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功績も婚約者も妹に奪われた伯爵令嬢は、記憶を失った先で冷酷皇太子に溺愛される  作者: EMo


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8/11

第8話 冷酷と呼ばれる理由


 翌朝、私は前日の会議で決まった内容を、三つの村へ送る文書にまとめていた。


 ハーゲン村から提供できる物資の量を確認すること。


 ベルク村には、使用できる荷馬車と人員の数を尋ねること。


 ローデ村には、帝国から小麦を届けるまでの間、何日分の備蓄が残っているか報告を求めること。


 命令ではなく、まず各村の意思を確かめる。


 レオンハルト殿下から、そう指示されていた。


「時間です」


 ミラ様の声とともに、目の前から書類を取り上げられた。


「あと一行です」


「その一行が、もう一行、その次の一行と続くのでしょう」


「最後に署名をするだけです」


「それなら、署名だけして終わりにしてください」


 私は急いで文書の末尾へ名前を書いた。


 作成者、エレン。


 その文字を見ると、胸の奥がわずかに温かくなる。


 本当の名前ではない。それでも、私が作ったものに私の名が残る。


「こちらを、会議室へ届けていただけますか」


「今日はあなたが持っていきなさい」


 ミラ様が書類を私へ返した。


「私が、ですか」


「殿下からのご指示です。歩く練習も必要だろうとのことでした。ただし、階段では必ず女官を伴うようにと」


 気遣われていると思いかけて、打ち消した。


 私が早く回復したほうが、文書係として使いやすいからだろう。


 左腕を布で吊り、私は女官とともに部屋を出た。


 国境離宮の廊下を歩くのは初めてだった。


 窓の外には深い森と、遠く雪を頂いた山々が見える。壁には帝国の歴代皇帝や、戦場を描いた絵が並んでいた。


 どの絵にも、黒地に銀の双頭鷲が翻っている。


 ノルディア帝国。


 敵国にいるという事実を、改めて突きつけられた。


 会議室へ近づくにつれ、廊下に立つ衛兵の数が増えていく。


 扉の前には、剣を預けさせられた軍人が二人、両側から腕を押さえられていた。


 一人は若い兵士。


 もう一人は、立派な軍服を着た四十歳ほどの男だった。肩章から、地位のある指揮官だと分かる。


「離せ。私は侯爵家の人間だぞ」


 男が衛兵の手を振り払おうとする。


「命令どおりに物資を集めただけだ。殿下へそう申し上げれば済む」


 物資。


 昨日、国境警備隊が村から強制的に徴収したという話を思い出した。


「エレン様、少しお待ちください」


 同行していた女官が小声で言った。


「今は、軍規違反者の裁定が行われています」


 戻ったほうがよいのかもしれない。


 そう考えたとき、会議室の扉が開いた。


「エレン。入れ」


 中からオスカー様に呼ばれた。


 ためらいながら室内へ入る。


 正面にはレオンハルト殿下が座っていた。


 窓から差し込む光が銀の髪を照らしている。その表情には、昨日の会議で見せたわずかな柔らかさなど残っていなかった。


 私は一礼し、文書をオスカー様へ渡した。


「壁際で待て。すぐに確認する」


 殿下の命令に従い、部屋の隅へ下がる。


 先ほどの指揮官と若い兵士が、衛兵に連れられてきた。


「国境警備隊第三部隊指揮官、グレゴール・ヴァルツ」


 オスカー様が罪状を読み上げる。


「昨日、ローデ村において、冬季用の小麦と塩を徴収。抵抗した村人三名に怪我を負わせた。徴収に必要な記録を残さず、帝国からの支払いも行っていない。間違いないか」


「軍の補給が遅れていたのです」


 グレゴールと呼ばれた男は、悪びれる様子もなく答えた。


「国境を守る兵を飢えさせるわけにはまいりません。緊急時には現地で物資を集める権限が、指揮官には認められています」


「対価を記録し、後日支払うことを条件にな」


 殿下の声は低かった。


「記録はどこだ」


「急を要しておりましたので、後から作成するつもりでした」


「村人に怪我をさせた理由は」


「命令に従わなかったからです」


「誰の命令だ」


「私の命令です」


「お前には、帝国の民から無償で食料を奪う権限はない」


 グレゴールの顔が強張った。


「たかが辺境の村人です。彼らを守っているのは我々ではありませんか。小麦の数袋くらい、差し出して当然でしょう」


 室内の温度が下がったように感じた。


 殿下の青い目から、すべての感情が消えた。


「たかが村人、か」


 静かな声だった。


「軍服を着た者が、武器を持たない民から食料を奪う。それでは賊と何が違う」


