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第3話 お前は誰だ


 最初に感じたのは、痛みだった。


 頭の奥で、鈍い音が脈打っている。息を吸うたびに胸のあたりが軋み、左腕には焼けるような痛みが走った。


 身体がひどく重い。


 目を開けようとしても、まぶたが思うように動かなかった。


「無理に起きてはいけません」


 男の声がした。


 知らない声だった。


 私は反射的に身を起こそうとした。


 途端に視界が大きく揺れ、左腕から肩へ鋭い痛みが突き抜ける。


「動かないでください。腕を痛めています」


 肩を支えられ、ゆっくりと寝台へ戻された。


 目を開けると、白い天蓋が見えた。


 見覚えのない部屋だった。


 石造りの壁。厚いカーテン。火の入った暖炉。そのそばには、銀色の器具を並べた卓が置かれている。


 窓から差し込む光は弱く、今が朝なのか夕方なのかも分からない。


「ここは……」


 声がかすれていた。


「国境の離宮です」


 寝台のそばにいた青年が答えた。


 淡い茶色の髪に、穏やかな灰色の目。深緑の上着の胸元には、見知らぬ印が縫い取られている。


「私は宮廷医のユリウスと申します。あなたは崖下で倒れているところを救助されました」


「崖……」


 その言葉を口にした瞬間、いくつもの音が頭の中によみがえった。


 馬の悲鳴。


 激しく揺れる車体。


 崖へ向かって走る馬車。


 道の上に立ち、こちらを見送っていた御者。


 最後に見えた、青い空。


「馬車が……」


 息が苦しくなった。


「馬車から、出なければ……御者が、金具を……」


「もう馬車の中ではありません。ここは安全です」


 ユリウスの声は静かだった。


「ゆっくり息をしてください。今すぐ思い出そうとしなくてよいのです」


 私は言われたとおりに息を吸った。


 胸が痛み、浅い呼吸しかできない。


「馬車に乗っていたことは覚えているのですね」


「はい」


「どこへ向かっていましたか」


「北部の……」


 その先が出てこなかった。


 北部のどこかへ向かっていた。


 誰かから、そこへ行くよう命じられた。


 そのことは分かるのに、場所の名が思い浮かばない。


「誰と一緒でしたか」


「一人です。御者がいました。でも、知らない人で……」


「あなたのお名前は?」


 ユリウスに尋ねられ、私は答えようとした。


 口を開けば、自然に出てくると思った。


 けれど、何も浮かばなかった。


「私の、名前……」


 胸の奥が冷たくなった。


 知らないはずがない。


 何度も呼ばれてきた。手紙にも、文書にも、自分の手で書いてきたはずだ。


 それなのに、その名前だけが黒く塗りつぶされたように見えない。


「焦らなくて大丈夫です」


「分かりません」


 自分の声が震えた。


「名前が……思い出せません」


「ご家族は?」


 家族。


 その言葉に、胸の奥が痛んだ。


 誰かの顔が浮かびそうになる。


 けれど近づこうとすると、薄い霧に隠れてしまう。


「分かりません」


「住んでいた場所は?」


「……分かりません」


 質問されるたびに、自分の中から何かが失われていく。


 私は掛布を握ろうとした。けれど左腕は板と布で固定され、指先しか動かせない。


 右手を見つめる。


 これが自分の手だということは分かる。


 水が何かも、窓が何かも、目の前の男性が医師だということも分かる。


 けれど、自分が誰なのかだけが分からない。


「どうして……」


「強く頭を打っています」


 ユリウスが椅子へ座った。


「頭の傷によって、過去の記憶が一時的に失われることがあります。すべてを忘れるとは限りません。言葉や、これまで身につけた動作が残ることもあります」


「いつ、戻るのですか」


「数日で戻る者もいます。長い時間が必要な者もいます」


「戻らないことも?」


 ユリウスはすぐには答えなかった。


 その沈黙だけで十分だった。


 私は目を閉じた。


 何かを思い出さなければならない。


 北部へ向かう前、誰かと話していた。


 美しい部屋。長椅子に並んで座る男女。青い石の耳飾り。そして、青い表紙の文書。


 胸が締めつけられる。


 大切なことだったはずなのに、誰の顔も名前も分からなかった。


「先生」


 部屋の外から声がした。


 扉の近くに控えていた女性が、ユリウスへ何かを耳打ちする。


 彼はわずかに眉を寄せた。


「まだ目覚めたばかりです」


 答える声が聞こえた。


 それでも扉は開いた。


