第2話 崖下で拾われた伯爵令嬢
夜が明けきらないうちに、私は伯爵家を出された。
旅支度のために与えられたのは、昨夜のうちに用意された小さな鞄一つだけだった。着替えが二組と、薄い外套。それ以外に何を持っていくか尋ねられることもなかった。
長年使ってきた机にも、書きかけの交易改善案にも、触れることは許されなかった。
「北部は冷えるそうです。どうか、お身体を大切に」
玄関まで見送りに来た侍女が、私の手を握った。
「あなたは一緒に来ないの?」
思わず尋ねると、侍女は困ったように視線を伏せた。
「奥様から、別邸には必要な者が揃っていると……」
私の世話をする者まで、すでに決められているらしい。
玄関前には、飾り気のない黒い馬車が停まっていた。伯爵家の紋章は扉に刻まれているものの、普段使っている馬車とは違う。
御者台に座っている男にも、見覚えがなかった。
「いつもの御者はどうしたのですか」
「体調を崩したと聞いております」
男は帽子を深くかぶったまま答えた。
声が低く、こちらを見ようともしない。
胸の奥に小さな引っかかりを覚えたが、何がおかしいのかまでは分からなかった。
屋敷の窓を見上げる。
父の部屋にも、リリアの部屋にも、人影はなかった。
セドリック様も、私を見送りには来なかった。
当然だと思う一方で、六年間という時間は、別れの言葉一つにさえ値しなかったのかと考えてしまう。
「お嬢様、お時間です」
従僕に促され、私は馬車へ乗った。
扉が閉まる。
すぐに鞭の音がして、馬車が動き始めた。
住み慣れた屋敷が、窓の向こうへ遠ざかっていく。
昨日まで、私はここで結婚の日を迎えるはずだった。
いずれセドリック様の妻となり、彼を支えながら、父の領地にも力を尽くすのだと思っていた。
けれど今、私に残されたのは、行ったこともない北部の別邸と、着替えの入った小さな鞄だけだ。
それでも頭に浮かぶのは、青い表紙の文書だった。
最後の数字は直してもらえるだろうか。
古い記録を使えば、実際に運べる穀物の量と食い違ってしまう。
セドリック様なら、私の書き残した注記を見つけてくださるかもしれない。
そこまで考え、私は膝の上で手を握った。
婚約を解消した人が、約束どおり私の仕事を扱ってくれると、なぜまだ信じようとしているのだろう。
答えは見つからなかった。
馬車は北へ進み続けた。
街を抜け、なだらかな田園地帯を過ぎると、道は次第に狭くなった。窓の外には深い森が広がり、人家も見えなくなっていく。
昼を過ぎた頃、馬車が大きく揺れた。
私は座席の端をつかみ、窓から外を見た。
いつの間にか、道の片側が切り立った斜面になっている。眼下には岩と木々が連なり、その先を細い川が流れていた。
北部の別邸へ行く道としては、おかしい。
以前訪れた記憶はおぼろげだが、街道沿いにはいくつか宿場があったはずだ。
私は前方の小窓を開けた。
「この道で合っているのですか」
「街道で崩落があったそうです」
御者は振り返らずに答えた。
「別の道を通ります」
「いつ崩落したのですか」
返事はなかった。
「御者。止まりなさい」
今度は少し強く言った。
すると馬車の速度が緩み、やがて道の端で停まった。
「車輪を見てまいります」
御者が降りる音がした。
私は窓に顔を寄せた。男は後輪のそばへ回り、身をかがめている。
やがて立ち上がると、周囲を見回した。
その手には、馬車の部品らしき短い金具が握られていた。
「何をしているのですか」
私が扉へ手をかけた瞬間、男は金具を斜面へ放り投げた。
息をのむ間もなく、激しい鞭の音が響いた。
馬が甲高くいななき、馬車が前へ飛び出した。
「止めて!」
御者台には誰もいない。
男は道の上に立ったまま、走り去る馬車を見送っていた。
私は扉を開けようとしたが、外側から固定されているのか、取っ手は動かなかった。
馬車は坂道を下りながら、急速に速度を増していく。
車輪が石を踏むたびに車体が跳ね、肩と背中が壁へ叩きつけられた。鞄が床へ落ち、中身が散らばる。
「誰か……!」
叫んでも、人のいない森に声が吸い込まれていく。
馬を止める者はいない。
進行方向には急な曲がり道があり、その向こうは崖だった。
事故ではない。
初めから、私は別邸へ送られるのではなかった。
昨日の継母の微笑が脳裏に浮かぶ。
婚約者を妹に奪われ、心を病んだ令嬢。
人目を避けるため北部へ送られ、その途中で不幸な事故に遭った。
そのように語れば、誰も疑わないだろう。
父は、それを知っていたのだろうか。
セドリック様は――。
激しい衝撃に、身体が宙へ浮いた。
片方の車輪が外れ、窓の向こうを転がっていくのが見えた。
馬車が大きく傾く。
馬の悲鳴。木の裂ける音。身体が何度も壁へ打ちつけられ、どちらが上なのかも分からなくなる。
最後に見えたのは、空だった。
雲一つない、冷たいほど青い空。
私はまだ、自分が書いたものを自分のものだと、一度も言えなかった。
そんな思いが胸をよぎった直後、馬車は崖下へ落ちた。
◇
「殿下、止まってください」
先頭を進んでいた情報官オスカーの声に、レオンハルトは馬の手綱を引いた。
極秘の国境視察を終え、帝都へ戻る途中だった。
街道を避けて森を抜けていた一行の前に、折れた枝と新しい轍が残されている。
轍は道を外れ、崖へ向かっていた。
レオンハルトは馬から降りた。
「下に何かあります」
護衛の一人が指さす。
木々の間に、砕けた馬車の黒い車体が見えた。近くには、投げ出された馬が横たわっている。
「事故でしょうか」
「事故なら、御者も一緒に落ちている」
レオンハルトは短く答え、斜面を下りた。
馬車の扉には、アルヴェール王国の伯爵家を示す紋章が刻まれている。
オスカーが険しい顔をした。
「敵国の馬車です。罠の可能性があります」
「罠にしては、壊しすぎだ」
レオンハルトは地面に散らばった破片へ目を向けた。
外れた車輪を留めるはずの金具がない。崖へ落ちる前に抜かれたのだろう。
事故に見せかけた処分。
そう判断するのに時間はかからなかった。
壊れた車体の奥に、淡い色のドレスが見えた。
若い女が横たわっている。
額から血を流し、目を閉じていた。片腕は不自然な向きに投げ出され、泥に汚れた指先だけがわずかに動いた。
レオンハルトは膝をつき、女の口元へ手を近づけた。
「殿下、触れてはなりません」
「黙れ」
呼吸は、かすかに残っていた。
その声が届いたのか、女のまぶたが震えた。
ぼやけた視界の中で、黒い軍装に身を包んだ男が自分を見下ろしている。
冷たい銀色の瞳。
見知らぬ軍服。
胸元に刻まれた、敵国ノルディア帝国の紋章。
逃げなければと思った。
けれど、指一本動かせなかった。
「わたし、は……」
自分の名前を言おうとした。
何度も書き、何度も呼ばれてきたはずの名前。
それが、どこにもなかった。
「……誰……?」
男の顔がわずかに近づく。
恐ろしいほど冷静な目だった。
けれど、次に聞こえた声は、私を置き去りにするものではなかった。
「生きている。帝国へ運べ」




