25話 チハヤの置き土産
「20マッチポイント1。」
チハヤが打ったスマッシュ、ヒカリはラケットを向けるも打ち返すことはできず、腰の辺りを抜けてコート内に突き刺さった。
ヒカリの得点ではなく、チハヤの得点となったのだ。
ヒカリは確かに能力を発動させていた。絶対に点が取れたはずだったが、できなかった。
「やっぱりあの誤審がなければ……」
レイジは考えた。ジャッジミスが起これば事実は塗り替えられてしまう。ヒカリが繰り返そうとしたのは、彼女でなくチハヤがサーブ権を握ったラリーだということを認めるしかなかった。
「どうすればいいの? 後1点で、私は……」
いずれこうなってしまうのは予想せざるを得なかったが、いざ直面すると動揺を抑えられない。ヒカリはラケットでシャトルを掬い上げようとしたが、その手は震えていてラケットに乗せるよう掬うことができなかった。
ようやく球を拾い上げると、チハヤに向かって軽く打った。彼女は左手でキャッチすると、深呼吸してサーブするポジションに移動した。
結局そのまま1点取られ、チハヤが1ゲームを先取してインターバルに入った。
「あーあ。力の差がありすぎるねえ。さすがはチハヤだよ。」
モモカの言う通り、元の技術と経験量に差がありすぎる。こんな結果になってしまうことに恥じる必要なんてない。そう言って励ましてあげたいところだが、彼女が恐れているのは負けることではない。
「ここで負けたら、レイジとの約束が……でも、一体、どうしたら……」
おそらく試合の流れは変わらず、このままチハヤの勝利で終わるのはヒカリが一番わかっていた。
チハヤはヒカリ、そしてレイジの顔を見る。
完全に手詰まり。そう感じていることを確信した彼女は、気持ちを落ち着かせてコート内に戻った。2ゲーム目はコートチェンジ。両者のポジションを入れ替えるのがルールだ。
「初心者にしては頑張ってたわよ。落ち込むことはないわ。」
チハヤはヒカリの体調を気遣いながら声をかけた。ヒカリが移動することで、荷物置き場が空くのを待っている。
インターバルの時間は限られている。ヒカリはドリンクやタオル等を持ってチハヤがいたコートへ歩き出した。ラケット含めて荷物を置き再びドリンクを飲むと、両手で頬を叩き、しばらく顔を手で覆っていた。
顔から手を放してラケットを拾うと、コートに入っていった。
「もうこのゲームが最後のチャンス。さっきと同じようにやったら勝てない。でも、私は絶対に負けない。」
最初は独り言を言いながら、徐々に声をはっきりとさせチハヤに目を向け、勝利宣言をした。
ヒカリの考えはもう入れ替わっていた。万策尽きた、不安だらけの心ではない。彼女の力を、そして勝利を信じた正気溢れる心だ。レイジはそれに素直に共感できはしなかったが、ヒカリを信じることに間違いはないと思えた。
主審も線審も、ヒカリの言葉に呆れていた。1点しか取れなかったのに何を言っているのかと。チハヤも面食らっていたが、ヒカリの目は本物だと感じた彼女はすぐに気持ちを試合モードに切り替えた。勝負は最初のサーブを打つときから始まっている。脳内でラリーのイメージを築き上げ、望ましいショットを考え出す。
「大丈夫。私はレイジのこと、誰よりも近くで見てきた。自分の直感を信じた迷いなきフットワーク、相手の裏をかくシャトルの返し……自分でやるのは難しいかもしれないけど、きっとできる。それができるなら私は、レイジは、絶対に負けない。」
自分と同じく、初心者ながら驚異的なスピードで成長し実力を伸ばしたレイジ。その強さはヒカリにはできない、先を読んだ大胆な攻め。相手が打つショットのコースを読んで打たれる前に動き瞬時に強く打ち返す。体勢を崩しながらも、相手が予測してないところに返して流れを変える。裏目に出てしまうことも多かったが、レイジとのバドミントンは魅せるプレーだ。見ていて何度驚いただろうか。どれだけ上手くなったとしても、レイジの強さにはかなわない。レイジは誰にも負けない強さを持っている。だからレイジは私にとって憧れであり、目標であり、そして、好きな人なんだ。
