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功績も婚約者も妹に奪われた伯爵令嬢は、記憶を失った先で冷酷皇太子に溺愛される  作者: EMo


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第11話 帰りたい場所が、分からない


 その夜、ほとんど眠れなかった。


 目を閉じると、見たこともない棺が浮かんだ。


 中に遺体はない。


 代わりに衣服と遺品が納められ、家族がその前に立っている。


 父は泣いたのだろうか。


 継母は、どのような顔をしていたのだろう。


 妹は。


 何一つ思い出せないのに、胸だけが痛んだ。


 エレノア・アシュベリー。


 それが本当の名前だとすれば、私は家族に死んだことにされた。


 生きている可能性を、わずか半日で諦められた。


 あるいは、初めから死ぬと知っていた。


 どちらのほうが苦しいのか、自分でも分からなかった。


 翌朝、運ばれてきた食事には、ほとんど手をつけられなかった。


「スープだけでも召し上がってください」


 ミラ様に勧められ、匙を持つ。


 二口ほど飲んだところで、手が止まった。


「食欲がありません」


「そうでしょうね」


 叱られると思ったが、ミラ様は食器を取り上げなかった。


 向かいの椅子へ座り、しばらく私を見ていた。


「家族へ知らせたいですか」


「分かりません」


 昨日から、同じ答えばかり繰り返している。


「心配しているなら、知らせたいと思います。でも、私を死んだことにしたのが家族なら……」


「怖いのですね」


「はい」


 帰れば、何かを思い出せるかもしれない。


 父や継母、妹の顔を見れば、記憶が戻るかもしれない。


 けれど、そのために戻った場所で、もう一度殺される可能性もある。


「自分の家なのに、帰るのが怖いなんて、おかしいでしょうか」


「いいえ」


 ミラ様は迷わず答えた。


「家であれば、必ず安全だとは限りません」


 その言葉は、慰めよりも深く胸に落ちた。


「それに、今すぐ答えを出す必要もないでしょう」


「殿下にも、同じことを言われました」


「では、珍しく意見が合いましたね」


「珍しいのですか」


「殿下は、何事も早く決めたがる方です」


 ミラ様の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「決めたあとは、誰に反対されても動きません」


 昨日の裁定を思い出した。


 侯爵家の人間であっても、殿下は処罰をためらわなかった。


 あの方が私を保護すると決めている間は、ここにいれば安全なのだろう。


 けれど、それに甘えてよいのか分からない。


「仕事をします」


 匙を置き、言った。


「考えずに済みますから」


「食事を終えてからです」


「ですが――」


「食べずに働く者へ渡す書類はありません」


 ミラ様は穏やかな顔のまま、譲らなかった。


 私は諦めて、もう一度匙を取った。


     ◇


 その日の仕事は、前日の会議で決まった内容を、村へ送る正式な文書へ整えることだった。


 ローデ村へ送る小麦の量。


 ハーゲン村から買い取る豆と芋の価格。


 ベルク村へ支払う運搬費。


 数字を確認している間は、自分の過去を考えずに済んだ。


 けれど、仕事の時間は一刻と決められている。


 砂時計の砂が落ちきると、女官が書類を引き取りに来た。


「もう終わりなのですか」


「殿下から、一刻を超えさせるなと命じられています」


「あと少しだけです」


「そのお言葉も、ミラ様から聞いております」


 どうやら、私の言いそうなことはすべて伝えられているらしい。


 部屋に残されると、急に静けさが戻った。


 何かをしていなければ、また空の棺を考えてしまう。


 私は外套を羽織り、扉の前にいた護衛へ声をかけた。


「中庭を歩いてもよいでしょうか」


「女官をお呼びします」


「一人ではいけませんか」


「殿下の許可がありません」


 監視されている身だということを、忘れかけていた。


 しばらくして女官が来ると、私は付き添われて中庭へ下りた。


 離宮の中庭には、色の少ない季節にも耐える低木が植えられている。中央の噴水はすでに水を抜かれ、石の底に落ち葉が積もっていた。


 冷たい空気を吸い込む。


 胸の痛みは、以前より軽くなっている。


 回廊の向こうに、銀色の髪が見えた。


 レオンハルト殿下が、二人の軍人と話している。


 気づかれないうちに戻ろうとしたが、殿下の青い目がこちらへ向いた。


「エレン」


 呼ばれ、足を止める。


 軍人たちへ短く指示を出してから、殿下がこちらへ歩いてきた。


「なぜ外にいる」


「歩く許可は、ユリウス先生からいただいています」


「一人か」


「女官が一緒です」


 後ろに控える女官を確認すると、殿下はそれ以上何も言わなかった。


「村へ送る文書は終わったのか」


「あと少しでしたが、時間になって取り上げられました」


