26話 その悔しさを忘れない
「21─6。ゲームセット。」
ヒカリは21という言葉が聞こえた瞬間、頭が真っ白になった。
夢中で打った。チハヤが打ち返しシャトルが上がった瞬間に前に進み、すかさず相手コートに叩き込んだ。その次の瞬間のことだった。
「うそ……でしょ……」
コールが聞こえたヒカリは信じられず、恐る恐る得点板に目を向けた。審判が0と書かれたページを捲る。現れた数字は1。ヒカリの失点、チハヤの得点が、21に達してしまったことに気づいた。
ヒカリもチハヤも、今お互いが何点取っているかなんて頭になかった。ただ1つでも多く点を取る。それだけを考えて戦っていた。
得点が奇数のときと偶数のとき、つまり点を取る度にサーブを打つ場所は左右で変わってくるが、点数を意識するのはそのときだけで、20点目のマッチポイントのコールさえも頭に入っていなかった。
もちろんレイジも、後何点で負けてしまうとは考えずにヒカリが1点でも多く取ることだけを考えて試合を見ていた。
「おいちょっと待てよ! 何でそうなるんだ!」
レイジは憤慨した。線審の真意が読めるからこそ分かる。判断に納得のいかない彼は、怒りをぶつけずにはいられなかった。
レイジには正確な落下点が見えなかったが、線審には見えているはずだ。チハヤの誤審誘導はもう使えない。彼女にもインかアウトか分からないが、だからこそ線審の判断が頼りだ。
それなのに、あの線審はジャッジできなかった。
一方的な試合展開に飽きていた審判は、シャトルを目で追うことを忘れ、ふと我に帰ったらすでに球は床に着いていた。顔をコートに向けると、チハヤがコート上で両手両膝をつき下を向いている。そして彼女の後方、サイドラインより外側にシャトルが転がっているのが見えた。
そしてその審判は思った。あの球はヒカリが打ち、チハヤはそれを見送ったのだと。今の点数は分からないが、チハヤに点が入るようジャッジすれば早く審判から解放されると。
だからアウト、すなわちチハヤの得点と判断を下した。
そのジャッジによって試合が終わってしまうことを知らずに……
そんな審判の心を読んだレイジは、その考え方が許せなかった。
レイジにだって今のシャトルが入ったか入らなかったかどうかは分からないし、実際にアウトだったのかもしれない。けれども曖昧な判断の下でアウトと宣言され、勝負がついてしまったことが許せなかった。負けるにしても納得のいく負け方であってほしかった。
もしあの審判がこの人ではなかったら、しっかりと最後まで集中して見ることができる人だったら、結果は変わったかもしれなかったと思うと、レイジは怒りが収まらなかった。
仮にあの審判がしっかり見ていたとしよう。あれだけ際どいポイントにシャトルが落ちたが、チハヤはそれを追いかけなかった。個人的にはインと判断したいが、チハヤが追いかけなかったのを考えると彼女はアウトと判断した、つまりインと言うのは間違いだと考えアウトと宣言するだろう。
そこで審判が最初からアウトと判断していればレイジも納得がいくが、もし目視でインと判断したがアウトとコールしていれば、それはイン、ヒカリの得点だと抗議ができたのだ。
線審さえしっかり判断していれば、素直に負けを認めるか判定に抗議しにいくかのどちらかで収まる話だった。けれどもその線審が適当な結論を出したことで、正確な勝敗の分からない、不条理な結果に終わってしまったのだ。
たった1度の曖昧な宣言が、死力を尽くして戦った両者の明暗を分けてしまった。
「こんなのって……こんなのってあるかよ!」
レイジの握った拳が震え出す。彼の視界はぼやけてしまい、ヒカリの、チハヤの姿が見えなくなった。隣で不安そうに見つめるモモカの声も、聞こえなくなった。
「早く集まってくださーい。」
主審はシャトルを拾うと面倒くさそうにヒカリとチハヤに呼び掛けた。試合が終われば両者は握手を交わし、挨拶をするのが礼儀というものだ。
そして勝者は、主審の持つ書類にサインをしなければならない。この書類を提出することで、試合の進行状況と次の審判の担当者が大会本部に伝わることになる。
それを済ませない限り、主審はコートから離れることができない。いつまでも固まっていないで、とっとと終わらせて帰してほしいというのが主審を務めているこの人の本心だった。