ヒカリは後ろを振り返り、2階に立っているレイジを見上げる。
「レイジ。私、勝つから!」
強がりや空元気などではない。勝てる自信があるからこその嘘偽りのない笑顔だった。レイジは微笑み、言葉を返した。
「ああ! 頑張れよ!」
「あの子、すごい自信ね。さっきまでとは大違い。」
モモカが驚くのも無理はない。レイジだって、あそこまで生き生きしている彼女を見たことはなかった。それほどまでに、彼女はレイジを信頼しているのだ。
「試合結果がどうなるかは分からんが、あいつのプレーが変わるのは確かだぜ。良いほうにも、悪いほうにもな。」
「へー。それは楽しみ。ほら、ハルカも見よう。」
レイジはずっと存在を忘れていて、モモカが呼んだことに驚いてしまった。
そうだ。ハルカもここにいたんだ。ヒエイ同様に心が読めないのもあるが、完全に気配も消してあった。結局ハルカはそこから前に出ず、壁のすぐ前から動かなかった。
「すごいんだよ。ハルカは。見えなくても見えるんだから。」
モモカが知っているのは、ハルカは1度見たものは目を閉じてもどこにあるのかが分かるというものだ。ただ記憶力が良いのではない。動くものであっても、今どこで何をしているのか分かってしまう。試合前のヒカリとチハヤを見ただけで、2人がどんな試合を繰り広げているのかすべて見えている。
そんな能力があるからこそ、視界がほとんど奪われる能面を被った状態で生活できるというわけだった。
2ゲーム目が始まった。チハヤがサーブを上げる。ヒカリから見て右の奥、大きくサーブが上がる。ヒカリの動きを見て、チハヤは自身から見てコートの左側、つまりヒカリの正面にに寄る。
それに対して、ヒカリは自分のコート上を対角線上に横切るような低めの球を打った。相手コートの前方に落ちる球。しかしヒカリは打った後、そこから動かなかった。
チハヤは瞬時にシャトルの前に移動し、ラケットの面の向きをシャトルの軌道に対し垂直になるように向けた。ラケットを振らず、当てるだけ。それで球はヒカリのコートに返り、ネット際に落下した。
「どこ狙ってるのよ。あんなの返されたら届かないじゃない。」
期待していたモモカが呆れるのも無理はない。あれは以前レイジが打ったショットだ。正面に返すと見せかけて、反対側を狙う。奥に返すと見せかけて手前に落とす。相手の予測を崩して返した球。反応が遅れれば届かないが、届かれたら自分が拾いにいくのが間に合わない、諸刃の剣とも言うべきショットだ。
今のような球は、チハヤには通じない。彼女はヒカリが打つ直前、いや、ラケットを振り上げたときからそこに返ってくることが分かっていた。そしてヒカリは打った後、前に詰めてこないことも。だから冷静に前に返すことができた。
ヒカリがやろうとしていることは、レイジの物真似だ。自分の打ち方で点が取れないことが分かった以上、頼りはレイジのプレースタイルだけ。そう思ったヒカリは、今まで自分が見てきたレイジの打ち方を、その場その場に合わせて真似して打っている。
「今あいつがやっているのは自分のバドミントンじゃない。憧れている人のバドミントンだ。そいつは下手だけど、ヒカリは信じているんだ。そいつの力を借りれば、絶対に勝てるってな……」
その後も自滅にしか見えないラリー展開で点を取られ続け、ヒカリの自信の根拠が見えないまま、2ゲーム目は折り返しを迎えた。
「はぁ……はぁ……」
ヒカリの息が上がっている。1ゲーム目以上に緩急の激しい動きを続けている影響が大きい。元々レイジのプレースタイルは、相手を揺さぶって隙を作り想定外のショットで決めにかかるというもので、そのためにギリギリのタイミングで追いついたり惑わせる動きがついたりする必要があり、自身もオーバーな動きをする。いわば体力勝負であった。レイジ自身、1日4試合もこのプレースタイルでやれと言われてもできないだろう。
