第10話 祖国では、死んだことになっている
「エレン。お前と一致する死者が見つかった」
朝、レオンハルト殿下の執務室へ呼ばれた私に、殿下はそう告げた。
挨拶を交わしてからでも、椅子へ座らせてからでもない。
けれど、遠回しに言われるよりよかったのかもしれない。
「死者、ですか」
「アルヴェール王国の貴族令嬢だ」
殿下の執務机には、数枚の文書が置かれていた。
隣にはオスカー様が立ち、少し離れたところにはミラ様もいる。私が一人で聞くには重い話だと判断されたのだろう。
「座れ」
命じられるまま、机の前の椅子へ腰を下ろした。
殿下は一枚の文書を手に取ったが、すぐには渡さなかった。
「事故のあと、記憶が戻ったことはあるか」
「いいえ。時折、見覚えのない光景が浮かびます。でも、それが本当に過去の記憶なのかは分かりません」
「今から見せるものには、お前の身元につながる可能性がある。今日は聞かず、回復を待つこともできる」
私は文書を見つめた。
怖かった。
自分が何者か知りたいと、ずっと思っていた。
けれど、その答えが密輸に関わる罪人かもしれない。
あるいは、死んだ人間かもしれない。
「今、聞きます」
逃げても、過去が変わるわけではない。
「見せてください」
殿下は文書を差し出した。
アルヴェール王国で公示された死亡記録の写しだった。
そこに記された名前を、声に出して読む。
「エレノア・アシュベリー……」
二十二歳。
アシュベリー伯爵家の長女。
赤みを帯びた栗色の髪と、深い緑の瞳。
母を早くに亡くし、病弱であったため、社交の場にはほとんど姿を見せなかった。
北部の別邸で静養するため移動していたところ、馬車が崖下へ転落。遺体は近くを流れる川に流され、発見には至らなかった。
いくつもの記述が、今の私と重なっている。
年齢。
髪と目の色。
北部の別邸。
崖から落ちた馬車。
そして、頭文字がEで始まる名前。
「この方が、私なのですか」
「断定はできない」
殿下が答えた。
「だが、可能性は高い」
オスカー様が別の紙を私の前へ置いた。
アシュベリー伯爵家の紋章が描かれている。
冠を載せた一本の木。
枝の一部が、左右へ大きく広がっていた。
「事故現場で発見した馬車の紋章と、押収文書に残された封蝋。そのどちらも、この紋章と一致しました」
「では、あの馬車はアシュベリー伯爵家のものだったのですね」
「間違いありません」
紙に描かれた木を見つめる。
胸の奥に、かすかな痛みが走った。
知っている気がする。
けれど、自分の家の紋章だとまでは思い出せなかった。
「こちらも確認してください」
オスカー様が、もう一枚の報告書を差し出した。
「事故について、御者が証言しています」
「御者が……生きているのですか」
思わず声が大きくなった。
道の上に立ち、走り去る馬車を見送っていた男。
あの男は、馬車に乗っていなかった。
「証言では、御者も馬車とともに崖へ落ち、途中で投げ出されたことになっています。意識を取り戻したときには令嬢の姿がなく、川へ流されたものと考えた、と」
「嘘です」
はっきりと言えた。
「御者は崖へ落ちていません。馬車を停めて金具を外し、馬を走らせました。私は扉を開けようとしましたが、外から固定されていたのです」
「その証言は、すでに記録してある」
殿下の声は落ち着いていた。
「御者の話と、お前の記憶は一致しない」
「なぜ、その男の言葉を誰も疑わなかったのですか」
「伯爵家が事故として受け入れたからです」
オスカー様の答えに、息が止まった。
「受け入れた……?」
「御者が屋敷へ戻ったのは、事故の翌朝です。その日のうちに、エレノア・アシュベリーの死亡が届け出られています」
「遺体は見つかっていないのでしょう?」
「はい」
「捜索は?」
「行われたことになっています。ただし、記録にあるのは半日だけです」