「私……負けた……負けたんだ……」
ヒカリは呆然とし、膝から崩れ落ちた。ラケットを床に落とし、止まらない汗が床にポタポタと垂れる。
チハヤは精一杯足を曲げ、顔をひきつらせながらも立ち上がった。そして後ろを振り返って得点板を見て、自分の勝利だという事実を受け入れた。
「……ヒカリ、大丈夫……」
チハヤが声を掛けたそのとき、我に帰ったヒカリは顔を上げると、床に手を着きゆっくりと立ち上がった。前に一歩進み、ネットの下から差し出したチハヤの右手に彼女の右手を重ねた。
「ありがとうございました。」
チハヤの声だけが、レイジの心に届くと彼の視界に光が戻った。瞳に映ったのは、両者が握手を交わした瞬間。
そしてチハヤは主審から書類を受け取ると勝者サインを書き、それを持って本部に向かった。本来届けにいくのは主審なのだが、一刻も早く帰りたかったのかチハヤに仕事を丸投げし、線審も揃ってそそくさと去ってしまった。
レイジは走り出し、下のフロアへ続く階段を下りていった。
ドアを開けてアリーナに入ると、荷物を持ってコートから離れていくヒカリの後ろ姿があった。彼はヒカリの名前を呼ぶと、ヒカリは足を止め声のしたほうを振り返った。
「レイジ……」
両手それぞれに荷物を掴み、手を顔を覆うことのできないヒカリの目は潤み始めた。隠すことのできない、堪えることのできない涙が、その瞳から滞りなく流れ出した。
「うぅ……レイジ、レイジぃ……」
勝てなかった悔しさ、約束を守れなかった悔しさ、そして、夢が叶わなかった悔しさが一気に込み上げる。
「ごめんね……ごめんね、レイジ……」
レイジは心が痛んだ。目の前で泣いている友達に、かけてあげる言葉が思いつかない自分が不甲斐なく思えた。16年弱生きてきた中でも、こんな気持ちを経験するのは初めてだ。誰かが自分のために頑張ってくれたことも、逆に自分が誰かのために頑張ったこともなかった彼は、人の心が読めても何もできない悔しさを初めて痛感したのだった。
すると突然、他の人の心の声が聞こえてきた。心だけではない、はっきりと本物の声も聞こえる。
「見ろよ。さっき試合してた奴だ。」
「上で叫んでた奴もいるぜ。まったく、1点くらい何だって言うんだよ。」
「まったくだ。どうせ負けてたくせに。」
声の主は、さっきの試合で主審、線審を務めていた3人だ。彼らは皆同じ高校の生徒で、2人が戦ったコートで行った1つ前の試合の勝者と敗者、そして敗者と同じ学校の生徒が審判に就くのだが、同じ学校同士での対戦だったため3人とも同じ高校の生徒ということになっていたのだ。
そうだ。あいつらがちゃんと試合を見ていれば、ヒカリは勝てたかもしれなかった。悲しむこともなかったかもしれなかったのだ。
何より、精一杯戦っている人に対する態度ではなかった。レイジは一気に怒りが込み上げると、3人の元へ歩いていった。
「お前が……お前たちがちゃんと試合を見てなかったせいでなあ!」
レイジはユニフォームのポケットから銀のサバイバルナイフを取り出すと、瞬時に間合いを詰め首筋に突きつけた。
「やめなさい!」
レイジは咄嗟に手を止め、後ろを振り返った。ナイフを当てられた男は腰を抜かしその場にへたりこんだ。
「何なんだよ、いったい……」
「行こうぜ、気味が悪い。」
隣にいる男たちは、1人を置いてアリーナから出ていった。
「そんなことをしても、試合の結果はもう変わらないのよ。そんなことして、許されると思ってるの!」
斬りかかるレイジを止めたチハヤはそう叫ぶと、右の手のひらでおもいっきり彼の頬を叩いた。レイジの手からナイフが抜け、ゴトンと床に落ちた。
「試合に負けたから何なの!? 審判に逆恨みして、それがこの子のためになるの!? 全力で戦った。それでいいじゃない! そんなに賞品が大事なの!? そんなに名誉が大事なの!?」
感情を剥き出しにして怒るチハヤに、レイジは考えを改めた。
そうだ。悪いのは審判ではない。見送った球は絶対にアウトになる。そう洗脳している奴がいるじゃないか……
レイジは再びナイフを手に取った。
「そうだ、お前だ……お前がいなければ!」
