第14話 冷酷皇太子の笑顔
レオンハルト殿下が笑った。
ほんの一瞬だった。
それなのに、その場にいた誰もが言葉を失った。
◇
朝、臨時文書係の机へ行くと、昨日まであった荷車は消えていた。
代わりに置かれていたのは、五冊の文書だけだった。
表紙には、依頼した部署と責任者の名、確認してほしい箇所、返却期限が記されている。
「ずいぶん減りましたね」
文書を運んできた官吏へ声をかけると、彼は少し気まずそうに頭を下げた。
「各部署で確認し直しました。自分たちで処理できるものは持ち込まないよう、殿下から通達がありましたので」
「殿下が?」
「責任の所在が分からない仕事を、一人へ集めるなと」
昨日のことを思い出した。
仕事を断っても、殿下の判断は変わらない。
そう言われたとき、私は安心した。
けれど、殿下が私のいないところでも約束を守ってくれていたと知ると、胸の奥に別の温かさが広がった。
私は誰かの役に立たなければ、守ってもらえないと思っていた。
この人は違う。
私が断った仕事を無理に引き受けさせるのではなく、押しつける仕組みそのものを変えた。
「ありがとうございます」
「いえ。こちらも今まで、考えずに仕事を回していたと分かりました」
官吏は机の上の五冊を示した。
「本当にエレン殿の助けが必要なものだけです。お引き受けいただけますか」
私は一冊ずつ内容を確かめた。
アルヴェール語の注記がある交易記録。
北部の商人だけが使う記号の確認。
先日見つけた押収文書と、国境での取引量を照らし合わせる仕事。
「こちらでしたら、お引き受けします」
自分で選び、自分で返事をする。
それだけのことなのに、昨日までとは違う場所で働いているように感じられた。
◇
昼過ぎ、確認を終えた文書を届けるため、殿下の執務室を訪れた。
中にはレオンハルト殿下とオスカー様のほか、ミラ様もいた。
ミラ様は机へ茶器を置きながら、殿下を厳しい目で見ている。
「今朝のお茶にも、ほとんど口をつけておられません」
「必要になれば飲む」
「必要かどうかを判断する前に、冷めております」
「それで困る者はいない」
「茶葉を用意した者が悲しみます」
「茶葉に感情はない」
ミラ様は何か言いたそうだったが、私に気づくと一歩下がった。
「失礼いたします。ご依頼の文書をお持ちしました」
「そこへ置け」
机へ近づき、五冊の文書を差し出す。
殿下は表紙に目を通した。
「昨日の四分の一にも満たないな」
「私が確認する必要のないものは、各部署へ戻していただきましたので」
「それでいい」
「それから、もう一つお渡ししたいものがあります」
私は文書の下に重ねていた一枚の紙を取り出した。
「何だ」
「殿下の執務時間を整理しました」
紙を机の上へ広げる。
朝の報告を受ける時間。
国境守備隊との協議。
裁可が必要な文書の確認。
食事と休息。
夕刻以降は、緊急の報告以外を翌朝へ回すように分けてある。
殿下は無言で紙を見下ろした。
「誰に頼まれた」
「どなたにも」
「では、なぜ作った」
「一昨日のように、殿下が眠らず仕事をなさらないためです」
オスカー様が口元へ手を当てた。
ミラ様は満足そうにうなずいている。
「私の執務を、お前が管理するつもりか」
「管理ではありません。無理のない順序をご提案しているだけです」
「ここは何だ」
殿下が、夕刻の前に設けた空白を指で示す。
「何も予定を入れない時間です」
「何をする」
「何もしません」
「何もしないことを、予定に入れたのか」
「はい」
「無駄だ。削れ」
殿下が机の上の筆を取った。
空白へ線を引こうとした手を、私は思わず押さえた。
触れてから、皇太子の手を止めてしまったことに気づいた。
「申し訳ありません」
慌てて離そうとしたが、殿下は筆を持ったまま私を見ている。
紙の上で、私の指が殿下の手に重なっていた。
昨日は手首をつかまれた。
今は私から触れている。
急に指先が熱くなった。
「それほど、この空白を消されたくないのか」
「必要な時間です」
「理由を言え」
「物資も兵も、使い続ければ損なわれます。補う時間を考えずに動かせば、必要なときに足りなくなります」
「私を物資や兵と同じにするな」
「物資のほうが、殿下より扱いやすいと思います」
部屋の空気が止まった。
オスカー様が、ゆっくり私を見る。
ミラ様まで目を見開いていた。
言い過ぎた。
