第13話 皇太子は眠らない
レオンハルト殿下が、ほとんど眠っていない。
そう気づいたのは、殿下から戻された三通の文書を見比べたときだった。
一通目には、夜半を示す受領印。二通目には、それより二刻ほど遅い時刻。三通目は、今朝の鐘が鳴る前に私の机へ戻されている。
どれも細かな修正が加えられ、指示も的確だった。
けれど、最後の一通だけ、日付が前日のままになっていた。
殿下がこのような間違いをするのは初めてだ。
「殿下は、昨夜も執務室にいらしたのですか」
昼の休憩に入ったところで、私はオスカー様へ尋ねた。
彼は手にしていた文書から目を上げた。
「なぜ、そのようなことを?」
「戻された時刻を見れば分かります。それに、最後の文書の日付が違っていました」
日付の箇所を示すと、オスカー様の口元から笑みが消えた。
「よく気づきましたね」
「いつからですか」
「何のことでしょう」
「殿下が眠っていないのは」
オスカー様は答えず、文書を閉じた。
否定しないことが、何よりの答えだった。
「国境の村で軍規違反が起き、アルヴェールからは不審な交易文書が届いています。お忙しいことは分かります。でも、このままでは――」
「エレン」
静かな声に遮られた。
「それ以上は、殿下へ直接言うことです。私から進言しても、聞き入れてはいただけませんので」
「すでにお伝えになったのですか」
「三度ほど」
「三度も」
「そのたびに、まだ倒れていないと返されました」
どうやら、冷酷皇太子は自分自身にも容赦がないらしい。
◇
その日の夕刻、私は確認を終えた文書を持って、殿下の執務室を訪れた。
窓の外には雪が降り始めている。
広い机の上には、アルヴェールから押収された交易記録と、国境守備隊から届いた報告書が積まれていた。
レオンハルト殿下は椅子に座り、片手で額を押さえながら文書を読んでいる。
銀色の髪が、いつもよりわずかに乱れていた。
「確認が終わりました」
声をかけると、氷のように青い瞳が私へ向けられた。
「そこへ置け」
「その前に、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「昨夜は、何刻お休みになりましたか」
殿下の眉がわずかに動いた。
「お前の仕事には関係ない」
「ございます」
「どう関係する」
「日付を一日、間違えておられました」
机の上へ該当する文書を置く。
殿下はそれに目を落とし、短い沈黙のあとで言った。
「修正すれば済む」
「今回は日付だけでした。次も同じとは限りません」
「私が判断を誤ると言いたいのか」
声が低くなる。
その迫力に、思わず指先が強張った。
それでも、私は目を逸らさなかった。
「眠らなければ、誰でも誤ります。身分の問題ではありません」
「ずいぶんと言うようになったな」
「申し訳ありません」
「謝るなら黙っていろ」
「それはできません」
言い切ってから、胸の奥が大きく鳴った。
以前の私なら、ここで引き下がっていたのだろうか。
相手が望む答えを察し、自分の言葉を飲み込んで。
けれど、目の前の間違いを見過ごせば、困るのは殿下だけではない。文書の先にいる兵士や、国境で暮らす人々だ。
「私には、文書の誤りを指摘する権限が与えられています」
「ああ。私が与えた」
「この日付も、誤りです」
「そうだな」
殿下はあっさり認めた。
「だが、私が休むかどうかを決める権限までは与えていない」
「では、取引をしてください」
「取引?」
「はい」
殿下の青い瞳が細められた。
追い出されるかもしれない。そう思いながら、私は言葉を続けた。
「殿下が二刻お休みになるまで、私は次の文書を確認いたしません」
「仕事を放棄するのか」
「正確な判断をいただけない状態で作業を続けるほうが、無責任です」
「私を脅すつもりか」
「交渉です」
「同じことだ」
「違います。殿下には断る自由があります。その場合、私にも不確かな命令で仕事をしない自由がございます」
言い終えると、部屋の中が静まり返った。
扉の近くに立つオスカー様が、顔を背けた。
肩がわずかに動いている。笑いをこらえているらしい。
「オスカー」
「何でしょう、殿下」
「楽しそうだな」
「とんでもございません」
声は平静だったが、説得力はなかった。
殿下は私へ視線を戻した。
「一刻だ」
「二刻です」
「一刻半」
「眠るまでに時間がかかるでしょうから、二刻必要です」
「私を相手に値をつり上げるとは、よい度胸だ」
「下げてはおりません。最初から二刻と申し上げています」
また沈黙が落ちた。
やがて、殿下が深く息を吐いた。
