第18話 奪われた交易案を、私の名で取り戻します
「正しい関税は、八ではありません。三です」
記憶を取り戻した翌朝。
私は寝台の上で、青い表紙の文書を開いていた。
レオンハルト殿下とオスカー様が、押収された交易改善案を部屋へ運んできてくれたのだ。
まだ起き上がることは許されていないため、ミラ様が用意した板を膝へ載せ、その上に文書を広げている。
「八と三、両方の数字が書かれていた理由を説明できるか」
殿下が尋ねる。
「はい。三は、正規の交易所を通る場合の関税です。百に対して三までなら、商人は危険な山道を使うより、正規の道を選びます」
「八は?」
「関税を八まで上げた場合、どれほどの商人が密輸へ流れるかを比べるための数字でした。採用する案ではありません」
指で表の上をたどる。
以前に見たときは、なぜ自分と同じ筆跡が残っているのか分からなかった。
今は、一つひとつの数字を書いた夜まで思い出せる。
冬の交易量。
雪で閉ざされる道。
正規の交易所を避けた荷が、どこへ流れるのか。
母から教わったノルディア語で商人たちの文を読み、何度も計算し直した。
これは、間違いなく私が作った文書だった。
「見出しがなくなっています」
「見出し?」
オスカー様が文書をのぞき込む。
「本来は、三の欄に『正式案』、八の欄に『比較した場合』と記していました。ですが、こちらでは欄の名前だけが削られています」
「数字そのものは残し、意味だけを変えたのか」
「はい。八を正式な案として提出しても、私が書いた数字だと言い張れるように」
記憶の中で、セドリックの声がよみがえる。
『細かな説明は僕が整える。君は数字だけを揃えてくれればいい』
私は、彼が評議会で説明しやすいように、考えられる質問と答えをすべて用意した。
けれど、完成前の文書を奪われた。
妹の妊娠を告げられた日、セドリックが持っていたのは、この青い表紙だった。
「セドリック・ヴァレインが、これを自分の名で提出しました」
自分の声が、驚くほど静かだった。
「私が北部の別邸へ送られると知りながら、文書だけを持っていきました」
「お前がいなくなれば、改ざんを指摘する者もいなくなる」
殿下の声から温度が消えた。
「馬車への工作も、交易案を奪うためだったのか」
「それだけではないと思います」
次の頁をめくる。
「関税を八まで上げれば、正規の交易は減ります。けれど、密輸を扱う者にとっては都合がよい。穀物が届かなくなれば、アルヴェールの民はノルディアが取引を拒んだと思うでしょう」
「停戦への不満が高まる」
「はい。戦争になれば、国境で品を売る者や武器を扱う者は利益を得ます」
先日の襲撃者が持っていた、三本の枝を束ねた印。
同じ印が、文書の隅にも残っていた。
「私がこの印に気づいたから、消されたのかもしれません」
「覚えているのか」
「いいえ。印を調べようと思っていたところまでは覚えています。誰のものかを確かめる前に、妹の妊娠を知らされました」
「偶然とは考えにくいですね」
オスカー様が、削られた見出しの箇所を確かめる。
「しかし、筆跡だけでは、セドリックが意図的に改ざんしたと立証するのは難しい」
「筆跡だけではありません」
私は文書を裏返した。
「この紙には、ノルディア北部の製紙工房の印があります。私は商人から届いた手紙の余白へ、最初の案を書きました」
光へかざすと、薄く工房の印が浮かんだ。
「同じ工房が保存している注文記録と、商人が送った手紙の日付を確認してください。私がこの紙を受け取った日を証明できます」
「ほかには?」
「正式案を送る前に、ノルディア側の三つの商会へ条件を問い合わせました。関税を三とした場合に取引を続けるという返書が残っているはずです」
「八については」
「八では取引できないという回答が届いています。その文書を読めば、どちらが正式案だったか、第三者にも分かります」
オスカー様の表情が変わった。
「証言だけでなく、日付の異なる複数の文書で立証できるということですね」
「はい。私の言葉だけでは、セドリック様は否定するでしょう。ですが、三つの商会すべての記録を書き換えることはできません」
「すぐに確保させます」
オスカー様が立ち上がろうとする。
「待て」
殿下が止めた。
「誰が記録を求めているか、アルヴェール側へ知られるな。商会ごとに別の者を向かわせろ」
「襲撃者の仲間に、証拠を消される可能性がありますね」
「ああ。原本を移せない場合は、その場で複製し、商会主の署名を取れ」
「承知しました」
