第5話 冷酷皇太子の誤りを指摘しました
「この数字……計算が合っていません」
私が口にすると、部屋の空気が止まった。
書類を落とした若い女官が、不安そうにミラ様を見る。
「エレン。勝手に起き上がってはいけません」
最初に注意されたのは、書類を読んだことではなかった。
ミラ様は私の背中に枕を入れ、身体を支えてくれた。
「申し訳ありません。でも、このままでは必要な物資が揃わないのではありませんか」
「なぜ、そう思うのです」
ミラ様が床から拾い上げた紙を、私へ向けた。
そこには小麦や豆、塩など、離宮で冬を越すために必要な物資が書かれている。
「こちらの豆は、二十四箱とあります」
「ええ。それがどうかしましたか」
「右側の合計では、二十四袋として数えられています。ですが、この印は、一箱に十二袋入っているという意味ではありませんか」
私が示したのは、品名の横に書かれた小さな記号だった。
なぜ意味が分かるのか、自分でも説明できない。
けれど、見た瞬間に分かった。
二十四箱なら、中に入っているのは二百八十八袋。それを二十四袋として数えているため、実際より大幅に少なく見えている。
「それから、こちらの乾燥肉は同じ品が二度書かれています。一方は注文した数、もう一方は商会から届いた確認の数ではないでしょうか」
若い女官が書類をのぞき込んだ。
「同じ印がついています。では、別々の品ではないのですね」
「おそらくは。豆は少なく、乾燥肉は多く数えられています。合計だけを見ると差が小さいので、気づきにくかったのだと思います」
ミラ様は書類を持ったまま、しばらく黙っていた。
「あなたは、これをどこで学んだのです」
「分かりません」
「何も思い出せないのですか」
「数字の意味は分かります。でも、誰から教わったのかは……」
自分の名前も、住んでいた場所も思い出せない。
それなのに、紙に並んだ数字は私を拒まなかった。
どの数字とどの数字がつながり、どこで数え方が変わったのか。目で追えば、自然に筋道が見えてくる。
「女官長」
扉の外から衛兵の声がした。
「殿下がお見えです」
胸が強く鳴った。
ミラ様が返事をする前に、扉が開く。
レオンハルト殿下とオスカー様が入ってきた。殿下は昨日と同じ黒い軍装を身につけ、腰に剣を帯びている。
「物資に問題が出たと聞いた」
殿下は、ミラ様が持つ書類へ目を向けた。
「明日届くはずだった冬季用の物資が、半分しか用意できないと連絡がありました」
「不足分は近隣の商会から買い入れろ。価格が上がっても構わない」
「お待ちください」
声を上げてから、自分が皇太子の命令を遮ったことに気づいた。
オスカー様の鋭い視線が、すぐに私へ向けられる。
「殿下のご命令を遮るとは、ずいぶん大胆ですね」
「申し訳ありません」
頭を下げようとすると、胸に痛みが走った。
「ですが、本当に不足しているのか、先に確かめたほうがよいと思います」
「理由を言え」
殿下は怒ることなく、短く命じた。
私はミラ様から書類を受け取り、間違いと思われる箇所を示した。
「豆の数え方が、途中で箱から袋へ変わっています。注文されているのは二十四袋ではなく、二十四箱です」
「この印が箱を示すのか」
「はい。一箱に十二袋入っています」
「なぜ分かる」
「それは……分かりません」
殿下の眉がわずかに動いた。
「知っているのに、学んだ場所は覚えていないということか」
「はい」
「ほかには」
試されている。
そう感じた。
私はもう一度、書類へ目を落とした。
「乾燥肉が二重に数えられています。こちらは注文した数、こちらは商会が用意できると回答した数です。本来は、別の欄に記すものではないでしょうか」
「直せば、どうなる」
近くにあった紙と筆を借りた。
左腕は固定されているため、右手だけで紙を押さえる。少し書きにくかったが、数字は迷わず並べられた。
豆は不足していない。
乾燥肉も、記載された半分で足りる。
ほかの品を計算し直すと、本当に不足しているのは塩と薬草だけだった。
「新たに買い入れる必要があるのは、この二つです」
書き終えた紙を差し出す。
殿下はそれを受け取り、最初の書類と見比べた。
「暗算したのですか」
若い女官が驚いたように尋ねた。
「難しい計算ではありません」
そう答えたものの、部屋にいる全員の視線が集まっている。
何か間違えたのではないかと、不安になった。
殿下がオスカー様へ紙を渡す。
「商会へ確認しろ」
「直ちに」
オスカー様は書類を手に部屋を出ていった。
殿下は残り、私が書いた数字をもう一度見た。
「先ほどの命令は撤回する」
