第1話 妹が、婚約者の子を宿しました
「リリアが、セドリック様のお子を身ごもりました」
継母の口から告げられた言葉を、私はすぐには理解できなかった。
伯爵家の応接室には、婚礼衣装に使う布地の見本が広げられている。真珠色の絹に、銀糸で蔦模様を刺繡したもの。今日は、この中から私の婚礼衣装を選ぶはずだった。
けれど、向かいの長椅子に並んで座っているのは、婚約者のセドリック様と、異母妹のリリアだった。
リリアは青ざめた顔でうつむき、両手を腹の前で重ねている。
「……セドリック様の、お子なのですか」
ようやく出た声は、自分のものとは思えないほど静かだった。
セドリック様は私を見なかった。
「すまない」
それだけだった。
十六歳で婚約してから六年。彼の声を、これほど遠く感じたことはない。
「いつからですか」
「それを聞いて、どうする」
セドリック様が眉を寄せた。
まるで責められたのは彼ではなく、私の質問のほうが無作法であるかのようだった。
「婚礼の日取りを決める席だと伺っておりました。事情を尋ねるくらいは、許されると思ったのです」
「もうよいでしょう、エレノア」
継母のベアトリスが、場をなだめるように微笑んだ。
慈善会の婦人たちから、慈愛に満ちた方だと称賛される笑顔だった。
「起きてしまったことを責めても、誰も幸せにはなれません。リリアはまだ十九歳なのですよ。それに、生まれてくる子には何の罪もありません」
「私は、子どもを責めてはいません」
「では、姉として祝福してあげられるわね?」
答えられずにいると、リリアが顔を上げた。
「お姉様、ごめんなさい。私も、こんなことになるとは思わなくて……」
大きな瞳には涙が浮かんでいる。それでもリリアは、セドリック様の隣を離れようとはしなかった。
淡い金色の髪の間で、青い石の耳飾りが揺れた。
見覚えのある品だった。
半年前、南部の視察から帰ったセドリック様は、美しい耳飾りを見つけたと話していた。私に渡そうと思ったが、機会を逃してしまったのだと。
渡す機会がなかったのではない。
渡す相手が、私ではなかったのだ。
「リリアと結婚なさるのですか」
尋ねると、セドリック様はようやく私を見た。
「子どもが生まれる以上、責任を取らなければならない」
「では、私との婚約は……」
「解消する」
答えに迷いはなかった。
胸の奥で、細い糸が切れたような気がした。
それでも涙は出なかった。
ここで泣けば、継母は私を慰めるだろう。父は困ったように目を伏せ、セドリック様は罪悪感に耐えるような顔をする。
そしていつの間にか、取り乱した私を皆でなだめる話に変わってしまう。
私は膝の上で両手を組んだ。指先が冷たくなっていた。
「婚約の解消については、承知いたしました」
口にした途端、リリアの肩から力が抜けた。
その様子を見ないように顔をそらしたとき、卓上に置かれた青い表紙の文書が目に入った。
「それを、明日の評議会へ提出なさるのですか」
セドリック様の手が、文書を隠すように動いた。
「ああ。その予定だ」
北部の交易改善案。
領地ごとの収穫量を調べ、冬に不足する穀物をどこから運ぶかをまとめたものだ。隣国ノルディア帝国の交易記録も読み直し、半年をかけて書き上げた。
私が昨夜、セドリック様へ渡したばかりの文書だった。
彼が王宮で評価されてきた提案の多くも、私が下書きをしたものだ。
結婚すれば、私が支えてきたことを必ず公にする。
そう約束してくれたから、信じて待っていた。
「提出者のお名前は、どなたになるのでしょう」
尋ねたあとで、自分でもおかしな質問だと思った。
これまでと同じなら、彼の名で出されるに決まっている。
「当然、私の名で提出する」
「ですが、私たちはもう結婚しないのでしょう?」
セドリック様は煩わしそうに息を吐いた。
「婚約が解消されても、君がこれまでヴァレイン侯爵家のために働いてきた事実は変わらない」
「けれど、あれを書いたのは……」
私です。
その言葉が、喉の奥で止まった。
「今になって手を引かれては困る。交易の話が止まれば、苦しむのは領民だ。君もそれを望んではいないだろう」
返す言葉が見つからなかった。
領民が困ると言われれば、見捨てることはできない。
父が病に伏してから、私は伯爵領の仕事を止めないことだけを考えてきた。
誰かがしなければならないことなら、自分がすればよい。
家族や婚約者の役に立てるなら、それでよい。
ずっと、そう思ってきた。
けれど、もう結婚することのない男性の名で、私の仕事が世に出る。
その事実を受け入れようとすると、胸の奥に鈍い痛みが広がった。
「エレノア」
奥から父の声がした。
長椅子に深く身を沈めた父は、疲れたように額を押さえている。
「今は家同士で争っている場合ではない。交易案が通れば、領民も助かるのだろう?」
「はい。ですが……」
「ならば、セドリック殿へ任せなさい」
「お父様は、あの文書をお読みになりましたか」
思わず尋ねると、父は目をそらした。
「細かなことは、私には分からない。ベアトリスに任せてある」
いつもの言葉だった。
父が病に倒れてから、家のことは継母に任されている。私は、父をこれ以上疲れさせてはいけないと思ってきた。
けれど今、初めて小さな疑問が生まれた。
父は本当に知らなかったのだろうか。
私が夜遅くまで仕事をしていたことも、セドリック様へ何度も文書を渡していたことも。
知らなかったのではなく、知ろうとしなかったのではないだろうか。
「交易案はこちらで預かります」
継母が青い文書を手に取った。
「お義母様。まだ、すべての確認が終わっておりません」
「あなたは混乱しているのです。婚約者を妹に奪われたばかりなのですから、無理もありません」
「私は、続きを仕上げられます」
口にしたのは、それだけだった。
こんなときまで仕事を続けられると訴えている自分がおかしいことにも、まだ気づけなかった。
「だから心配なのよ」
継母は優しく言い、呼び鈴を鳴らした。
扉の外で待っていたらしい二人の従僕が、すぐに入ってくる。
「しばらく休みなさい。社交界には、婚礼を前に体調を崩したと説明しておきます」
「その必要はありません。私は病気では――」
「リリアも出産を控えています。あなたが同じ屋敷にいては、心を休めることができないでしょう」
リリアがセドリック様の袖を握った。
追い出されるのは、私なのだ。
婚約を破られた私が。
「どちらへ行けとおっしゃるのですか」
「北部に、長く使っていない別邸があります。人目もなく、静かに過ごせるでしょう」
「北部の別邸……」
国境に近く、冬の訪れも早い土地だ。幼い頃に一度訪れたきりで、今も人が住める状態なのかさえ分からない。
私は父を見た。
助けを求めたかったのではない。
ただ、父が私を見てくれるのか確かめたかった。
父は目を伏せたままだった。
セドリック様は、私が書いた青い文書を取り戻そうともせず、リリアの手に自分の手を重ねている。
あの部屋に、私の居場所はもうなかった。
それでも最後に頭に浮かんだのは、失った婚約のことではない。
書きかけの交易案と、冬を越せるだけの穀物が届くのを待っている人々のことだった。
「出発は、いつですか」
私の問いに、継母は安堵したように微笑んだ。
「明朝、北部の別邸へ発ちなさい」




