第16話 お前を失うのが怖い
目を覚ますと、レオンハルト殿下が私の手を握っていた。
寝台の脇に椅子を置き、うつむいたまま動かない。
乱れた銀色の髪が顔へかかり、目元には濃い影が落ちている。
眠っているのだろうか。
そう思って指を動かすと、すぐに青い瞳が開いた。
「エレン」
握られていた手に力がこもる。
「分かるか。私が誰か」
「……レオンハルト殿下」
答えると、殿下の肩から力が抜けた。
安堵したように見えたのは、一瞬だけだった。
「ユリウスを呼べ」
扉の外へ鋭く命じる。
すぐに宮廷医のユリウス様とミラ様が入ってきた。
脈を確かめられ、傷の痛みや息苦しさを尋ねられる。
「刃は脇腹を深く切りましたが、幸い、内側までは達していません」
ユリウス様が言った。
「失った血が多いため、しばらくは起き上がらないように。傷が開けば、今度こそ危険です」
「承知いたしました」
「本当に理解していますか」
「はい」
「エレンの返事を信用するな」
殿下が横から口を挟んだ。
「右手が動くと言って、寝台で書類を読み始める女だ」
「今回は読みません」
「昨日も同じようなことを言っていた」
「昨日は、傷を負っておりませんでした」
「ならば、今はなおさら信用できない」
声は冷たい。
けれど、私の手は握られたままだった。
ミラ様が殿下の顔を見て、ため息をつく。
「殿下もお休みください。エレンが目覚めるまで、ずっとこちらにいらしたのでしょう」
「必要ない」
「またですか」
「ミラ様」
私は寝台から殿下を見上げた。
「どのくらい眠っていたのでしょう」
「一日と一晩です」
「そんなに……」
その間、殿下はここにいたのだろうか。
机の上には手つかずの文書が積まれ、窓の外はすでに明るい。
「殿下、お仕事は?」
「お前が気にすることではない」
「ですが」
「昨日、死にかけた者が、目覚めて最初に仕事の心配をするな」
低い声に怒りが混じった。
私は口を閉じた。
殿下が怒っているのは、私が仕事を気にしたからだけではない。
それくらいは分かった。
◇
診察が終わったところで、オスカー様が部屋へ入ってきた。
「お目覚めになったのですね」
「ご心配をおかけしました」
「まったくです。殿下のご様子を見ているこちらの身にもなっていただきたい」
「オスカー」
殿下の一言で、オスカー様は口を閉じた。
けれど、私と殿下のつながれた手を見て、わずかに眉を上げる。
その視線に気づいた殿下が、ようやく私の手を離した。
急に指先が冷たくなった。
「襲撃した男は?」
「拘束しております。口を割る気はないようですが、身元につながる物を所持していました」
オスカー様が小さな金属片を取り出し、布の上へ置いた。
黒く変色した銅の札。
表面には、三本の枝を束ねたような印が刻まれている。
「この印……」
以前、押収文書で見たものと同じだった。
私の筆跡に似た注記が残されていた、アルヴェールの交易文書。
正規の取引記録に紛れ込む、出所の分からない荷。
その脇に、この印が記されていた。
「密輸品を扱う者が使う印と考えています」
オスカー様が説明する。
「捕らえた男は、半年前までアルヴェール北部の商会で働いていました。離宮へ出入りする荷運び人に交じり、数日前に潜り込んだようです」
「弓を射た者は」
殿下が尋ねる。
「西の外壁を越えて逃走しました。雪の上に二人分の足跡が残っています。内側から縄を下ろした者がいる」
「離宮内に協力者がいるということか」
「その可能性が高いかと」
部屋の空気が重くなる。
襲撃は終わっていない。
今も、この離宮のどこかに私を殺そうとする者がいるのかもしれない。
「捕らえた男は、私が崖で死んでいれば二つの国は戦えたと申していました」
私は銅の札を見つめた。
「私が作ったらしい交易文書と、馬車の転落。それに昨日の襲撃は、すべてつながっているのでしょうか」
「おそらくは」
「それなら、私がここにいる限り、皆様を危険にさらします」
殿下の顔が険しくなった。
「何が言いたい」
「離宮を出たほうがよいのかもしれません」
「どこへ行く」
「分かりません。でも、私がいなければ――」
「二度と、そのようなことを言うな」
殿下の声が部屋へ響いた。
ミラ様も、オスカー様も黙っている。
「敵が望んでいるとおり、一人で外へ出るつもりか」
「ですが、ここにいれば、また誰かが傷つくかもしれません」
「お前が出ていけば、お前が殺される」
「私一人で済むなら」
「済むと思うのか」
殿下が椅子から立ち上がった。
「お前を殺そうとする者は、二つの国を戦わせようとしている。お前が消えれば、次の者を狙うだけだ」
「それでも――」
