第15話 命を狙われたのは、皇太子ではなかった
柱へ突き刺さった矢は、私の胸があった高さで震えていた。
「動くな」
レオンハルト殿下の腕が、私の頭を抱え込む。
頬が黒い軍装へ押し当てられた。すぐそばにある心臓が、速く、けれど乱れることなく鳴っている。
「西の回廊だ!」
オスカー様が叫び、衛兵たちと走り出す。
その直後、二本目の矢が飛んできた。
殿下は私を抱いたまま床を転がり、石壁の陰へ身を寄せた。
矢は、先ほどまで私の脚があった場所を打った。
偶然ではない。
一本目も、二本目も、狙われていたのは私だった。
「立てるか」
「はい」
「私から離れるな」
殿下が先に立ち、私を背へ隠す。
腰から抜いた剣の刃が、雪明かりを受けて冷たく光った。
「殿下、私は――」
「黙っていろ」
いつもの命令よりも低く、余裕のない声だった。
回廊の両側から衛兵が駆けつける。
「殿下、ご無事ですか」
「ああ。西棟を封鎖しろ。弓を持つ者は、生きたまま捕らえろ」
「直ちに」
「離宮内にいる者を一人ずつ確認しろ。門を閉じ、許可なく誰も出すな」
迷いのない命令が次々と下される。
冷酷皇太子と呼ばれる人の姿だった。
けれど、私の肩を抱く手だけは、離れなかった。
◇
私は離宮の内側にある文書保管室へ移された。
窓が小さく、扉は一つしかない。普段は重要な記録を確認するときに使う部屋だ。
「ここを動くな」
殿下が告げる。
「殿下は、どちらへ?」
「侵入者を捜す」
「危険です」
「その言葉を、今のお前に言われたくはない」
殿下の視線が、私の身体を確かめるように動いた。
「怪我はないな」
「ございません」
「本当に?」
「はい」
殿下は私の返事を聞いても、すぐには動かなかった。
青い瞳の奥に、見たことのない感情が揺れている。
怒り。
それだけではないように見えた。
「二人、ここへ残れ」
殿下が衛兵へ命じた。
「扉を開けるのは、私かオスカーが戻ったときだけだ」
「承知しました」
銀色の髪が扉の向こうへ消える。
閉じた扉を見つめながら、私は自分の胸へ手を当てた。
まだ、強く鳴っている。
矢が怖かったからなのか。
殿下の腕の中へ抱き込まれたからなのか。
自分でも分からなかった。
廊下から、いくつもの足音と命令が聞こえる。
私のために、多くの人が動いている。
なぜ、私が狙われたのだろう。
自分の名前さえ思い出せない私を、殺そうとする者がいる。
「エレン殿」
扉の外から声がした。
見張りの衛兵が、扉をわずかに開ける。
「殿下から、場所を移すようご命令です」
「殿下は、どちらに?」
「西棟で侵入者を追っておられます。ここも安全ではないため、地下の保管庫へお連れします」
入ってきたのは、ノルディアの軍服を着た男だった。
見覚えはない。
けれど、離宮にいる衛兵全員の顔を知っているわけではなかった。
「命令書をお持ちですか」
見張りの一人が尋ねる。
「ああ。これだ」
男が懐から折り畳んだ紙を取り出した。
レオンハルト殿下の名と、皇太子の印がある。
見張りの衛兵が受け取り、私へ差し出した。
「間違いないようです」
紙を見た瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
文字は殿下の筆跡に似ている。
けれど、何かが違う。
私はこれまで、殿下が署名した文書を何通も見てきた。
力強く、迷いのない線。
この署名は、形だけをなぞっている。最後の一画が不自然に震え、ほかの文字よりも墨が濃い。
先に本文を書き、乾いたあとから署名だけを書き足したのだ。
「この命令書は、いつ受け取ったのですか」
「つい先ほどだ」
「殿下から直接?」
「そうだ。急げと言われている」
私は紙の印へ目を落とした。
皇太子の紋章は正しい。
けれど、印の周りに残る蝋が赤い。