室内にいた者たちが、一斉に殿下を見た。
「確認せず、不足しているという報告だけで判断した。俺の誤りだ」
皇太子が、女官たちの前で自分の誤りを認めた。
私は驚いて言葉を失った。
誰かの間違いを直すことはあっても、そのことを人前で認めてもらった記憶はない。
記憶がないはずなのに、なぜかそう感じた。
「まだ、私の計算が正しいと決まったわけではありません」
「確かめれば分かる」
「もし、私が間違っていたら……」
「そのときは、間違っていたと伝えるだけだ」
殿下は淡々と答えた。
「正しいかどうかと、お前が何者かは別の問題だ。計算が合っていても、信用したことにはならない」
やはり、疑いが消えたわけではない。
けれど、正しいことまで否定されるわけでもなかった。
しばらくして、オスカー様が戻ってきた。
「商会へ確認しました。エレンの指摘どおりです。豆は二十四箱を確保済み。乾燥肉も確認書の分が重複していました」
「塩と薬草だけを手配しろ」
「承知しました」
殿下は私へ向き直った。
「お前の指摘で、不要な買い入れをせずに済んだ」
「お役に立てたのなら……よかったです」
安堵とともに、胸の奥が少しだけ軽くなった。
何も分からない私にも、できることがあった。
「ほかの書類も見せていただけますか」
思わず尋ねた。
「同じような間違いがないか、確かめます」
「いけません」
ミラ様が即座に遮った。
「熱が下がるまでは仕事をさせないと、先ほど申し上げました」
「ですが、右手は使えます」
「頭を打ち、腕を痛め、胸にも傷を負った人の言葉とは思えませんね」
「少し見るだけです」
「少しで終わらない顔をしています」
ミラ様はきっぱりと言った。
殿下は私とミラ様を交互に見た。
「女官長に従え」
「殿下まで……」
「役に立ちたいなら、まず傷を治せ。寝台から起き上がることもできない者に、書類を任せるつもりはない」
冷たい言い方だった。
それでも、私を役に立たないと切り捨てたわけではない。
傷が治れば任せることもあると、そう聞こえた。
「承知いたしました」
「今度、勝手に起き上がったら、書類はこの部屋へ持ち込ませない」
「それは困ります」
「ならば寝ていろ」
殿下はそれだけ告げると、オスカー様へ目を向けた。
「事故現場の調査を続けろ。御者の行方と、馬車の紋章を確認させる」
「すでに人を向かわせています」
「報告は直接私に持ってこい」
殿下は踵を返し、部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、私は先ほどの言葉を繰り返していた。
役に立ちたいなら、まず傷を治せ。
何もせずに休むことを許されたはずなのに、なぜか落ち着かない。
私にとって、誰かの役に立たない時間は、それほど恐ろしいものだったのだろうか。
◇
同じ頃、アルヴェール王国のアシュベリー伯爵邸では、執事が一冊の書類を抱えて立ち尽くしていた。
「こちらの支払いは、どなたの許可をいただけばよろしいのでしょう」
執務机の向こうで、ベアトリスが不機嫌そうに眉を寄せる。
「伯爵に決まっているでしょう」
「旦那様からは、奥様へ確認するようにと申しつけられました」
「では、これまでと同じようになさい」
執事は困ったように書類へ目を落とした。
「その、これまでの処理をしていたのは、エレノアお嬢様でございます」
部屋が静まり返った。
ベアトリスは、机の上に積まれた書類へ目を向ける。
「それくらい、あなたにもできるでしょう」
「支払額を決めるための記録が、どこにあるのか分からないのです。お嬢様は必要な数字を別の紙にまとめ、旦那様へお渡ししていましたので」
「ならば、その紙を探しなさい」
「すでに探しました。今月分は、まだ作成されておりません」
ベアトリスの顔から、わずかに余裕が消えた。
隣の部屋では、セドリックが青い表紙の交易改善案を開いていた。
明日の評議会で説明する内容を確認するためだった。
しかし、余白には見慣れない記号と短い言葉が並び、その意味が分からない。
最後の表には、異なる二つの数字が記されている。
どちらを使えばよいのかさえ、判断できなかった。
「なぜ、完成させてから渡さなかったんだ」
苛立ちのまま呟き、セドリックは文書を閉じかけた。
その手が止まる。
これまで彼が受け取っていた文書には、分からない箇所など一つもなかった。
質問する前に、必要な答えがすべて用意されていたからだ。
誰が、そこまで仕上げていたのか。
エレノアが屋敷を去って、まだ一日しか経っていない。
それなのに、彼女が残した空白を埋められる者は、どこにもいなかった。




