇跡としか言い様がない。」
「イブキだ……あいつが助けにいったから……あいつは、助かるよな!?」
医師は苦い顔を見せる。彼女の容態もまた、妙なことになっているらしい。体力を消耗しきっており、アオイとは対照的に海水を大量に取り込んであり、治療は困難だった。
意識は戻っていないが息はあり、衰弱しきっているが回復に努めれば治る見込みはある。
徐々に体力は戻るはずだが、今の状態は四肢に一切の感覚がない。回復を妨げるような動きはどんなに微々たるものであろうと起こさないといわんばかりに動かないそうだ。
「アオイは? イブキが何をしていたのか覚えてない?」
アオイは首を横に振った。海中で意識を取り戻したとき、ぼんやりとイブキの顔が見えたくらいで、溺れている間に何が起こったのかは記憶になかった。
「目を覚ますのはまだ先になるが、もう大丈夫だ。まったく、不思議な子だよ。」
いずれ目を覚ますのは分かっている。心配せずに待っているといいと言い残し、医師は病室を出た。
数日経って、イブキは意識を取り戻した。連絡を受けてトシヤたちが病室に訪れると、記憶に残っている限りのあの日の出来事を話した。
限界まで自身の体内と酸素を分け与えたこと、意地でも泳ぐことを諦めなかったことを話すと、両者の体内の海水量やイブキの体力の回復に時間がかかったことに合点がいった。
「イブキ、お前はきっと、能力があるんだ。」
今までの身体測定では無能力者のFランクと評価されていたが、人間離れした潜水時間と限界を超えた体力を出しきることができる人が無能力者のはずがない。何かが目覚めた。
トシヤはそう分析した。
「私の、能力……」
まだ退院はできず、皆が帰った後でイブキは自分を振り返った。するとそこに、訪問者が一人、ノックをして入ってきた。
「あなたはあのときの……」
「覚えていてくれたんだ。君には感謝しきれない。そして、申し訳なかった。人命救助は、我々の役目なのに……」
「いいわよ。私こそ、勝手にライト奪って悪かったわね。なぜかあのときの私、息が続いたの。」
やはり、あれから一度も息継ぎせずに救出したのか。素人ながら素早い判断、優れた潜水能力だが、まだまだ伸びしろはある。
ライフセーバーの男は直感した。彼女には資質、能力があると。
「そこで一つ、頼みがあるんだ。」
男は頭を深く下げて言った。
「君、ぜひうちのライフセーバーになってほしい!」
イブキは意図が分からなかったが、現役のライフセーバーが見抜いたイブキの泳力と行動力を自覚すると心が揺らいだ。しかし、それはその海の近くでの生活の始まり、つまり仲間や家族と離れて暮らすことになる。別れが惜しいイブキは拒否しようとしたが、思いを決定的にしたのが次の男の言葉だった。
「僕たちと一緒に、多くの命を救ってくれ!」
イブキは思った。もし自分がライフセーバーにならなかったら、この海で命を落とす人が出るかもしれない。そうなったとき後悔の気持ちを味わうのなら、仲間といたい気持ちを捨ててライフセーバーになるほうが良いに決まっている。そして彼女は決意した。ライフセーバーの道に進むと。
町を出て現地の人と暮らすことは、イブキの両親にしか話さなかった。そして、ライフセーバーになったことは誰にも言わないでと、どこかで一人暮らしを始めたことにしておいてと伝えた。
何と言われようと、ライフセーバーになるという彼女の決断は変わらない。仲間に知られて引き止められると葛藤が起こり別れを告げるのがつらくなるだけだ。
しかし、その判断は悪いほうに働いた。トシヤからは村を捨てた裏切り者と見られてしまった。敵視されたイブキは何とかして誤解を解いてもらおうとしたが叶わず、トシヤたちが暴動を起こしたことを知ってからは彼女がトシヤたちを敵視した。
もう彼女と彼らの間からは、かつての絆は失われていた。
中学校の生徒会長として暴動の鎮圧に向かったイブキは決意した。これからずっと生徒会長になる。そしていつ起きた暴動にも立ち合えるようにし、もう二度と、彼らの思い通りにはさせないと。
心の読めるレイジからすれば、それは無意味な固執だというのはとうに分かっている。けれども頑固なイブキに分かってもらうためには、少なくとも今年は生徒会長になってもらう他ない。
イブキの心意気が過ちだらけなのではない。むしろそれが彼女の魅力だというのも分かっている。その魅力を書き連ねた推薦文が完成した。
これで明日からの選挙の準備は整った。そしてここからが本当の勝負だ。
「準備はいいか、イブキ。」
「ええ。さあ行くわよ、レイジ。」
月曜日の朝、二人揃って家を出て高校へ向かう。入学して一ヶ月半。同じ屋根の下で暮らす二人は、今日初めて一緒に登校した。