 入ってきた男を見た瞬間、私は息を止めた。


 黒い軍装。


 冷たい銀色の瞳。


 崖下で、私を見下ろしていた男だった。


 後ろには、濃紺の上着を着た黒髪の男が付き従っている。その人は部屋へ入るなり、私の顔から固定された腕までを鋭く観察した。


「目を覚ましたと聞いた」


 黒い軍装の男が言った。


「殿下、長く話せる状態ではありません」


 ユリウスが立ち上がる。


「質問は一つだ」


 男は寝台から少し離れた場所で足を止めた。


 命を救ってくれた人だ。


 そう分かっているのに、近づかれるだけで身体がこわばった。


 男は私の怯えに気づいているはずだった。けれど、慰めるような言葉は口にしなかった。


「お前は誰だ」


 答えなければならない。


 助けてもらったのだから、自分の身元を説明するのは当然だ。


 それなのに、私には差し出せる名前がなかった。


「分かりません」


 男の後ろにいた人物の目が細くなった。


「分からない?」


「名前を、思い出せないのです」


「ずいぶん都合のよい話ですね」


 黒髪の男が冷ややかに言った。


「敵国の紋章をつけた馬車で国境近くに現れ、所属も名前も分からないとは」


「オスカー」


 低い声が、その先を止めた。


「事実だけを述べろ」


「事実を述べております。彼女が間者でない証拠はありません」


 間者。


 その言葉に血の気が引いた。


「違います」


 思わず答えた。


「では、何者だ」


「それは……」


 何も言えなくなった。


 自分が誰なのかも分からない人間が、どうやって無実を証明すればよいのだろう。


 黒い軍装の男は、しばらく私を見つめていた。


 感情の読めない目だった。


「馬車にはアルヴェール王国の貴族の紋章があった」


 アルヴェール王国。


 その名を聞くと、胸の奥にかすかな反応があった。


 知っている。


 けれど、それが自分とどのように関係するのか思い出せない。


「聞き覚えはあるか」


「……あります」


「どの家の紋章だ」


「分かりません」


「馬車が崖から落ちる前に、何があった」


「御者が馬車を停めました。車輪を見ていると思ったのです。でも、金具のようなものを投げ捨てて……馬を走らせました。御者は乗っていませんでした」


 オスカーと呼ばれた男が、黒い軍装の男を見た。


「やはり、故意ですか」


「その話が事実ならな」


 信じてもらえてはいない。


 命を救われたからといって、信用まで与えられるわけではないのだ。


「私を、どうなさるのですか」


 尋ねると、男はためらわずに答えた。


「身元が判明するまで、この離宮に置く」


「出てはいけないということですか」


「正体不明の敵国人を、自由に歩かせると思うか」


 冷たい言葉だった。


 けれど、怒鳴られたわけではない。脅されたわけでもない。


 彼はただ、決定したことを告げていた。


「監視をつける。部屋を出るときは許可を得ろ。思い出したことがあれば、どんなに小さなことでも報告しろ」


 拒める立場ではなかった。


「……分かりました」


 答えると、男はユリウスへ視線を向けた。


「治療に必要なものは、身分にかかわらず用意しろ」


「承知しております」


「護衛は扉の外へ置く。室内には入れるな」


 それだけ言って、男は踵を返した。


 命を救いながら、私を信用しない。


 傷ついた敵国人を治療させながら、外へ出る自由は与えない。


 優しい人なのか、恐ろしい人なのか、私には判断できなかった。


「お待ちください」


 なぜ呼び止めたのか、自分でも分からない。


 男が振り返る。


「あなたは、どなたなのですか」


 黒髪の男が、今度こそ驚いたように私を見た。


 黒い軍装の男は表情を変えなかった。


「レオンハルト・フォン・ノルディア」


 ノルディア。


 その国名を聞いた瞬間、身体が強くこわばった。


 窓辺に掛けられた旗が目に入る。


 黒地に、銀の双頭鷲。


 その紋章の意味を、私は知っていた。


 ノルディア帝国。


 私の祖国と国境を接し、長く争ってきた国。


 そして目の前にいるのは、敵にも裏切り者にも容赦しないと恐れられている、その帝国の皇太子。


 名前も家族も思い出せないのに、なぜか彼の名だけは知っていた。


「冷酷皇太子……」


 声が漏れた。


 レオンハルトの銀色の目が、鋭く細められた。


「記憶がないわりには、私のことは知っているようだな」

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