95話 鯛、鯉、恋
気が付けば午前四時。しかし外はすでに明るい。雨戸を閉めずにいたため窓から光が射し込んでくる。玲司はソファーに仰向けで寝転がり一晩中スマホを弄っていて、一睡もしていない。イヤホンジャックを差し込んだままでイヤホンは耳に挿さなかったため、アラーム音に耳を痛められることはなかった。
メッセージのやりとりの相手である茂吉は、そろそろ朝食の準備があるということでスマホから手を離すと言っている。そのためレイジもまたスマホを胸に載せ、目を休めようとしたそのときだった。
「あら? レイジ、もう起きてたの?」
ドアを開けてリビングに入ってきたのは息吹、そしてレイジが部屋を貸した憩だ。彼女たちは今日の朝五時から始まるタイラバ、鯛を釣りに行く船に乗りに行くためこんな早くに起きてきたのだ。
「いや、俺は今から寝る。寝てねえんだ、おやすみ。」
さっきまでは眠気などまったく感じていなかったが、二人の姿を見て今日の出来事を思い出してみると急に疲れが込み上げてきた。イコイが家を出れば自分の部屋が空くのだが、階段を上るという移動が面倒に感じるのと、案外ソファーの寝心地が良かったのとで体はまったく動かなかった。なんなら今日一日ずっとここにいたい。そんなレイジのわがままを、イブキは黙って見過ごすことはなかった。
「何言ってるのよ。ギリギリまで寝るくらいなら運動してた方がいいわよ。あなたのペースでも、この時間なら走っていっても間に合うと思うわ。」
今の時間帯はまだ気温が低めとはいえ、夏真っ盛りの朝っぱらからマラソンなど御免だ。そのうえレイジは走るのが遅いことも遠回しに馬鹿にされている。
「あちこち薄くて空気抵抗受けない奴は楽でいいよな。俺なんか無駄にタッパあるおかげで走りずらいんだ……」
「……誰の、何がないって……」
イブキはレイジの心臓の動きを止めようと拳を握ったが、イコイが仲裁に入ったおかげで未遂に終わった。
「まあまあ……それより、モキチと話し合ってたのかい?」
「ああ。あいつ今から朝飯って言って今は連絡つかねえだろうけど。」
レイジの話を聞いて、とりあえずこれで独りで抱え込む心配はなさそうだと安心したイコイは、心置きなく釣りに出掛けられるようになった。
「君に頼んでよかったよ。お礼に釣りのコツとか教えてあげるから、一緒に行こうよ。」
「一睡もしてない初心者が船に乗ったらどうなるか分かるだろう?」
別のお礼を要求し誘導しているわけではない。上手いこと口車に乗せて出掛けさせようという狙いが透けているからこそ、レイジは相談に乗っていたことを逆手に取って外出を拒否した。
「ぐだぐだ言ってないで、早く支度しなさい。どうせ行くつもりだったんでしょ。」
「はいはい、分かってるよ。」
今日はアルバイトは入っていない。タイラバ自体も夕方には終わる。帰ってきてすぐに眠れば、明日の午前中には疲れが取れているだろう。そう割り切ったレイジは体を横に向けて床に足を着き、上体を起こして立ち上がった。
「すごいね。たった一言で起こすなんて。」
「私に比べて暇な生活してる自覚があるんじゃない?」
確かに昨日までは行くつもりでいたし、起きるつもりでいた。急遽会話する相手が現れたところで、行く気がわずかに薄れてしまったがなくなったわけではない。何よりハードな日々を送っているイブキに見下されるような生活をしていると思われたくなかった。
「これで体調崩したら、お前らのせいだからな……」
「はいはい。早く準備しなさい。」
イブキに軽くあしらわれたが、実際準備はほとんど済んでいる。着替えや財布、スマホの充電器を鞄に詰め、隣には今日着ていく服も揃えてある。その気になれば一分後には家から出られるくらいだ。
「じゃあ着替えてくるついでにシャワー浴びてくるわ。その間に朝飯よろしく。」
レイジは服を持って浴室へ向かっていった。
「……何て言うか、マイペースな人だね。」
「ボケてるだけよ。トラブルを起こさなければいいんだけど……」
その言葉にレイジはイライラしながらも黙って冷たいシャワーを浴びて、汗を流し眠気を覚ました。
三人は家を後にし、港へと歩いていった。外は明るいうえに気温はまだ低く、弱い風が吹いていて心地好い。服装は長袖長ズボンと季節外れだが、この時間帯なので苦に感じない。海に出るとさほど暑さを感じないうえに水しぶきを浴びるため、あまり肌を晒していると日焼けして体も冷えてと災難に見舞われる。帰るときは半袖半ズボンなので、暑さに苦しむこともない。
釣竿は借りることもできるが、海の家に置いてあるものを持っていった。持ち歩くと邪魔に感じるが、一本借りるのに千円かかることを考えると持参する方が良いというのがイブキの考えだった。レイジは別に千円くらいと思っていたが、苦労してでも贅沢を抑える彼女の主義に圧され持っていくことになってしまった。
