第9話 忘れたはずの筆跡
「あの文字は、私の筆跡に似ています」
口にした途端、オスカー様の表情が変わった。
床へ落ちた文書を拾い上げ、私から見えないように裏返す。
「今、何と言いました?」
「余白に書かれた文字です。私が書いたものに似ています」
「見覚えがあるのですか」
「いいえ。あの文書を見るのは初めてです。でも、文字の傾きや、最後の線を短く払う癖が……」
説明しながら、自信がなくなっていく。
自分が過去に書いた文字を覚えているわけではない。エレンという仮の名を初めて書いたのも、昨日のことだ。
それでも、あの文字を見た瞬間、自分のものだと思った。
「部屋へ戻れと言ったはずだ」
レオンハルト殿下の声がした。
「申し訳ありません。ですが、確かめさせてください」
「何をだ」
「本当に私が書いたものなのかを」
殿下はオスカー様が持つ文書へ目を向けた。
「エレンへ見せろ」
「殿下、これは押収品です」
「だからこそ確かめる」
「彼女が関係者であれば、内容を見せることで証拠を隠す手がかりを与える可能性があります」
「一人で見せるとは言っていない。ここで確認させろ」
オスカー様は納得していない様子だったが、文書を卓上へ置いた。
私は促されるまま、先ほどまで使っていた席へ座った。
文書はアルヴェール語とノルディア語の二つで書かれていた。
国境で取引される穀物の量と、関税についてまとめられている。
両方の言葉を、私は迷うことなく読むことができた。
「内容が分かるか」
殿下が尋ねた。
「はい。アルヴェールからノルディアへ穀物を運ぶ際の取り決めです」
「どの部分がお前の筆跡だ」
余白に書かれた一文を指す。
「こちらです。『冬季の関税を上げれば、北部へ届く穀物が減る』とあります」
「意味は」
「税が高くなれば、正規の道を使う商人が減ります。穀物の価格も上がり、必要な村ほど買えなくなります」
文書の中央には、冬の間だけ関税を引き上げる案が記されていた。
けれど、その数字の下に、薄く削られた跡がある。
「ここは書き直されています」
「分かるのですか」
オスカー様が身を乗り出した。
「紙の表面が荒れています。もとは、今より低い数字が書かれていたのではないでしょうか」
灯りのほうへ紙を傾ける。
削りきれなかったインクが、わずかに残っていた。
「元の数字は、おそらく三です。今は八に書き換えられています」
「三と八では、随分違いますね」
「はい。これでは正規の関税を支払うより、密かに国境を越えたほうが安くなります」
そこまで言って、胸の奥がざわついた。
この文書を知っている。
内容ではなく、考え方を。
冬の穀物は止めてはいけない。
税を上げれば、困るのは商人ではなく、食料を待つ人々だ。
誰かへ何度もそう説明した気がする。
「何か思い出したのか」
殿下が私の顔を見た。
「いいえ。ただ……この余白の意見は、自分が書きそうなことだと思いました」
「理由は」
「私なら、同じことを考えるからです」
オスカー様はもう一枚の紙を用意し、私の前へ置いた。
「同じ文章を書いてください」
右手で筆を取る。
余白に残されていた一文を、そのまま書き写した。
冬季の関税を上げれば、北部へ届く穀物が減る。
書き終えると、オスカー様が二つの文字を並べた。
文字の大きさも、線の傾きも同じだった。
特に、穀物を示す古い綴りに、特徴がある。最後の二文字を一続きに書く癖まで一致していた。
「同一人物の筆跡と考えてよいでしょう」
オスカー様が言った。
「つまり、私はこの文書を書いたのですね」
「余白の一文を書いた可能性が高い、というだけです。本文まであなたが作成した証拠にはなりません」
「ですが、私はアルヴェールの交易に関わっていた」
「その可能性は高くなりました」
喜ぶべきなのか、恐れるべきなのか分からなかった。