「殿下、私はヴァルツ侯爵の弟です」


「だから何だ」


 グレゴールは言葉を失った。


「身分があれば、軍規を破っても許されると思ったか」


「そのような意味では――」


「指揮官の地位を剝奪する。身柄は軍監へ移し、正式な審理が終わるまで拘束しろ。村から奪った物資と治療にかかる費用は、本人の財産から支払わせる」


 衛兵たちが一斉に姿勢を正した。


「お待ちください。兄が黙ってはいません」


「侯爵が異議を申し立てるなら、証拠とともに出させろ」


 殿下は表情一つ変えなかった。


「身内の罪を隠すつもりなら、侯爵家も調べる」


 グレゴールの顔から血の気が引いた。


「連れていけ」


 男はなおも何かを訴えていたが、衛兵によって部屋から出された。


 続いて、若い兵士が殿下の前へ進み出る。


 ひどく緊張している。顔には殴られたような痣があった。


「お前は徴収を止めようとしたそうだな」


「はい。記録のない徴収は軍規に反すると申し上げました」


「その傷は」


「指揮官に逆らった罰として受けました」


「それでも、村人を逃がした」


「子どもから食料まで取り上げる命令には、従えませんでした」


 殿下はしばらく兵士を見つめていた。


「命令に背いたこと自体は事実だ」


「承知しております」


「だが、違法な命令に従う義務はない。処罰はしない」


 若い兵士が顔を上げた。


「以後は第二部隊へ移れ。今回の経緯を、何一つ省かず報告書にしろ」


「承知しました」


 兵士が深く頭を下げ、退室する。


 裁定が終わっても、私は動けなかった。


 グレゴールに告げたときの、殿下の冷たい声が耳に残っている。


 身分ある者であっても、ためらうことなく地位を奪う。


 必要と判断すれば、侯爵家にまで調査を広げる。


 もし私が間者だったなら。


 記憶が戻り、この国を欺いていたと分かったなら、殿下は同じ目で私を見るのだろう。


「何を見ている」


 声をかけられ、身体がこわばった。


 いつの間にか、室内には殿下とオスカー様、私だけが残っている。


「申し訳ありません」


「謝罪ではなく、答えろ」


「殿下を、恐ろしいと思いました」


 オスカー様がわずかに目を見開いた。


 言ってから、正直すぎたかもしれないと思った。


 けれど殿下は怒らなかった。


「正しい判断だ」


 意外な答えだった。


「私は必要なら、処刑も命じる。昨日、お前の案を認めたからといって、善人だと思うな」


「では、なぜ村人を守られたのですか」


「守ったのではない。法を破った者を裁いた」


「村人が相手でなくても、同じ裁定を?」


「身分によって変えるなら、法とは呼べない」


 殿下は私が届けた文書を手に取った。


「お前の案には、村の物資を帝国が買い取ると書かれている。これでいい」


「軍が必要としていても、ですか」


「必要なら正当な対価を支払う。奪う理由にはならない」


 殿下にとっては、それも当然のことなのだ。


 案を作った者の名を変えないことも。


 働いた者へ報酬を支払うことも。


 身分を理由に罪を軽くしないことも。


 優しさから行っているのではない。


 正しいと決めたことを、誰に対しても曲げない。


 だからこそ、容赦がない。


「まだ怖いか」


 殿下が尋ねた。


「はい」


 正直に答えた。


「ですが、少しだけ分かった気がします」


「何をだ」


「殿下が、冷酷と呼ばれる理由をです」


 青い目が、わずかに細められた。


「分かったつもりになるな」


「申し訳ありません」


「それも禁止したはずだ。必要のないことで謝るな」


 殿下はそう言い、文書の一枚をオスカー様へ渡した。


「三つの村へ送れ。ローデ村には、奪われた分とは別に、軍の備蓄から小麦を補充しろ」


「承知しました」


「エレン」


 名を呼ばれ、私は殿下を見る。


「今日の仕事は終わりだ。部屋へ戻れ」


「まだ時間は残っています」


「戻れ」


 反論を許さない声だった。


 廊下へ出る直前、オスカー様が一束の文書を抱えて入ってくるのが見えた。


「グレゴールの荷物から押収した交易文書です。アルヴェール側の商人とのやり取りも含まれています」


 アルヴェールという言葉に、足が止まった。


 文書の一枚が束から滑り、床へ落ちる。


 拾おうとした私の目に、余白に書かれた小さな文字が入った。


 見覚えがある。


 初めて見るはずなのに、線の傾きも、文字をつなぐ癖も知っている。


 私は無意識に、自分の右手を見た。


 あの文字は、私の筆跡に似ていた。

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