「しかしまあ、明け方の海ってのは綺麗なもんだな。」
「あら。意外と分かるのね。」
レイジはスマホを取り出し、一面の海を写真に収めた。車通りも少なく、耳に響くのは波打つ水の音。これで他人の心の声も聞こえてこなければ、最高の気分を味わえただろうとレイジは考えていた。
嬉しげに共感するイブキは毎日早起きしている。といっても、今日ぐらい早く起きることはめったにないが、早朝特有の景色や静けさは毎日のように感じていた。この空気が彼女の日々の原動力になっている。一流のライフセーバーになるためのトレーニングを毎日欠かさず続けられるのも、この景色を拝むことができることが少なからずモチベーションの持続に加担しているのだ。
「今さら言ってなんだけどさ、人が多かったら当日参加を受け入れてもらえない可能性もあるんだ。」
事前に申し込んであるのはイコイとイブキだけで、今朝まで行くか行かないかをはっきりさせる気のなかったレイジは申し込んでいない。参加者が少なく空きがあれば飛び入り参加も可能だが、いっぱいいっぱいならレイジ一人だけ入れないということだ。
「それなら合法的に寝られるし、余計な出費も抑えられるから俺的には好都合だな。あー、満席ならいのになー。」
そんなレイジの願いも虚しく、朝五時出港の回の参加者はほとんどおらず、参加できないということにはならなかった。
「これで釣れなかったらお前のせいだぞ。」
「心が読めるんなら魚の位置ぐらい分かるでしょ? ああ、それでも力不足なら逃げられちゃうけどね。」
レイジは心の中で、絶対にイブキより多く釣ってやると躍起になった。
それから十分ほど歩くと漁船が見えてきた。集まっている人の心の声はレイジにはすでに聞こえたため判りきっていたことではあるが、人は少ない。これなら飛び入り参加ができないということもないし、一人当たりの釣れる確率も高い。来た甲斐があるというものだ。
「お世話になりまーす。」
イブキはパーカーのポケットから参加費を渡して、いち早く船に乗り込む。レイジとイコイは鞄から財布を取り出し、そこからさらに一枚ずつ紙幣を抜き出した。
「彼女はずいぶん無用心だね。ひょっとして今はお金持ちなのかな?」
「風に飛ばされようがキャッチできるからな、あの怪物は。」
ポケットから飛ばされ数メートルほど浮かされたところで、多少は脚に負担がかかるももの跳躍すれば取り返せるし、そんじょそこらのひったくりでは返り討ちに遭うだけだろう。それは彼女のライフセーバーとしてのトレーニングを経て身に付いた力に自信があってのことだが、それとは別に、常に最低限の荷物で済ませておくのが彼女のポリシーだった。一刻でも早く救助に向かうために、重い物や細かい物は極力持ち歩かないよう心掛けているからこそ、一万円以上の大金を裸で持ち歩くことを躊躇わなくなった。
「モキチから聞いていたんだ。二千代の能力者はお金に対して敏感なんだって。彼女も彼らと昔からの仲間なんだろう? 村を出て、変わってしまったってことかい?」
二千代。現在は人口十万人を超える一つの市だが、昔は、合併前はそこには小さな村があった。暮らしに不便なことが多く、無駄遣いはしない、お金は大事に扱う。それがその村の掟の一つだった。その掟はイブキも守っていたのだが、こっちで居候を始めてからは彼女は思想を変えた。それを彼らに知られたことが、余計に溝を深めてしまったことは彼女も分かっている。けれども曲げるつもりはない。自分が間違っているなど考えてもいないのだ。
「変わっちまったな。俺も直接見てきたわけじゃないけど、周りの言う昔のあいつとは完全に別人さ。」
ゆえに今のイブキには、レイジより上の能力がある。だから彼はその変化を間違っているとは思わない。
「まあ、その辺の話はまた今度にやるよ。結局俺はあいつに直接会いに行くことになったからな。都合がつくなら来てみたらどうだ?」
「そうだね。ごめん、せっかく楽しい釣りに来たのに余計な話始めちゃって……」
楽しいか楽しくないか、それは結果次第だろう。少なくともこれは戦いだ。
レイジたちは日焼け防止のためのつば付きの帽子とサングラスを身に付けて乗り込み、ついに船が出港した。波に揺れ、床が傾いては反対に傾くの繰り返しが続く。
「今日は若い子たちがいて賑やかでいいねえ。でも、そう簡単にはいかないよお。」
船乗り親父の言う通り、レイジたち三人のほかは四十代前後のおじさんばかりだ。可愛い女の子はいない。可愛いげのない女の子しかいない。
「分かってはいたけど、女の子はいないね。」
「そりゃそうだろ。か弱い女の子にこのイベントは無理だ。」