命令を受け、オスカー様は部屋を出ていった。
扉が閉じると、急に静かになる。
私は青い文書へ目を落とした。
記憶を失う前の自分が残したもの。
誰にも認められなくても、民が冬を越せるようにと考え続けた跡だった。
「どうした」
殿下が尋ねる。
「私が作ったものだと、ようやく言えました」
「そうだな」
「以前は、言っても聞いてもらえませんでした」
セドリックには、私の名では評議会へ出せないと言われた。
父には、侯爵家との関係を悪くするなと諭された。
継母には、伯爵家のために黙っているのが長女の役目だと言われた。
「私自身も、いつか認めてもらえるなら、今は我慢すればよいと思っていました」
「今もそう思うのか」
私は首を横へ振った。
「いいえ」
「ならば、どうしたい」
殿下は答えを与えない。
復讐しろとも、祖国を見捨てろとも言わない。
私が決めるのを待っている。
「この案を、元に戻したいです」
「それだけか」
問い返され、息を止めた。
正しい数字へ戻せればよい。
両国の戦争を防げれば、それで十分。
そう答えようとした。
けれど、それではまた、誰かの名で提出されるかもしれない。
私が作った事実も、私が奪われた事実も、なかったことになる。
以前の私なら、結果が正しければ名など要らないと言っただろう。
今は違う。
「私の案として、残したいです」
声が震えた。
それでも、言い直さなかった。
「この交易改善案を、私の名で取り戻します」
殿下は何も言わず、机から新しい紙と筆を取った。
私の前へ置く。
「では、書け」
「何をでしょう」
「作成者の名だ」
白い紙の上には、すでに殿下の文字で記されていた。
『北部交易改善案・原案内容に関する証言書』
その下に、空欄がある。
「ここへ、お前の名を書け」
筆を持った手が止まった。
これまで、私が作った文書の最後には、父やセドリックの名が記されていた。
署名を求められたことは一度もない。
「私の名前でよいのですか」
「ほかに誰の名を書く」
「皇太子殿下の名で提出したほうが、信用されるのではありませんか」
「それでは、セドリックと同じだ」
迷いのない言葉だった。
「案を考えたのはお前だ。私は、お前の証言と権利を守るだけだ」
胸が熱くなる。
私は筆先へ墨を含ませた。
一文字ずつ、自分の名を書く。
エレノア・アシュベリー。
書き慣れているはずの名なのに、初めて自分のものになったように感じた。
殿下は署名を確かめ、その下へ証人として自分の名を記した。
皇太子の印が押される。
「これで、この案の作成者は帝国の正式な記録へ残る」
「ありがとうございます」
「私に礼を言うことではない」
殿下の青い瞳が、私を見つめる。
「お前のものを、お前の名へ戻しただけだ」
涙がこぼれそうになり、私は署名へ目を落とした。
「エレノア」
戻った名で呼ばれる。
顔を上げると、殿下の手が私の頬へ近づき、触れる直前で止まった。
私は逃げずに、その手へ頬を寄せた。
大きな手のひらが、涙を受け止める。
「名前を取り戻すなら、今度は誰にも消させるな」
「はい」
「私も消させない」
甘い言葉ではなかった。
けれど、その約束が、何よりもうれしかった。
◇
夕刻、オスカー様が一通の書状を持って戻ってきた。
「アルヴェール王宮から、正式な協議の申し入れが届きました」
「交易案についてか」
「はい。セドリック・ヴァレインが提出した関税案について、ノルディア側の同意を求めています」
関税を八とする、改ざんされた案。
すでに王国は、それを正式な政策として進めようとしている。
「いつまでに回答を求めている」
「十日以内です」
時間はなかった。
文書だけで改ざんを示すことはできる。
けれど、私が生きていると明かせば、作成者本人として証言できる。
「私が、祖国へ戻る必要がありますか」
尋ねると、殿下の表情が固くなった。
「必要かどうかと、お前が戻りたいかは別の問題だ」
「ですが、戦争を防ぐには」
「お前一人を差し出さなければ防げない戦争なら、その交渉の仕方が間違っている」
殿下はアルヴェールからの書状を閉じた。
「帝国に残ったまま証言書を送ることもできる。使節として祖国へ戻り、自分で説明することもできる」
「私が選べるのですか」
「ああ」
「殿下は、どちらを望まれますか」
青い瞳が、わずかに揺れた。
それでも、殿下は答えなかった。
「明日、すべての選択肢を示す」
私を失うのが怖いと言った人は、残れとは命じなかった。
「帝国に残るか、祖国へ戻るか。選ぶのはお前だ」