離宮で殿下が使用する封蝋は、濃い青だった。
「地下の保管庫へは参りません」
男の目が、わずかに動いた。
「殿下のご命令だ」
「違います」
「何が違う」
「これは殿下の署名ではありません」
見張りの衛兵たちが、一斉に男を見る。
男は一歩退いた。
次の瞬間、軍服の内側から短剣を抜いた。
「伏せてください!」
私が叫ぶ。
見張りの一人が剣を抜こうとしたが、男の短剣が先にその腕を切り裂いた。
もう一人が男へ飛びかかる。
狭い部屋の中で、机と椅子が倒れた。
「女を渡せ!」
男が叫び、衛兵を突き飛ばす。
その目は、私だけを見ていた。
私は机の上にあった厚い記録簿をつかみ、振り下ろされた短剣を受けた。
刃が表紙へ深く食い込む。
衝撃で腕が痺れた。
記録簿を離すと、短剣を奪われた男の身体が前へ傾いた。
私は椅子を蹴り倒し、その足元へ滑らせる。
男が体勢を崩した。
「何をしている!」
扉の外から、レオンハルト殿下の声が響いた。
男の顔が強張る。
殿下が部屋へ踏み込み、私と男の間へ入った。
「武器を捨てろ」
「冷酷皇太子自ら、素性も分からない女を守るのか」
「二度は言わない」
男は短剣を引き抜き、殿下へ斬りかかった。
刃が重なる。
一度。
二度。
殿下は男の攻撃を受け流し、手首を打った。
短剣が床へ落ちる。
すぐさま男の腕を背へねじ上げ、膝をつかせた。
騒ぎを聞いた衛兵たちが駆け込み、男を取り押さえる。
「誰の命令だ」
殿下が尋ねた。
男は答えない。
「なぜ、この女を狙った」
「その女が生きているからだ」
笑うような声だった。
「崖で死んでいれば、二つの国はすぐに戦えたものを」
崖。
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥に強い痛みが走った。
揺れる馬車。
悲鳴を上げる馬。
何度踏んでも、手応えのない制動器。
私の乗っていた馬車は、事故で落ちたのではない。
「馬車に細工をしたのは、お前たちか」
殿下の声が、さらに低くなる。
「今さら知ったところで遅い」
男の唇が歪んだ。
「その女は、死んだことになっている。もう一度殺しても、誰も捜しはしない」
胸の奥が冷たくなる。
祖国では、私は死んだことにされている。
それは、身元が分からなかったからではない。
誰かが、私が死んだと知っているから。
「連れていけ」
殿下が命じた。
「毒を持っている可能性がある。口の中まで調べ、決して一人にするな」
「承知しました」
男が引き起こされる。
そのとき、窓硝子に小さな光が映った。
男の左手。
袖口から、細い刃が滑り落ちている。
まだ武器を隠している。
「殿下!」
私はレオンハルト殿下の背を押した。
男の腕が動く。
鋭い痛みが、脇腹を走った。
息が止まった。
男はすぐに床へ押さえつけられたが、私の身体から力が抜けていく。
「エレン?」
殿下の声が、すぐ近くで聞こえた。
倒れる前に、強い腕が私を抱き留める。
「おい、どこをやられた」
「大丈夫……です」
「大丈夫な者が、こんな顔をするか」
脇腹に触れた殿下の手が、赤く染まった。
思っていたより、血が出ている。
「ユリウスを呼べ! 早くしろ!」
殿下の声が部屋へ響いた。
誰かが走り出す。
私は息をしようとしたが、胸がうまく動かなかった。
「エレン、目を閉じるな」
青い瞳が、すぐそばにある。
「殿下に、お怪我は……」
「私のことなど、どうでもいい」
殿下の手が、私の頬へ触れた。
「エレン。私を見ろ」
冷酷皇太子は、どのようなときも冷静な人だった。
襲撃を受けても、迷わず命令を下す。
敵を前にしても、声一つ乱さない。
その人の指が、今は震えていた。
「頼むから、目を閉じるな」
初めて聞く声だった。
私を失うことを、恐れているような声だった。