「契約どおりだ」


「急ぐ必要がある文書です」


「明日の一刻で終わらせろ」


「それまでに雪が降ったらどうするのですか」


「明日までに雪は降らない」


「なぜ分かるのです」


「空を見れば分かる」


 殿下が空を見上げた。


 銀の髪が冷たい風に揺れる。


 つられて見上げると、雲は高く、山の稜線まではっきりと見えた。


「北部に、長くいらっしゃるのですか」


「国境視察で何度も来ている」


「国境を守るために?」


「それもある」


 短い答えだった。


 会話が途切れる。


 戻るべきだと思ったが、聞きたいことがあった。


「殿下は、私がアルヴェールへ帰るべきだと思われますか」


 青い目が、私へ戻った。


「私が決めることではない」


「でも、私は何も覚えていません。正しい判断ができるかどうかも分かりません」


「ならば、今は決めるな」


「いつまでですか」


「決められるようになるまでだ」


「その間、私はどうすればよいのでしょう」


「仕事をして、傷を治せ」


 殿下は当然のように答えた。


「それだけでよいのですか」


「ほかに何がある」


「身元も分からない敵国人を、いつまでも置いておくわけにはいかないでしょう」


「期限を決める必要はない」


「ですが、私が役に立たなくなったら――」


「なぜ、そこで仕事の話になる」


 殿下の眉が寄った。


「働けなくなれば、ここにはいられません」


「誰がそう言った」


「誰も言っていません。でも、何もできないのに置いていただく理由がありません」


 殿下はしばらく私を見つめていた。


「エレン。お前は、役に立たなければ居場所を失うと思っているのか」


 答えられなかった。


 そうなのかもしれない。


 誰かの役に立つことだけが、自分をここへつなぎ留める方法だと思っていた。


「仕事を与えたのは、能力が使えると判断したからだ」


 殿下は言った。


「だが、保護している理由とは別だ」


「では、なぜ私を?」


「崖下で生きていたからだ」


 あまりにも簡単な答えだった。


「それだけですか」


「それ以外に理由が必要か」


 何も返せなかった。


 役に立ちそうだったから救ったのではない。


 身分のある者に見えたからでもない。


 ただ、生きていたから。


「記憶を取り戻したいなら、調査は続ける。帰りたいと決めたなら、安全な道も用意する」


 殿下の声は変わらず冷静だった。


「だが、帰りたいか分からないなら、無理に選ぶな」


 冷たい風が中庭を抜けていく。


 殿下は私から目をそらし、遠くの山々を見た。


「思い出すまで、ここにいればいい」


 甘い声ではなかった。


 引き留めようとする響きもない。


 ただ、選べない私に、選ばなくてよい時間を与える言葉だった。


「監視は続けるがな」


「やはり、そこは変わらないのですね」


「当然だ」


 殿下はわずかに眉を上げた。


「嫌なら、早く潔白を証明しろ」


「努力します」


「記憶を無理に戻せという意味ではない」


 すぐに言い足され、私は殿下を見た。


 けれど、その顔はいつもの無表情だった。


「身体が冷えている。戻れ」


「殿下は?」


「まだ仕事がある」


「少しはお休みになったほうがよいのではありませんか」


「自分の心配をしろ」


 それだけ言うと、殿下は回廊へ戻っていった。


 私はその背中が見えなくなるまで、中庭に立っていた。


 帰りたい場所は、まだ分からない。


 本当の名前も、家族の顔も思い出せない。


 それでも、答えを出すまでいてよい場所が、今の私にはあった。


     ◇


 アルヴェール王国のアシュベリー伯爵邸では、黒い喪服を脱いだリリアが、鏡の前で新しいドレスを身体に当てていた。


「お腹が目立つ前に、婚礼を挙げたいわ」


 背後で、ベアトリスが娘の姿を確かめる。


「分かっています。けれど、エレノアの葬儀を終えたばかりです。すぐに婚礼を発表すれば、余計な噂を招きます」


「いつまで待てばいいの?」


「セドリック様が評議会で成果を上げれば、皆の関心は交易案へ向きます。そのあとで発表しましょう」


 リリアは不満そうに唇を尖らせた。


「そのセドリック様は、昨日からずっと執務室に閉じこもっているわ」


 同じ頃、セドリックは青い表紙の文書を前に、何度目かのため息をついていた。


 明日の評議会まで、もう時間がない。


 それでも、エレノアが残した数字の意味は分からなかった。


 扉が叩かれ、王宮からの使者が入ってくる。


「セドリック・ヴァレイン様。明日の評議会で、北部交易案について詳細をご説明いただきます」


「説明?」


「国境ごとの税率と、穀物価格への影響について、陛下が直接お尋ねになるとのことです」


 セドリックの手から、羽根ペンが落ちた。


 答えを知っているはずの女は、もういない。


 少なくとも彼らは、そう信じていた。

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