レイジはチハヤに飛びかかる。こうなるとは想像していなかった彼女は、恐怖で一瞬声が出せなくなった。レイジはそのまま押し倒すと、左手で口を塞ぎ逆手に持ち替えたナイフを振り上げた。
「もうやめて!」
ヒカリが叫ぶと、ナイフがチハヤの顔に突き刺さる寸前でレイジの手が止まった。ふと我に返った彼は自分がしようとしていることを理解すると、チハヤから飛び退いた。
咳き込むチハヤはまだ怯えている。無理もない。突然刃物を持った男が襲いかかり、目の前までナイフを振り下ろしたのだ。そして何より、目が怖かったらしい。自分では分からないが、本気で人を殺しかねないほどの殺気に感じていたようだった。確かに、ここまで人に殺意が沸き上がったのは、この街に来てからは初めてだ。以前は日常茶飯事だっただけに、癖はなかなか直らない。レイジは迂闊に本心を出さないよう気をつけようと心に留めた。
「もう、やめて……」
ただでさえ試合に負けたショックで心が苦しいヒカリだったが、今のレイジの姿を見るのはそれと比にならないほどにつらいことだった。
「もう、いいの……」
心を落ち着かせたヒカリは、負けた現実を受け入れた。負けてしまったことをいつまでも引きずっていても仕方がない。だからレイジには、これ以上他人に当たってほしくなかった。ヒカリの心を理解したレイジは、ナイフをポケットにしまいこみ、チハヤに謝罪をした。
「その、悪かったな。お前を責めても仕方ないのに。」
レイジは完全にチハヤを許したわけではない。それは彼女も分かっていた。
「本当……怖かったんだから。それと私のほうこそ、ごめんなさい。」
チハヤはレイジに、そしてヒカリに謝った。
別に、チハヤが悪いわけではない。正確にシャトルの落下点が分かり、狙い通りに打つこともできるチハヤが有利になるような判断をさせてしまうのは、単に先入観を与えているだけで故意に審判をコントロールしているのではない。
それを伝えたかったが、レイジは直前の己の行為を振り返ると口に出すことができなかった。
「ううん、私の練習不足なだけよ。負けちゃったけど、すごく楽しかった。」
ヒカリは素直にチハヤの勝利を讃え、同時にライバルだと認めた。
「次は負けないから。」
ヒカリは微笑み、手を差し出した。チハヤは驚いていたが、ヒカリの手を見て、再び顔を見ると思わず笑ってしまった。
そうだ。それだけでいいんだ。試合が終われば敵ではない。互いの健闘を褒め称える。それがスポーツマンシップというもの。
しかし、レイジはまだ、試合が終わったわけではない。
「じゃあ俺は、準決勝の準備をしてくる。揃って優勝はできなかったけど、俺はお前の分まで頑張るから。絶対に優勝して帰ってくるから、応援頼むぜ。」
そろそろ後回しにした出番が来ると直感したレイジは、気を引き締めて試合に備えることにした。ヒカリのためにも絶対に勝つと心に決めた彼の心には、もう憎悪は残っていなかった。
「あっ、そうだね。頑張って、レイジ。」
ヒカリは笑ってレイジを応援した。それを見たチハヤは、少し不機嫌になった。
「ふーん。私には何も言ってくれないんだ……私、勝ったのに。」
レイジは不思議そうにチハヤを見る。おめでとうと言ってほしいのは伝わるが、他校の、それも対戦校の生徒に言われて嬉しいのかが、彼には分からなかった。
一方でヒカリは直感した。少なからず、自分のライバルだと。
「ヒカリに勝ったのはすごいと思うぜ。次は俺と勝負するか?」
最初は完全無欠と思っていたチハヤだったが、案外あっさりと弱点が見えたことで勝ち目があると感じたレイジは調子に乗ってチハヤを勝負に誘う。
「そうね。お互い優勝したら、最後に勝負しましょう。エキシビションマッチってことで、シングルス最強が誰なのか、決着を着けようじゃない。」
レイジはさらに興奮が高まった。準決勝に向け気合いが高まったところで、本部からのコールが聞こえた。
『男子シングルスマスタークラス準決勝第1試合を行います。選手の方はお集まりください。審判は……』
「呼ばれたか。じゃあ、行ってくるわ。」
「うん、頑張ってね。」
ヒカリに一言告げるとレイジは呼ばれたコートへ走っていった。
「後2つ……後2つ勝てば優勝なんだ。さあ行くぞ!」
レイジは意気込んでコート内に入り、対戦相手と握手をした。