「分かった。二刻だ」
「本当ですか」
「私に二度言わせるな」
「では、ミラ様へお部屋の支度をお願いしてまいります」
「その必要はない。隣の休憩室を使う」
殿下は立ち上がったものの、机の端へ手をついた。
ほんの一瞬だった。
けれど、その姿を見て、私の判断が間違っていなかったと確信した。
「エレン」
「はい」
「今、何か言おうとしたか」
「いいえ」
「哀れむような顔をするな」
「そのようなつもりはありません」
「ならば、その顔をやめろ」
自分がどのような顔をしているのか分からない。
ただ、胸の奥が痛んだ。
この人は、誰にも弱った姿を見せてはいけないと思っている。
冷酷と呼ばれるほど厳しくあろうとするのは、そうしなければ守れないものがあるからなのだろう。
けれど、守る側の者は、誰にも守られなくてよいわけではない。
「殿下は、私におっしゃいました」
「何をだ」
「役に立ちたいなら、まず傷を治せと」
「ああ」
「でしたら、殿下にも同じことを申し上げます。国を守りたいのでしたら、まずお休みください」
殿下は何も答えなかった。
そのまま隣室へ入り、扉を閉める。
怒らせてしまっただろうか。
不安になってオスカー様を見ると、彼は小さく首を振った。
「心配はいりません」
「ですが……」
「気に入らなければ、殿下は取引など受けません」
オスカー様は机の上から、未処理の文書を数通抜き取った。
「殿下がお休みの間、急ぎの報告は私が確認します。あなたも部屋へ戻りなさい」
「私は、ここで待ちます」
「なぜです」
「二刻たつ前に、殿下が出てこないように」
「扉の前に立って見張るつもりですか」
「必要であれば」
オスカー様は、とうとう声を上げて笑った。
◇
二刻後。
休憩室の扉が開いた。
現れた殿下の銀髪には、横になった跡が残っている。けれど、青い瞳からは先ほどまでの濁った疲労が薄れていた。
私は机の脇に置かれた砂時計を確認した。
「二刻です」
「見れば分かる」
「本当に眠られたのですね」
「お前が扉の外で見張っていたからな」
「気づいておられたのですか」
「気配を隠す訓練を受けた者でもないのに、気づかないと思ったか」
少し恥ずかしくなり、目を伏せた。
「申し訳ありません」
「謝る必要はない」
殿下は机へ戻ると、日付を誤っていた文書を手に取った。
「お前の指摘は正しかった。先ほどは、ほかにも二か所見落としていた」
「では、修正を――」
「明日にする」
予想していなかった言葉に、私は顔を上げた。
「今日は、もう働かないのですか」
「お前が休めと言ったのだろう」
「申し上げましたが……」
「取引には対価が必要だ。私が休んだのだから、お前も今夜は文書を開くな」
「私は眠っています」
「昨夜、部屋の灯りが遅くまでついていたと聞いた」
誰が告げたのかと扉のほうを見る。
オスカー様が何も知らないという顔で立っていた。
「少し確認したいことがあっただけです」
「お前も同じではないか」
反論できなかった。
殿下は私が持ってきた文書を閉じると、机の引き出しへ収めた。
「取引成立だ。続きは明日にする」
「承知いたしました」
なぜだろう。
自分の仕事を止められたのに、嫌ではなかった。
役に立てないから遠ざけられたのではない。
明日もここに来ることを、当然のように認められている。
部屋を出ようとしたとき、殿下に呼び止められた。
「エレン」
「はい」
「今夜のことを、ほかの者に話すな」
「殿下を休ませたことですか」
「違う」
殿下は不機嫌そうに、乱れた銀髪へ触れた。
「この姿を見たことだ」
私は思わず、ほんの少し笑った。
「承知いたしました」
「何がおかしい」
「いいえ、何も」
「ならば笑うな」
冷たい声だった。
けれど、初めてその声を怖いと思わなかった。
◇
翌朝、臨時文書係の机へ行くと、その横に大きな荷車が止められていた。
積まれているのは、各部署から届いた文書だった。
「これは、何ですか」
運んできた官吏へ尋ねる。
「エレン殿に確認していただきたいとの依頼です。あなたなら間違いを見つけてくださると、皆が」
荷車には、私の肩ほどの高さまで書類が積まれている。
期待されている。
頼られている。
そう思うと、断ってはいけない気がした。
けれど、この量をすべて引き受ければ、何日かかるのだろう。
私が黙っていると、背後から低い声がした。
「どうした」
振り返ると、レオンハルト殿下が立っていた。
殿下は書類の山を見て、次に私を見る。
「引き受けたのか」
喉まで出かかった「はい」という言葉を、私はのみ込んだ。




