第4話 記憶のない女は、王族の礼を知っていた
「記憶がないわりには、私のことは知っているようだな」
レオンハルト皇太子の銀色の目が、鋭く細められた。
失敗したと思った。
けれど、口からこぼれた言葉を取り消すことはできない。
「申し訳、ございません」
私は痛む身体を起こそうとした。
皇太子に対して、寝台に横たわったまま言葉を返してはならない。少なくとも、私の中に残っている何かが、そう告げていた。
右手を寝台につき、上半身を持ち上げる。
胸に痛みが走った瞬間、レオンハルト様の声が飛んだ。
「動くな」
命令に、身体が止まった。
「その状態で礼を取る必要はない」
「ですが、皇太子殿下に対して、このような姿のままでは――」
そこまで言って、私は自分の言葉に戸惑った。
なぜ、皇太子への礼を知っているのだろう。
頭を下げる角度も、呼びかける際の敬称も、誰かに教わった記憶はない。それでも、考えるより先に身体が動こうとした。
「自分の名は忘れても、王族への礼は忘れていないらしい」
オスカー様の声には、疑いがにじんでいた。
「本当に何も覚えていないのですか」
「何も、というわけではありません」
慎重に答える。
「言葉の意味は分かります。ここが寝室で、あの方が医師であることも。馬車が崖から落ちたことも覚えています。ただ、その前のことを思い出そうとすると……」
霧の向こうへ手を伸ばすようだった。
何かがあると分かっているのに、触れることができない。
「家族の顔も、住んでいた屋敷も、自分の名前も分かりません」
オスカー様は私を観察し続けていた。
「殿下の異名は思い出せるのに?」
「それも、なぜ知っているのか分からないのです」
「随分と都合よく記憶を失うものですね」
「オスカー」
レオンハルト様が低い声で止めた。
「責めても、失った記憶は戻らない」
「ですが、偽っている可能性はあります」
「その判断は、話せる状態になってから俺がする」
冷たい声だった。
私を庇ったわけではない。ただ、今ここで問い詰めても意味がないと判断しただけなのだろう。
それでも、オスカー様はそれ以上何も言わなかった。
レオンハルト様が、聞き慣れない響きの言葉を口にした。
低く、短い問いだった。
私は意味を考えるより先に答えていた。
「はい。分かります」
自分の口から出た言葉に、驚いた。
先ほどまでとは違う言葉を、私は自然に話している。
「今のは……」
「ノルディア語です」
ユリウス先生が答えた。
「あなたは、この国の言葉を理解できるのですね」
「そのようです」
「話せるだけではありません」
オスカー様が言った。
「地方の訛りがない。帝都で使われる発音です。敵国で誰に教わったのですか」
「分かりません」
「また、それですか」
「本当に、分からないのです」
悔しさに、右手で掛布を握った。
問いに答えたい。
自分が怪しい人間ではないと証明したい。
けれど、何かを知っていることは分かっても、いつ、どこで、誰から学んだのかが抜け落ちている。
「不自然なことではありません」
ユリウス先生が間に入った。
「人の記憶は、すべてが一つの箱に収められているわけではありません。自分が何者で、どこで暮らしていたかという記憶と、長い時間をかけて身につけた言葉や動作は、同時に失われるとは限りません」
「つまり、礼儀や言葉が残っていても、名前を思い出せないことはあると?」
レオンハルト様が尋ねた。
「はい。文字を書かせたり、品物を見せたりすれば、ほかにも残っている力が分かるかもしれません。ただし、今は休ませるべきです」
レオンハルト様は私へ視線を戻した。
「アルヴェールとノルディア、両方の言葉を使える者は多くない。少なくとも、何の教育も受けていない者ではないな」
それは自分が何者なのかを示す、初めての手がかりだった。
けれど、安心はできなかった。
高い教育を受けた敵国人。
その事実は、私への疑いを深めただけかもしれない。
「事故現場から回収したものがあります」
オスカー様が、上着の内側から布に包まれた品を取り出した。
ひどく汚れた白い手巾だった。
端の刺繡に見覚えがある。
心臓が大きく鳴った。
「私のものです」
思わず言った。
「覚えているのですか」
「いいえ。でも……見れば分かります」
白い布の端には、銀糸で一文字だけ刺繡されていた。