加えて、レイジが狙うのは相手が想定していないコースだ。自分の打つ位置は同じでも、相手によって返す場所は異なり、それが決まるか決まらないかも異なる。ヒカリのやっている物真似が上手くいかないのは当然のことだが、いかんせん相手が悪すぎる。
打つ直前になってコースが読め、迅速に対応できるチャンスには、レイジのプレースタイルは何一つ通じない。レイジが戦ったとしても、常にお互いがお互いの狙いを読んだラリーになり、そうなるとボロが出るのは動きが遅く技術も劣るレイジだ。レイジが挑んだとしても、圧倒的点差で敗北するのは免れないにちがいない。
それでもヒカリは、レイジのプレースタイルなら勝てると信じて戦っている。残り半分を切ったところでも、まだ気力は衰えていなかった。
すると突然、チハヤが頭を擦り出した。一瞬だったが苦しそうな表情を見せ、インターバルに入ると即座にコート外に出て、濡れタオルで頭を冷やしていた。
キャパオーバー。
普段以上に頭や神経を使った結果、脳がストップをかけている。1分や2分休んだところで治るものではない。おそらくチハヤはこの試合では、もう風を読むことができない。
それは打つショットの正確さに加え、相手の打球に対する足の動きやラケットの構えかたに大きく影響を与える。ここからは、彼女も能力に頼らない、純粋な実力で戦うことになる。
「また11─0だ。チハヤが勝つのは嬉しいんだけど、あの子、さすがにかわいそうだなぁ。」
「いや、勝負はまだこれからだぜ。」
結果だけ見れば、1ゲーム目と変わらない。線審を務めている選手だって、もう結果の見えている退屈な試合に感じている。
けれどもレイジは、ようやく勝機が見えてきてテンションが上がってきた。
後10点。まだまだチャンスはある。何より、ヒカリは諦めていない。
ヒカリも体力はほとんど使い果たしている。けれども、打つ手はまだたくさん残っている。だから彼女はまだ挑戦できる。むしろ今までで一番集中力が高まっていた。
ヒカリは短めに休憩を済ませると速やかにコートに戻った。なるべく長く休みたいチハヤは、そんなヒカリを見て余計に焦りが出てきた。
チハヤもコートに戻り、試合が再開した。ラリーは大きく変化しているのが、レイジそして未経験者のモモカにもすぐに分かった。
「ねえ……なんか遅くなってない? チハヤの球、それに、動きも……」
チハヤの打つスマッシュは遅くなった。そのうえ、他のショットもコースが四隅よりずっと中央に寄っていた。
チハヤは打球がコートに入らない、もしくはネットに引っかけてしまいヒカリに得点が渡ってしまうことを警戒するあまり、不安定な体勢で点を決めにいくことができなくなっていた。
加えてヒカリが打ってくるコースも読めなくなったため、目視で対応せざるを得なかったが、ヒカリはそれを読んで裏をかいていくため、ショットに撹乱されていた。読みが外れ動き出しが遅れれば次の球を強く打ち返すのは困難になる。2ゲーム目後半のラリーは、ヒカリが主導権を握ることがあった。
「イン。1─11。」
ヒカリは2ゲーム目で初めて点を取った。まぐれではない、チハヤの動きを崩しに崩してもぎ取った、正真正銘ラリーを制して取った1点だ。
「チハヤはもう、能力で対応することができなくなってしまったんだ。だから風を読まずにプレーせざるを得ないんだが、ヒカリは意表をついてラリーを展開している。」
「事前に読めなくなったから自力で取りにいこうにも、ヒカリはその読みの上をいっている……後出しじゃんけんができなくなったってことね!」