「これは、お前一人が犠牲になれば終わる話ではない」
厳しい言葉だった。
けれど、それが正しいことも分かった。
私はまた、自分さえ引き受ければよいと考えていた。
「申し訳ありません」
「謝るな。勝手にいなくなろうとするな」
「勝手には参りません」
「考えることも許さない」
皇太子の命令にしては、あまりにも個人的な言葉だった。
オスカー様が静かに頭を下げる。
「捕虜の尋問へ戻ります」
「頼む」
「ミラ様、ユリウス殿。参りましょう」
なぜか、二人まで連れていく。
扉が閉まり、部屋には私とレオンハルト殿下だけが残された。
◇
殿下はしばらく、何も言わなかった。
窓から入る冬の光が、銀色の髪を淡く照らしている。
「殿下」
「何だ」
「お休みになってください」
「今は、その話をするな」
「一日と一晩、こちらにいらしたのでしょう?」
「目覚めるまでだ」
「私が目覚めなかったら、どうなさるおつもりだったのですか」
殿下の表情が止まった。
「その問いに答える必要はない」
「私はもう目覚めました」
「ああ」
「ここにおります」
「分かっている」
そう答えたのに、殿下の手は強く握られている。
手のひらに、乾いた血が残っていた。
私の血だ。
殿下は着替えることもせず、ずっとここにいたのだろう。
「怖かったのですか」
尋ねた瞬間、青い瞳が鋭くなった。
「忘れろ」
「まだ何も聞いておりません」
「ならば、聞くな」
以前なら、それ以上は尋ねられなかった。
けれど、今は分かる。
追い払おうとする言葉の奥に、隠したいものがある。
「殿下は、私に自分の苦しさから目を逸らすなとおっしゃいました」
「それとこれは違う」
「同じです」
「エレン」
「私は、殿下のお気持ちを知りたいのです」
殿下が息を止めた。
なぜ知りたいのかと尋ねられたら、答えられない。
ただ、この人が何を恐れ、何を胸の奥へ隠しているのかを知りたかった。
殿下が寝台のそばへ近づく。
怒らせたのかと思った次の瞬間、肩へ腕が回された。
身体が引き寄せられる。
傷へ触れないよう、けれど逃がさないように、強く抱きしめられた。
銀色の髪が、私の頬へ触れる。
耳元に、殿下の呼吸が聞こえた。
「傷が……」
そう言いかけると、腕の力が少しだけ緩んだ。
それでも、離れない。
「目の前で、お前の血が流れた」
いつもより低い声だった。
「呼んでも、目を開けなかった」
「申し訳ありません」
「謝ってほしいのではない」
殿下の手が、私の後頭部を支える。
「二度と、私を庇うな」
「ですが、あのときは殿下が――」
「命令だ」
「お約束はできません」
「なぜだ」
「殿下が傷つくのも、怖いからです」
抱きしめる腕が、わずかに震えた。
胸の奥に押し込めていたものが、堰を切ったように伝わってくる。
「俺は、お前を失うのが怖い」
初めて聞く一人称だった。
皇太子としての言葉ではない。
誰にも見せない、この人自身の声だった。
胸が痛いほど鳴っている。
「なぜ、私を?」
「分からない」
殿下は、私の髪へ顔を埋めるようにして答えた。
「だが、お前がいなくなると思ったら、何も考えられなかった」
それは愛の告白ではない。
けれど、どんな甘い言葉よりも深く、私の胸へ届いた。
私は動く右腕を上げ、ためらいながら殿下の背へ触れた。
「私は、ここにおります」
「ああ」
「勝手にいなくなりません」
「必ず守れ」
「はい」
今度こそ、殿下の身体から力が抜けた。
しばらくして腕が離れる。
目の前に戻った顔には、もう皇太子の冷静さが戻り始めていた。
「今の言葉は忘れろ」
「笑顔を忘れろというご命令も、まだ果たせておりません」
「……そうだったな」
「ですから、今回も難しいと思います」
殿下は何か言いかけ、諦めたように息を吐いた。
「好きにしろ」
その口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
◇
その夜。
傷の痛みが和らぎ、私は浅い眠りに落ちた。
暗闇の中で、誰かの声が聞こえる。
『お姉様は、何も心配なさらなくてよいのよ』
甘く、愛らしい少女の声。
次に見えたのは、青い表紙の文書だった。
『これは僕の名で提出する。結婚したら、君の功績も必ず公表するから』
金色の髪をした男性が、私の手から文書を取り上げる。
胸が苦しい。
逃げたいのに、身体が動かない。
そして、冷たい声が私の名を呼んだ。
『エレノア』
目を開けた。
暗い部屋の中で、息だけが激しく乱れている。
忘れていた名前が、唇からこぼれた。
「……エレノア」
それが誰の名なのか、私はもう知っていた。
私の名前だった。