イブキの方をチラッと見てレイジはわざと聞こえるような大声で言った。当の彼女は釣れるほどの筋力がないだなんて微塵も思っておらず、不安も抱えないで一人で挑む気満々だ。
「誰か誘えば良かったな……今度呼ぶか……」
「今日のことはSNSにアップするわ。イキって釣りに挑戦した某男子高校生、何も釣れず大金をドブに捨てる、ってね。」
「……まな板。」
レイジの暴言を皮切りに船はさらに激しく揺れ、数名の乗客は転倒して頭を打ち、船酔いを催す人も現れた。
港を出てしばらくすると、最初の釣り針が獲物を捕らえた。釣竿の持ち主はイコイだ。このイベントに参加すること自体は年に一度か二度の頻度だが、釣り自体は何年も前から日課のように取り組んでいる。だから突然のタイミングでかかったくらいで慌てるようなことはしなかった。
「よっ、と……釣れた釣れた。幸先いいな。」
イコイは両手でしっかりと抱え、口に引っ掛けた釣り針を外した。釣れたのはマアジで、残念ながらメインターゲットではなかった。けれども釣れる魚の数に制限はない。当たりを狙う人もいれば、数多く獲ることを目標とする人もいる。競い合うものではないので、払った分の金や時間に対して充分に見返りが得られたのなら、それでいいというものだ。
しばらくしてレイジの釣竿にも反応が起こった。リールを回して引き上げつつ、持っていかれないようにしっかりと握る。レイジは海の中へ意識を集中し、獲物の心の声を聞く。抵抗が弱まった瞬間を狙って一気に引き上げるために、機会の到来を待っていた。
その彼の隣では、逃げられろ、だとか離せだとか願っている少女の心の声が聞こえる。心を乱されないように、意識は海の中だけに集中させなければならないと自分に言い聞かせた。
そして、時は満ちた。
「ははっ、獲れた獲れた。イコイ、撮って。」
レイジは釣れた魚を手に取ると釣竿を放り投げ、イコイの方を向いて記念の写真を撮ってくれるようお願いした。この島に来て以来初めての釣り、その中で初の獲物を手に取ったレイジは無邪気に笑い、満足げだった。
しかし少しして、レイジは釣り針を引き抜くとその魚を海に返してしまった。
「何やってるの、レイジ!」
「苦しそうだったから、つい……」
せっかく釣れたというのに、最後は調理して食べることができるというのに、海に投げてしまったレイジにイブキは困惑した。他の乗客たちも不思議そうに見つめているが、彼らには分からない。本来海に住むべき魚が、息のできない地上へ引っ張られていることに対する苦しみの声は、普通の人には聞こえない。普段彼は動物を調理したものを食べないというわけではない。すでに死んでいれば心の声は聞こえないので気楽でいられるが、殺す瞬間に立ち会っていると思うと平然としていられない。
その後も何匹も釣られていったが、レイジだけはすべて逃がしていった。残ったのはその日に釣ったという記録を残すために撮った一匹一匹の写真だけ。
生きているのに、イベントのために無益に殺したくないというのがレイジの考えではあったが、それをイブキは否定的に捉えていた。
「なんか、あれだね……アップするために無駄に釣ってるだけの人に見えてウザい。」
彼女にとって今のレイジは、最近また見かけるようになった、海の家に来てかき氷などを注文し、写真だけ撮って帰っていく客と同じように映ったのだ。お金は払っているから実害はない。それで片付くような話ではない。
「そうだな。自己満足のために釣って逃がすだけなら、虫を捕まえて虐める子どもと同じだ。」
レイジは今度の獲物はちゃんと捕まえよう、そう考えて釣り針を飛ばした瞬間、今までにないくらい強い力で引っ張られた。
釣れたのはマダイだ。このイベントのメインターゲットの一種。今日の参加者が釣った中では一匹目となる大物だ。
「すげぇ! イコイ、早く写真撮って!」
横を向くとイコイは鯛の姿に見入っていて、彼の声は届いていない。
「こ……これが噂に聞くマダイなんだ! この赤い鱗、白いお腹……こんなに生き生きしてるの、初めて見たよ……」
「後で見ればいいだろ! 早く写真を……」
どれだけ言おうと無意味、夢中になったイコイには聞かないと諦めるも焦りの止まないレイジは、ポーチから自分のスマホを取り出そうと足で蹴り上げようとしたが、バランスを崩してマダイが手元から飛び跳ねてしまった。
「あっ、待て、俺の大物!」
レイジは迷わず海へと飛び込み、周りからは非常に危険な行為と見られ船内は騒然とし、海に落ちたレイジを追ってパーカーを脱いだイブキもすぐさま飛び込んだ。
結局レイジはすぐにイブキに引き上げられ、獲物には逃げられてしまった。漁船は急遽停止し、二人はロープで引き上げられるとカンカンに叱られた。
「……釣りって怖いね。」
イコイはずぶ濡れのまま正座している二人の姿を写真に収め、再び釣り針を投げ込んだ。




