第17話 名前を思い出した夜
「……エレノア」
暗闇の中で、その名を口にした。
誰かに教えられたのではない。
私の名前だった。
そう気づいた瞬間、閉ざされていた扉が壊れた。
いくつもの声と光景が、順序もなく押し寄せてくる。
『お姉様。私、セドリック様の子を授かりました』
淡い桃色のドレス。
腹部へ重ねられた白い手。
伏せられた瞳の奥に隠しきれない喜びがあった。
リリア・アシュベリー。
私より三つ年下の異母妹。
愛らしく笑えば、誰もが彼女を許した。
『すまない、エレノア』
妹の隣には、金色の髪をした男性が立っている。
セドリック・ヴァレイン。
私の婚約者だった人。
『生まれてくる子どもに罪はない。リリアと結婚する』
『では、私との婚約は?』
『解消するしかない。君なら理解してくれると思っている』
理解などできなかった。
それでも、私は泣かなかった。
取り乱せば、リリアの身体に障ると言われたから。
侯爵家との縁を守るためには仕方がないと、継母に言われたから。
父は長椅子に座ったまま、私を見なかった。
あのときも私は、自分の気持ちより先に、家の都合を考えようとした。
次に見えたのは、青い表紙の文書だった。
北部交易改善案。
凶作に苦しむアルヴェールへ、ノルディアから穀物を運ぶための道筋。
関税を上げすぎず、正規の交易所を通る商人を増やす。
密輸に流れている荷を戻せば、両国の国庫も潤う。
十年分の交易記録を調べ、ノルディアの商人と何度も文を交わして作り上げた案。
私の手から、その文書をセドリックが取った。
『これは明日の評議会へ、僕の名で提出する』
『私が作ったものです』
『君の名では、評議会に提出できないだろう』
『共同で作成したと記してください』
『結婚すれば、僕の功績は君の功績でもある。いずれ、君が支えてくれたことも必ず公表するから』
その言葉を信じたかった。
いいえ、信じなければ、これまで耐えてきた時間がすべて無駄になる気がしたのだ。
けれど、彼が選んだのは私ではなかった。
私の功績だけを手にして、妹と結婚しようとした。
『明朝、北部の別邸へ発ちなさい』
継母のベアトリスが、冷たい声で告げた。
『リリアの婚礼が終わるまで、社交界へ出られては困ります』
『お父様も、了承なさっているのですか』
『ええ。伯爵家のためです』
父は隣の部屋にいた。
扉一枚を隔てた場所に。
私の声が聞こえていたはずなのに、最後まで姿を見せなかった。
雪の降る朝。
家の紋章を隠すように、泥を塗られた馬車。
見覚えのない御者。
『いつもの御者は、どうしたのですか』
『急に具合を悪くしました』
男は一度も私と目を合わせなかった。
馬車が坂道へ入っても、速度を落とさない。
制動器を踏んだ。
何度も踏んだ。
けれど、足元には何の手応えもなかった。
『止めてください!』
御者は返事をしなかった。
崖が近づく直前、男だけが御者台から飛び降りた。
そこで記憶が途切れた。
「事故ではなかった……」
声が震えた。
私は、家を追い出されただけではない。
殺されたのだ。
正確には、殺されたことにされた。
だから、身体のない葬儀がすぐに行われた。
捜索もされず、祖国では私が死んだことになっている。
「エレノア・アシュベリー」
もう一度、自分の名を呼ぶ。
二十二歳。
アシュベリー伯爵家の長女。
幼い頃に実母を亡くし、父が病に倒れてからは、領地の仕事を引き受けてきた。
母から教わったノルディア語で交易文書を読み、穀物の備蓄を確かめ、領民から届く手紙へ返事を書いた。
継母は、私が身体の弱い娘だから人前へ出られないと説明していた。
リリアの慈善活動に使われた報告書も。
セドリックが評議会へ提出した政策案も。
父が領地経営の成果として受け取った文書も。
すべて、私が作っていた。
思い出したかったはずなのに、戻ってきた過去には、帰りたい場所が一つもなかった。
「エレン?」
扉が開き、灯りを手にしたミラ様が入ってきた。
私は反射的に顔を上げた。
エレン。
崖下から救われ、何も持たなかった私に与えられた名前。
ここでは、その名で働いた。
初めて自分の仕事を自分のものとして認めてもらった。
初めて、できないことを断った。
初めて、何もしていない時間にも、ここにいてよいと言われた。
「傷が痛むのですか」
ミラ様が寝台へ駆け寄る。
