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功績も婚約者も妹に奪われた伯爵令嬢は、記憶を失った先で冷酷皇太子に溺愛される  作者: EMo


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2/11

第2話 崖下で拾われた伯爵令嬢


 夜が明けきらないうちに、私は伯爵家を出された。


 旅支度のために与えられたのは、昨夜のうちに用意された小さな鞄一つだけだった。着替えが二組と、薄い外套。それ以外に何を持っていくか尋ねられることもなかった。


 長年使ってきた机にも、書きかけの交易改善案にも、触れることは許されなかった。


「北部は冷えるそうです。どうか、お身体を大切に」


 玄関まで見送りに来た侍女が、私の手を握った。


「あなたは一緒に来ないの?」


 思わず尋ねると、侍女は困ったように視線を伏せた。


「奥様から、別邸には必要な者が揃っていると……」


 私の世話をする者まで、すでに決められているらしい。


 玄関前には、飾り気のない黒い馬車が停まっていた。伯爵家の紋章は扉に刻まれているものの、普段使っている馬車とは違う。


 御者台に座っている男にも、見覚えがなかった。


「いつもの御者はどうしたのですか」


「体調を崩したと聞いております」


 男は帽子を深くかぶったまま答えた。


 声が低く、こちらを見ようともしない。


 胸の奥に小さな引っかかりを覚えたが、何がおかしいのかまでは分からなかった。


 屋敷の窓を見上げる。


 父の部屋にも、リリアの部屋にも、人影はなかった。


 セドリック様も、私を見送りには来なかった。


 当然だと思う一方で、六年間という時間は、別れの言葉一つにさえ値しなかったのかと考えてしまう。


「お嬢様、お時間です」


 従僕に促され、私は馬車へ乗った。


 扉が閉まる。


 すぐに鞭の音がして、馬車が動き始めた。


 住み慣れた屋敷が、窓の向こうへ遠ざかっていく。


 昨日まで、私はここで結婚の日を迎えるはずだった。


 いずれセドリック様の妻となり、彼を支えながら、父の領地にも力を尽くすのだと思っていた。


 けれど今、私に残されたのは、行ったこともない北部の別邸と、着替えの入った小さな鞄だけだ。


 それでも頭に浮かぶのは、青い表紙の文書だった。


 最後の数字は直してもらえるだろうか。


 古い記録を使えば、実際に運べる穀物の量と食い違ってしまう。


 セドリック様なら、私の書き残した注記を見つけてくださるかもしれない。


 そこまで考え、私は膝の上で手を握った。


 婚約を解消した人が、約束どおり私の仕事を扱ってくれると、なぜまだ信じようとしているのだろう。


 答えは見つからなかった。


 馬車は北へ進み続けた。


 街を抜け、なだらかな田園地帯を過ぎると、道は次第に狭くなった。窓の外には深い森が広がり、人家も見えなくなっていく。


 昼を過ぎた頃、馬車が大きく揺れた。


 私は座席の端をつかみ、窓から外を見た。


 いつの間にか、道の片側が切り立った斜面になっている。眼下には岩と木々が連なり、その先を細い川が流れていた。


 北部の別邸へ行く道としては、おかしい。


 以前訪れた記憶はおぼろげだが、街道沿いにはいくつか宿場があったはずだ。


 私は前方の小窓を開けた。


「この道で合っているのですか」


「街道で崩落があったそうです」


 御者は振り返らずに答えた。


「別の道を通ります」


「いつ崩落したのですか」


 返事はなかった。


「御者。止まりなさい」


 今度は少し強く言った。


 すると馬車の速度が緩み、やがて道の端で停まった。


「車輪を見てまいります」


 御者が降りる音がした。


 私は窓に顔を寄せた。男は後輪のそばへ回り、身をかがめている。


 やがて立ち上がると、周囲を見回した。


 その手には、馬車の部品らしき短い金具が握られていた。


