第12話 伯爵家から届かなくなった報告書
アルヴェール王国の王宮で、北部交易案を審議する評議会が始まった。
長い卓の中央には国王が座り、左右には財務卿や外務卿をはじめとする重臣たちが並んでいる。
その末席に近い場所で、セドリックは青い表紙の文書を開いた。
緊張はしていた。
しかし、人前で話すことには慣れている。
これまでにも、税収の改善や穀物備蓄について提案し、若いながら優れた官吏だと評価されてきた。
どの場面で声を強め、どこで相手の目を見るべきかも知っている。
文書の内容さえ頭に入れておけば、今日も問題なく終えられるはずだった。
「では、セドリック・ヴァレイン。説明を」
国王に促され、セドリックは立ち上がった。
「現在、我が国北部では凶作による穀物不足が懸念されております。これを補うため、ノルディア帝国との交易量を増やし、同時に関税収入を確保する案を提出いたします」
用意していた言葉を、よどみなく述べる。
交易所を二か所に集約し、通過する穀物へ一定の税を課す。
徴収した税は、街道と備蓄庫の整備へ使う。
説明を終えると、何人かの重臣がうなずいた。
セドリックは胸の内で安堵した。
やはり、問題はない。
「確認したい」
財務卿が文書を持ち上げた。
「冬季の関税を八とした根拠は何だ」
セドリックは一瞬、答えに詰まった。
青い表紙の文書には、三と八、二つの数字が残されていた。
どちらを使うべきか分からず、より多くの収入を得られる八を選んだのだ。
「国庫の収入を確保するためです」
「それは分かっている。なぜ八なのかと聞いている」
「過去の交易量から算出しました」
「どの年の交易量だ」
文書をめくる。
表には十年分の数字が並んでいるが、どれをもとにしたのか分からない。
「直近の記録です」
「昨年、北部の交易所は雪害で二月閉鎖された。昨年の量をそのまま使ったとは考えにくいが」
「それは……閉鎖期間を除いて調整しております」
「どのように調整した」
卓を囲む者たちの視線が集まった。
セドリックは、喉の奥が乾いていくのを感じた。
以前なら、こうした質問への答えも文書の余白に書かれていた。
どの年の数字を使い、なぜその数字を選んだのか。問われそうなことは、すべて短い言葉でまとめられていた。
今回の文書にも注記はある。
しかし、その一部はノルディア語で書かれており、読むことができなかった。
「関税を八まで上げれば、正規の交易所を避ける商人が増えるのではありませんか」
外務卿が尋ねた。
「取り締まりを強化します」
「国境すべてへ兵を置くつもりか」
「主要な道だけで十分でしょう」
「冬の間だけ使われる山道が、少なくとも七つある。すべて把握しているのか」
セドリックは答えられなかった。
文書の地図には、細い線がいくつも引かれている。
その意味を、エレノアに尋ねる前に屋敷から追い出してしまった。
「ノルディア側との協議は、どこまで進んでいる」
国王の問いに、背中を冷たい汗が流れた。
「現在、先方の商人を通じて確認しております」
「誰を通じている」
「北部の交易商です」
「名は」
沈黙が落ちた。
セドリックは青い文書を見下ろした。
ノルディア側の商人の名など、どこにも書かれていない。
いや、書かれているのかもしれない。
自分が読めない言葉で。
「セドリック」
国王の声が低くなる。
「この案を、本当にお前が作ったのか」
心臓が大きく鳴った。
「もちろんでございます」
反射的に答えた。
「では、なぜ根拠を説明できない」
「最終的な確認を担当していた者が、急に不在となりまして」
「担当者?」
財務卿が眉を上げた。
「これまで、そのような者がいるとは一度も聞いていない」
「補助的な仕事をさせていた者です。数字の整理などを任せておりました」
「補助者がいなければ、自分の案も説明できないのか」
厳しい言葉に、セドリックは拳を握った。
違う。
案は自分のものだ。
エレノアがしていたのは、必要な数字を揃え、文書に整えることだけだった。
そう思おうとした。
けれど、どの数字が必要なのかを選んだのも、問いへの答えを用意したのも、エレノアだった。
「この案の審議は保留とする」
国王が告げた。
「根拠とノルディア側の交渉先を明らかにし、改めて提出せよ」
「陛下、お待ちください」
「次は、自分の言葉で説明できる状態にしてこい」
反論は許されなかった。
セドリックは重臣たちの視線を浴びながら、青い文書を閉じた。
これまで向けられていた期待の中に、初めて明確な疑いが混じっていた。
◇
同じ頃、アシュベリー伯爵邸では、リリアが姉の使っていた執務室に座っていた。
「これを、私が?」
机の上には、何冊もの記録と手紙が積まれている。
「すべてではありません」