飾り文字の、E。
私はその文字を指先でなぞりたくなった。
誰が縫ったのだろう。
自分だろうか。それとも、誰かから贈られたものだろうか。
思い出そうとすると、また頭の奥が痛んだ。
「名の頭文字でしょうか」
ユリウス先生が言った。
「おそらくは」
オスカー様は手巾を見つめた。
「ただし、家名を示す文字かもしれません。これだけでは身元の証明にはなりません」
「呼び名がないままでは不便だ」
レオンハルト様が言った。
「Eから始まる名に、心当たりはないか」
いくつもの名前を思い浮かべようとした。
けれど、どれも自分のものには感じられない。
それでも、口の中で音を探していると、一つだけ胸になじむ響きがあった。
「エレン……」
なぜ、その名が浮かんだのかは分からなかった。
「エレンと呼ばれたいのか?」
「分かりません。ただ、その名前なら、自分のことだと思えそうな気がします」
レオンハルト様は短くうなずいた。
「では、記憶が戻るまでエレンと呼ぶ」
借り物の名前。
本当の自分とは違うかもしれない。
それでも、何者でもない状態から、細い糸を一本渡されたような気がした。
「ありがとうございます」
「礼を言う必要はない。呼び名が必要だっただけだ」
レオンハルト様は表情を変えなかった。
「エレン。お前は身元が判明するまで監視下に置く。だが、捕虜として扱うつもりもない。必要な治療と衣食は与える」
「その代わり、思い出したことはすべて話すように」
オスカー様が付け加えた。
「はい」
「嘘が分かれば、扱いは変わる」
レオンハルト様の声に脅しの響きはなかった。
だからこそ、それが単なる警告ではないと分かった。
敵国の間者だと判断されれば、この人は迷わず処分を命じるのだろう。
「承知いたしました」
私が答えると、レオンハルト様はユリウス先生へ治療を続けるよう命じ、部屋を出ていった。
オスカー様も一礼し、その後を追う。
扉が閉まると、張りつめていた糸が切れたように身体から力が抜けた。
「無理をしましたね」
ユリウス先生が苦笑した。
「少し眠ったほうがよいでしょう。骨にひどい損傷はありませんが、左腕と胸を強く打っています。熱が出る可能性もあります」
「眠っている場合ではありません」
私は反射的に答えた。
「自分が誰なのか調べなければ。それに、こちらでお世話になるなら、何かしなければなりません」
「何か?」
「働かせてください」
助けてもらい、治療まで受けている。
何も返さず寝台に横たわっていることが、ひどく落ち着かなかった。
「掃除でも、針仕事でも構いません。できることを探します」
「怪我人に働かせる離宮ではありませんよ」
穏やかだが、きっぱりとした女性の声がした。
開いた扉の前に、灰色の髪をきちんと結い上げた女性が立っている。濃紺の衣装には皺一つなく、背筋も真っ直ぐだった。
「私は、この離宮の女官長を務めるミラ・ハーゲンです。あなたの身の回りのお世話を任されました」
「エレンと申します」
名乗ってから、不思議な気持ちになった。
それは本当の名前ではない。
それでも、今の私に与えられた唯一の名だった。
「では、エレン。最初に覚えてください」
ミラ様は寝台のそばまで来ると、掛布を整えた。
「今のあなたの仕事は、食べて、眠って、傷を治すことです」
「ですが、何もせずにお世話になるわけには……」
「休むことを、何もしないとは言いません」
「私は大丈夫です。右手は動きますし、文字も書けると思います」
「思う、では許可できません」
取りつく島もない。
ユリウス先生は、笑いをこらえるように顔をそらしていた。
「少なくとも熱が下がるまでは、仕事の話は禁止です」
ミラ様はそう言って、窓辺の小卓を片づけ始めた。
そのとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
「女官長、大変です。明日届くはずだった冬季用の物資が、半分しか用意できないと連絡が」
「半分?」
若い女官が抱えていた書類の束から、一枚の紙が床へ落ちた。
私の寝台の近くまで滑ってくる。
拾おうと身をかがめた瞬間、紙に並んだ数字が目に入った。
読むつもりはなかった。
それなのに、合計欄を見た途端、胸の奥に明確な違和感が走った。
「この数字……」
私は紙を見つめた。
「計算が合っていません」