「違います」
「では、どうしたのです」
「思い出しました」
ミラ様の動きが止まった。
「自分の名前を。家族のことも、婚約者のことも、馬車へ乗せられるまでのことも」
口にすると、涙がこぼれた。
悲しいのか、悔しいのか、自分でも分からない。
「私は、エレンではありませんでした」
「エレンではないからといって、ここで過ごした日々が消えるわけではありません」
「ですが、殿下へお伝えしなければ」
「今夜でなくてもよいのですよ」
「いいえ」
私は涙を拭った。
先延ばしにはしたくなかった。
私を助け、名前も分からないまま守ってくれた人に、これ以上何も告げずにいることはできない。
「レオンハルト殿下をお呼びしてください」
「傷へ障ります」
「それでも、今夜お話ししたいのです」
ミラ様はしばらく私を見つめたあと、静かにうなずいた。
◇
待っている間に、胸の内で何度も言葉を組み立てた。
けれど、どう話せばよいのか分からない。
私は敵国の伯爵令嬢だった。
両国の交易に関わる政策案を作り、その文書を婚約者に奪われた。
誰かに殺されかけ、すでに死者として届け出られている。
身元不明の女官ではないと分かったとき、殿下はどうするのだろう。
アルヴェールへ送り返すのか。
敵国の貴族として拘束するのか。
それとも、これまでと同じように、ここへ置いてくれるのか。
『俺は、お前を失うのが怖い』
昨夜の声が、耳の奥によみがえる。
あの言葉をうれしいと思った。
抱きしめられた腕から、離れたくないと思った。
けれど、殿下が失いたくないと言ったのは、記憶のないエレンだ。
家族にも婚約者にも見捨てられた、エレノアではない。
扉の外から足音が聞こえた。
それだけで、鼓動が速くなる。
「殿下がお見えです」
ミラ様の声に続いて、扉が開く。
レオンハルト殿下とオスカー様が入ってきた。
殿下は上着を羽織っただけの姿で、銀色の髪も整えられていない。
眠っていたところを起こされたのかもしれない。
それでも、不機嫌な顔はしなかった。
寝台のそばまで来ると、私の顔を見つめる。
「記憶が戻ったと聞いた」
「はい」
「どこまで思い出した」
「馬車が崖から落ちる前まで、ほとんどすべてを」
殿下の青い瞳が、わずかに細められた。
「無理に話す必要はない」
「お話しします」
「今夜でなくてもいい」
「今、知っていただきたいのです」
私がそう言うと、殿下はそれ以上止めなかった。
オスカー様は少し離れた場所に立ち、私の言葉を待っている。
掛布の上で両手を握りしめた。
「私は、ノルディア語を読める理由を思い出しました。亡くなった母が、ノルディアの出身だったからです」
「ああ」
「領地の交易文書や、穀物の備蓄記録を扱っていたことも。押収文書に残っていた注記も、私が書いたものです」
殿下もオスカー様も驚かなかった。
私の胸に、別の不安が生まれる。
「妹が、私の婚約者の子を身ごもりました。婚約は解消され、私は北部の別邸へ送られることになりました」
「その途中で、馬車へ細工をされたのか」
「はい。制動器が動かず、御者は崖へ落ちる直前に飛び降りました」
殿下の表情から、すべての温度が消えた。
「元婚約者は、馬車のことを知っていたのか」
「分かりません。ですが、私が別邸へ送られることは知っていました」
「そうか」
短い声の奥に、抑え込まれた怒りがあった。
怖くはなかった。
その怒りが私へ向けられていないと分かったから。
「殿下」
「何だ」
「身元を明かさなかったことを、お詫びいたします」
「覚えていなかったのだろう」
「それでも、私は殿下がお考えになっているような人間ではありません」
「私が、お前をどう考えていると?」
「帰る場所のない、身元不明の女だと」
自分で言いながら、胸が痛んだ。
「私は敵国の貴族です。両国の交易にも関わっています。これまでと同じように、ここへ置いていただくことはできないかもしれません」
殿下は黙って私を見ている。
「それでも、すべてお話ししなければならないと思いました」
息を吸う。
もう、この名から逃げない。
「私の名は、エレノア・アシュベリー。アルヴェール王国、アシュベリー伯爵家の長女です」
レオンハルト殿下は驚かなかった。
オスカー様と目を合わせることもない。
ただ、私をまっすぐに見つめ、静かに答えた。
「ああ。知っている」