半日。
私は崖下で、生きていた。
息をしていた。
助けを待つことさえできず、意識を失っていた。
その頃、家族はわずか半日の捜索で、私を死んだことにした。
「葬儀は……」
尋ねたくなかった。
それでも、聞かなければならない。
「もう、済んでいるのですか」
オスカー様は一瞬、答えるのをためらった。
代わりに、殿下が口を開いた。
「三日前に行われた」
胸の奥から、すべての音が消えた。
「棺には、何が入っていたのですか」
「遺体はない。衣服と遺品を納めたと記録されている」
死んだと決められ、空の棺が埋められた。
家族は、その棺の前で何を思ったのだろう。
本当に私の死を悲しんだのか。
それとも、予定どおりいなくなったことに安堵したのか。
何も思い出せないからこそ、どちらも否定できなかった。
「死亡の届け出が、あまりにも早すぎます」
ミラ様が静かに言った。
「遺体も見つからず、捜索も半日だけ。それで葬儀の日まで決めるなど……」
「生きている可能性を、最初から考えていなかったのでしょうか」
私の問いに、誰もすぐには答えなかった。
「二つの可能性がある」
殿下が言った。
「一つは、伯爵家が御者の証言を疑わず、娘の生存を早々に諦めた」
「もう一つは?」
「お前が死ぬことを、あらかじめ知っていた」
冷たい言葉だった。
けれど、目をそらして優しい嘘を与えられるよりよかった。
膝の上で、右手を握る。
「父親の名は、エドマンド・アシュベリー」
オスカー様が告げる。
「妻はベアトリス。エレノアの実母ではありません。十九歳の異母妹、リリアがいます」
名前を聞くたび、胸の奥に小さな波が立った。
エドマンド。
ベアトリス。
リリア。
誰の顔も思い出せない。
それでも、最後の名前を聞いたとき、青い石の耳飾りが一瞬だけ浮かんだ。
「リリア……」
唇から名前がこぼれた。
「思い出したのか」
「いいえ。ただ、青い耳飾りが見えました。誰かが、身につけていたような……」
頭の奥が痛み、私は目を閉じた。
「それ以上、探るな」
殿下の声が飛ぶ。
「でも、もう少しで思い出せるかもしれません」
「倒れるまで続けるつもりか」
「自分が誰なのか分かるなら――」
「記憶を戻すために、今ある身体を壊してどうする」
厳しい声だった。
顔を上げると、殿下の冷たい青の目が私を見ている。
「今日はここまでだ」
「お待ちください」
「何だ」
「もし私がエレノア・アシュベリーなら、アルヴェールへ知らせるべきではありませんか。生きていると」
オスカー様の表情が引き締まった。
「連絡先を誤れば、あなたを殺そうとした者へ居場所を教えることになります」
「でも、家族が待っているかもしれません」
「葬儀を急いだ家族が?」
言われた瞬間、言葉を失った。
「オスカー」
殿下が低い声で制した。
「事実だけを言え」
「失礼しました」
殿下は私へ視線を戻した。
「生存を知らせたいなら、止めはしない」
「よろしいのですか」
「お前の人生だ。決めるのはお前だ」
意外な言葉だった。
「ただし、送り先と方法はこちらで調べる。殺そうとした者へ直接知らせることは許可しない」
「それは、私を疑っているからですか」
「お前を疑っている。同時に、お前の周囲にいた者も疑っている」
殿下は死亡記録を指先で押さえた。
「今すぐ決める必要はない。記憶も証拠もないまま、帰るか残るかを選ぶな」
「いつまで待てばよいのでしょう」
「期限は設けない」
役に立つかどうかも、身元を証明できるかどうかも求められなかった。
答えが出るまで待ってよいと、初めて言われた。
それなのに、胸の中に広がったのは安心ではなかった。
エレノア・アシュベリー。
それが本当の私なら、祖国には家族がいる。
けれど彼らは、私を探していない。
私は帰る道を忘れたのではなかった。
帰る前から、帰る場所を失っていた。