「何をしているのですか」


 私が扉へ手をかけた瞬間、男は金具を斜面へ放り投げた。


 息をのむ間もなく、激しい鞭の音が響いた。


 馬が甲高くいななき、馬車が前へ飛び出した。


「止めて!」


 御者台には誰もいない。


 男は道の上に立ったまま、走り去る馬車を見送っていた。


 私は扉を開けようとしたが、外側から固定されているのか、取っ手は動かなかった。


 馬車は坂道を下りながら、急速に速度を増していく。


 車輪が石を踏むたびに車体が跳ね、肩と背中が壁へ叩きつけられた。鞄が床へ落ち、中身が散らばる。


「誰か……!」


 叫んでも、人のいない森に声が吸い込まれていく。


 馬を止める者はいない。


 進行方向には急な曲がり道があり、その向こうは崖だった。


 事故ではない。


 初めから、私は別邸へ送られるのではなかった。


 昨日の継母の微笑が脳裏に浮かぶ。


 婚約者を妹に奪われ、心を病んだ令嬢。


 人目を避けるため北部へ送られ、その途中で不幸な事故に遭った。


 そのように語れば、誰も疑わないだろう。


 父は、それを知っていたのだろうか。


 セドリック様は――。


 激しい衝撃に、身体が宙へ浮いた。


 片方の車輪が外れ、窓の向こうを転がっていくのが見えた。


 馬車が大きく傾く。


 馬の悲鳴。木の裂ける音。身体が何度も壁へ打ちつけられ、どちらが上なのかも分からなくなる。


 最後に見えたのは、空だった。


 雲一つない、冷たいほど青い空。


 私はまだ、自分が書いたものを自分のものだと、一度も言えなかった。


 そんな思いが胸をよぎった直後、馬車は崖下へ落ちた。


     ◇


「殿下、止まってください」


 先頭を進んでいた情報官オスカーの声に、レオンハルトは馬の手綱を引いた。


 極秘の国境視察を終え、帝都へ戻る途中だった。


 街道を避けて森を抜けていた一行の前に、折れた枝と新しい轍が残されている。


 轍は道を外れ、崖へ向かっていた。


 レオンハルトは馬から降りた。


「下に何かあります」


 護衛の一人が指さす。


 木々の間に、砕けた馬車の黒い車体が見えた。近くには、投げ出された馬が横たわっている。


「事故でしょうか」


「事故なら、御者も一緒に落ちている」


 レオンハルトは短く答え、斜面を下りた。


 馬車の扉には、アルヴェール王国の伯爵家を示す紋章が刻まれている。


 オスカーが険しい顔をした。


「敵国の馬車です。罠の可能性があります」


「罠にしては、壊しすぎだ」


 レオンハルトは地面に散らばった破片へ目を向けた。


 外れた車輪を留めるはずの金具がない。崖へ落ちる前に抜かれたのだろう。


 事故に見せかけた処分。


 そう判断するのに時間はかからなかった。


 壊れた車体の奥に、淡い色のドレスが見えた。


 若い女が横たわっている。


 額から血を流し、目を閉じていた。片腕は不自然な向きに投げ出され、泥に汚れた指先だけがわずかに動いた。


 レオンハルトは膝をつき、女の口元へ手を近づけた。


「殿下、触れてはなりません」


「黙れ」


 呼吸は、かすかに残っていた。


 その声が届いたのか、女のまぶたが震えた。


 ぼやけた視界の中で、黒い軍装に身を包んだ男が自分を見下ろしている。


 冷たい銀色の瞳。


 見知らぬ軍服。


 胸元に刻まれた、敵国ノルディア帝国の紋章。


 逃げなければと思った。


 けれど、指一本動かせなかった。


「わたし、は……」


 自分の名前を言おうとした。


 何度も書き、何度も呼ばれてきたはずの名前。


 それが、どこにもなかった。


「……誰……?」


 男の顔がわずかに近づく。


 恐ろしいほど冷静な目だった。


 けれど、次に聞こえた声は、私を置き去りにするものではなかった。


「生きている。帝国へ運べ」

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