チハヤのプレースタイルを後出しじゃんけんと見れば、そうなるだろう。けれども今はまだ、あいこを出せるようになっただけだ。
その後のラリーはシーソーゲーム。チハヤが取り返し、ヒカリが再び取り返す。
ヒカリが狙って打った球がアウトになったりネットにかかったり、チハヤの届く範囲へ飛んでしまったりと、ヒカリの打ち方が裏目に出ることもある。チハヤはいつまでも怖じ気づかず勝負で出る1球を決めにかかったりと、試合の流れを完全にヒカリ自身のものにできているわけではなかった。
17─6。ここにきてチハヤが2点連続で取ったが、ヒカリは諦めない。コート外に出ることやネットにかけることも恐れない。激しい動きのなかで、今まで見てきたレイジの戦い方を思い出して相手が予測できなかったところを狙う。
1点取ればヒカリはリーチになるのだが、そこで失点したことで焦り出すことはもうなかった。より多くラリーを制し、点を取る。彼女が考えているのはたったそれだけ。勝ったときのこと、負けたときのことは考えず、この試合だけに全精力を捧げていた。
再びシーソーゲームが続いた。ヒカリはコートの前に出て、軽くラケットを当てシャトルを正面、チハヤのコートの前に返す。コートの後方にいたチハヤが全力で前に詰めてきたとしても、球が床に落ちるギリギリのタイミングで返せないと予測したヒカリは、コート中央、前寄りでラケットを上げて構えた。
ギリギリ届いたとしてもコートの真ん中より前にしか返せないと踏んだからだ。そして球が飛んだ瞬間、その軌道に対し真っ直ぐに当たるよう、ヒカリはラケットを上げたまま前に一歩詰めた。
想定通り、チハヤは、かろうじてシャトルに届くと、それを真っ直ぐに、ヒカリにとって右側の、前方めがけて返球した。
ネットの真ん中、やや上方を通り、なおも上まで上がる球速の遅いショット。ヒカリが打ち返さなければラインの内側に落下してチハヤの得点となる。しかし、一歩出せば取れる。ヒカリの届かない球ではなかった。
「今だ! 決めろ、ヒカリ!」
ヒカリはラケットをさらに上げて、瞬時に前に詰めて上から叩くように打ちにいく。
コート全体を対角線上に一気に駆け出して打ったチハヤは、打った位置で踏み止まれず、バランスを崩すとそのまま床に膝をつき、両手をついた。すぐに顔を上げるとシャトルに、ヒカリに目を向けたが、立ち上がることはできないようだ。
コート中が垂れた汗で滑りやすくなっており、今の転倒で足を痛めていた。おそらく今のチハヤならそう自由には動けない。
このラリーはヒカリのサーブで始まった。だからどこでもいい。この1球を返せば、彼女は取りにいけずヒカリの2連続得点になる。そうすれば、ヒカリの勝ちは確実なものとなる。
ヒカリは右手に持ったラケットを、大きく振ってシャトルに面を当てた。
シャトルのコルクとラケットの面が衝突し、パーンという音が響いた後、コートは静寂に包まれた。
シャトルは、コートに落下した。
チハヤのコート、サイドラインの境界線上に。
「入った!? 入ったのか!?」
「すごいギリギリの所に刺さったね。ここからじゃ分からないよ。」
レイジとモモカはコートを見下ろし、審判の判断を見た。
主審は線審に目を向ける。俯いていたその線審は、はっと顔を上げると数秒間を空けて両手を広げ、宣言した。
「えっと……アウト。」
線審はアウトと、つまりチハヤの得点と判断した。正確な落下点を見ていなかったが、それでいいだろうという雑な判断だった。
「くっそぉ……大事な場面でなんて適当な審判だ。」
レイジにも正確な落下点は見えなかったが、貴重なチャンスを逃してしまったことについ怒りが向いた。しかし、試合の流れは一気にヒカリが有利になった。点こそ取られたがラリーでは勝ってたうえに、今の転倒で足を痛めたチハヤはもう動けない。
きっと勝てる。そう思っていた。
「21─10。ゲームセット。」
主審のコールが、聞こえた。