ベアトリスが答えた。
「急ぎのものだけでよいのです。エレノアがいなくなったのですから、あなたにも伯爵家の仕事を覚えてもらわなければなりません」
「でも、私はもうすぐセドリック様と結婚するのでしょう?」
「侯爵家へ嫁ぐからこそ、必要なのです」
リリアは最初の手紙を開いた。
領地の村から、翌春に蒔く麦の種の判断を求める内容だった。
「麦の穂を渡せばよいのではないの?」
そばに立つ執事へ尋ねる。
「どの倉から、どれだけ出すかをご指示ください」
「いつもと同じでよいでしょう」
「今年は東部の収穫が少なく、いつもと同じ量を出せば春の分が不足します」
「では、少なくすれば?」
「どの村を減らしましょう」
リリアは手紙へ目を戻した。
村の名を見ても、どこにあるのか分からない。
「あなたたちで決められないの?」
「これまでは、エレノアお嬢様が各地の収穫を確認し、旦那様へ案をお出しになっていました」
また姉の名前だった。
「お姉様は、こういう仕事がお好きだったのでしょう」
リリアは苛立ちを隠すように言った。
「いつも執務室にいたのですから」
執事は何も答えなかった。
次の手紙は、使用人への冬服の支給について。
その次は、修理が必要な水車について。
さらに、支払いを待っている商人からの催促。
一通読み終えるたびに、新しい判断を求められる。
「少し休みます」
リリアが立ち上がると、ベアトリスが眉を寄せた。
「まだ一通も返事を書いていませんよ」
「気分が悪いのです。お腹の子に何かあったらどうするの?」
その言葉を出せば、誰も引き止められない。
ベアトリスも、しばらく休むことを認めた。
リリアは執務室を出る前に、机の上を振り返った。
姉がしていたのは、数字を書き写すだけだと思っていた。
セドリックから渡された文書を清書し、父に頼まれた手紙へ返事を書く。
誰にでもできる、表に出ることのない仕事。
そう思っていた。
けれど、その机には、答えの書かれていない問いばかりが残されていた。
◇
夕方、評議会から戻ったセドリックは、真っ直ぐアシュベリー伯爵邸の執務室へ向かった。
「エレノアが作った資料は、これですべてか」
挨拶もなく、執事へ尋ねる。
「お嬢様がどこまで作成されていたのか、私どもにも分かりません」
「補助していた者はいないのか」
「お嬢様は、ご自身でなさっていました」
「そんなはずはない。十年分の交易記録を、一人で調べられるわけがないだろう」
「商人から届く記録は、すべてお嬢様がお読みになっていました」
「ノルディア語の文書も?」
「はい。亡くなられたお母上から教わったと伺っております」
セドリックは黙り込んだ。
エレノアがノルディア語を読めることは知っていた。
だからこそ、交易記録の確認を任せていた。
けれど、自分が読めない文書の内容まで、彼女の説明だけで理解したつもりになっていたことには、今まで気づかなかった。
「セドリック様」
リリアが部屋へ入ってきた。
「評議会はいかがでした?」
「審議は保留になった」
「なぜですか」
「エレノアが文書を完成させていなかったからだ」
吐き捨てるように言う。
リリアは困ったように目を伏せた。
「では、完成させればよいのでしょう?」
「そのために資料を探している」
「私にも、何かできることはありますか」
セドリックは机の上に積まれた手紙を見た。
「君はこれまで、慈善会の活動で何度も表彰されていたな」
「ええ」
「収支報告も作っていただろう。数字には慣れているはずだ」
リリアの顔が強張った。
慈善会の収支報告。
寄付金の記録を集め、用途ごとに整理し、提出できる形へ整えていたのはエレノアだった。
リリアは、完成した報告書へ署名しただけだ。
「今は体調が優れなくて……」
「読むだけでいい。ノルディア側へ送った記録から、関税を八とした根拠を探してくれ」
「私、ノルディア語は読めません」
セドリックの表情が止まった。
「では、慈善会の報告書は誰が作った」
リリアは答えなかった。
二人の間に、気まずい沈黙が落ちる。
そのとき、執事が一通の手紙を手に入ってきた。
「北部の交易商から、至急の返答を求める書状が届きました」
封を切り、セドリックが目を通す。
文面はアルヴェール語で書かれていた。
冬季交易の条件について、アシュベリー伯爵家から届くはずの定期報告が途絶えている。
三日以内に回答がなければ、今季の穀物取引を見合わせる。
そして、最後にはこう記されていた。
『これまで窓口を務めていたE・アシュベリー嬢から、速やかにご回答ください』
部屋にいる全員が、その一文を見つめた。
返事を求められた令嬢は、すでに死んだことになっている。
自分たちの手で、そう届け出てしまった。