自分の過去につながる、初めての確かな手がかりだった。
けれど、それが見つかったのは、村から物資を奪った指揮官の荷物の中だ。
「私は、密輸に関わっていたのでしょうか」
口にすると、声が震えた。
「まだ何も決まっていない」
殿下が言った。
「でも、私の文字が犯罪に関わった方の文書にあります」
「筆跡が一致したのは事実だ。お前が犯罪に関わったというのは推測にすぎない」
「同じことではないのですか」
「違う」
殿下は迷わず否定した。
「事実と推測を混ぜるな。間違った判断をする」
冷静な声だった。
私を慰めるためではない。証拠の意味を正しく分けているだけだ。
「この文書を書き換えた者を調べれば、分かることが増える」
殿下はオスカー様へ視線を向けた。
「グレゴールが、どこから手に入れたのか確認しろ」
「本人は口を割らないでしょう」
「では、荷物と部下を調べろ。取引相手がいるなら記録が残っている」
「承知しました」
「同じ筆跡がないか、ほかの文書も確認させますか」
オスカー様の問いに、殿下はすぐには答えなかった。
机上には、押収された文書が十数枚ある。
「原本には触れさせるな。写しを作れ」
「私を信用できないからですか」
思わず尋ねた。
「そうだ」
殿下は隠そうともしなかった。
「お前が何者か分からない以上、証拠を自由に扱わせるつもりはない」
胸が少しだけ沈んだ。
けれど、続いた言葉は予想と違っていた。
「同時に、お前が罪人だと決めつけるつもりもない。調べるまでは、どちらも同じだ」
「どちらも?」
「無実も、罪もだ」
その言葉を聞き、右手の力が抜けた。
自分でも気づかないうちに、筆を強く握っていたらしい。
「今日はもう戻れ」
「まだ文書を確認できます」
「顔色を見ろ」
額へ手を当てると、冷たい汗がにじんでいた。
「記憶を無理に探るなと、ユリウスから言われている」
「ですが、手がかりがあるのです」
「倒れても記憶は戻らない」
殿下が扉の外にいる女官を呼んだ。
「エレンを部屋へ送れ。ユリウスにも診せろ」
「私は大丈夫です」
「その言葉は聞き飽きた」
反論する前に、女官が私のそばへ来た。
立ち上がると、頭の奥に鈍い痛みが走る。
それでも、卓上の文書から目を離せなかった。
青い表紙。
揺れる蝋燭の光。
インクで汚れた自分の指。
一瞬だけ、見覚えのない光景が浮かんだ。
けれど手を伸ばす前に、また霧の中へ消えてしまった。
◇
エレンが退室したあと、オスカーは押収文書を一枚ずつ確かめた。
「殿下。こちらをご覧ください」
最後の一枚の裏側に、割れた封蝋が残っている。
紋章の大半は欠けていたが、中央に刻まれた木と、その上に置かれた冠の一部は判別できた。
レオンハルトは、別の紙に写し取らせていた馬車の紋章を取り出した。
崖下で発見した馬車にも、同じ木の意匠が刻まれていた。
「一致します」
オスカーの声が低くなる。
「この文書を所有していた貴族家と、エレンを乗せていた馬車は同じ家のものです」
「家名は」
「紋章録を調べれば、明日には判明するでしょう」
レオンハルトは、二つの印を見比べた。
偶然、事故に遭った女ではない。
密輸へつながる文書と、同じ貴族家の馬車。
そして、書き換えられる前の案に残された彼女の筆跡。
「アルヴェール側の死亡記録も調べろ」
「死亡記録ですか」
「あの馬車は、事故に見せかけて崖へ落とされた。生かして帰すつもりがなかったのなら、すでに死者として処理されている可能性がある」
オスカーが表情を引き締めた。
「直ちに確認します」
レオンハルトは、エレンが書いた一文へ目を落とした。
冬季の関税を上げれば、北部へ届く穀物が減る。
彼女は密輸を助けようとしたのか。
それとも、止めようとして消されたのか。
まだ、どちらとも決めることはできなかった。