そう気づいたときには、もう遅かった。
「どういう意味だ」
殿下の声が低くなる。
私は手を離し、姿勢を正した。
「物資は不足すれば、記録に表れます。兵士は疲れれば、交代を申し出ることができます」
「私も疲れれば休む」
「殿下は、ご自分が疲れているとお認めになりません」
「昨日、休んだ」
「私が取引を持ちかけたからです」
「二刻もだ」
「二刻しか、です」
青い瞳が私を見据える。
怒られると思った。
けれど、殿下の口元がわずかに動いた。
「お前は……」
低い声に、息が混じる。
それから、レオンハルト殿下は顔を背け、小さく笑った。
冷たく整っていた表情が、一瞬で変わった。
氷のように見えていた青い瞳が柔らかく細まり、銀色の髪の下に、年齢にふさわしい青年の顔が現れる。
胸が強く鳴った。
知らない人を見ているようで、ずっとこの顔を知りたかったような気もする。
「殿下が……笑った」
オスカー様が呟いた。
ミラ様の手から、茶器の蓋が小さな音を立ててずれた。
殿下はすぐに表情を戻した。
「何を驚いている」
「いえ。珍しいものを拝見したと思いまして」
「忘れろ」
「努力いたします」
「努力ではない。命令だ」
オスカー様は頭を下げたが、口元には笑みが残っている。
殿下の視線が私へ移った。
「お前もだ」
「何をでしょうか」
「今、見たものを忘れろ」
「それは難しいと思います」
「なぜだ」
先ほどの笑顔が、瞼の裏に残っている。
あの顔を忘れてしまうのは、惜しい。
そう思ったが、口に出す勇気はなかった。
「記憶を失っている私でも、今のことは覚えていたいと思いましたので」
殿下の表情が止まった。
オスカー様が今度こそ咳払いをし、ミラ様は何も聞かなかったように茶を注ぎ始める。
自分の言葉の意味に遅れて気づき、頬が熱くなった。
「申し訳ありません。変な意味では――」
「では、どういう意味だ」
「それは……」
答えられない。
ただ珍しかったから。
冷酷と呼ばれる人の意外な顔だったから。
理由を並べようとしても、どれもしっくりこなかった。
「分かりません」
正直に答えると、殿下は私から目を逸らした。
「そうか」
それだけ言って、先ほどの予定表を手に取る。
「この空白は残す」
「本当ですか」
「ああ。ただし、毎日ではない」
「三日に一度では少なすぎます」
「交渉は終わりだ」
「まだ始まったばかりです」
「エレン」
「はい」
「これ以上続けるなら、この紙ごと返す」
「承知いたしました。今日はここまでにします」
予定表を受け取られないよりはよい。
私が引き下がると、殿下は紙をほかの文書とは分け、自分の机の引き出しへ入れた。
捨てずに使ってくれる。
そのことが、なぜかうれしかった。
◇
夕刻、仕事を終えて部屋へ戻る途中、私は渡り廊下で立ち止まった。
外は朝から降り続いた雪で白く染まっている。
レオンハルト殿下の笑顔を思い出すたび、胸が落ち着かない。
あの人は、私に居場所を与えてくれた。
仕事を選ぶ自由も、断る自由も認めてくれた。
だから気になるだけだ。
そう思おうとした。
「エレン」
背後から呼ばれ、振り返る。
執務を終えた殿下が、オスカー様とこちらへ歩いてくる。
「まだ戻っていなかったのか」
「雪を見ておりました」
「身体を冷やすな。傷は治りきっていない」
「少しだけです」
殿下が私の隣へ立った。
先ほど笑った人と同じとは思えないほど、横顔はいつもの冷たさを取り戻している。
けれど、もう怖くはなかった。
「殿下」
「何だ」
「先ほどの笑顔は、本当に忘れなければいけませんか」
青い瞳が、私へ向けられた。
「命令だと言ったはずだ」
「命令でも、できないことはございます」
「お前は、ますます私の命令を聞かなくなったな」
「殿下が、自分で考えてよいとおっしゃったからです」
殿下は何も言わなかった。
けれど、その口元がほんの少し緩んだように見えた。
次の瞬間だった。
「伏せろ!」
殿下の腕が、私の肩を強く引いた。
身体が彼の胸へぶつかり、そのまま床へ倒れ込む。
鋭い音がして、すぐそばの柱が震えた。
顔を上げると、一本の矢が深く突き刺さっている。
衛兵たちが剣を抜き、オスカー様が矢の飛んできた方向へ走り出した。
殿下は私を腕の中へ抱えたまま、柱を見ていた。
矢が刺さったのは、殿下のいた場所ではない。
ほんの一瞬前まで、私の胸があった高さだった。




