第6話 仕事には、名が必要だ
馬車の事故から、六日が過ぎた。
額の傷は塞がり、熱も下がった。深く息を吸うと胸にはまだ痛みが残るが、支えがあれば一人で起き上がれるようになった。
左腕の固定は外せない。
それでも、寝台から窓辺の椅子まで歩く許可が、ようやくユリウス先生から下りた。
「仕事をしてよいとは言っていませんよ」
診察を終えたユリウス先生は、念を押すように言った。
「座ってもよいと申し上げただけです」
「座ったままできる仕事なら、問題ないのではありませんか」
「そう言うと思いました」
先生は困ったように笑い、包帯を巻き直した。
傍らでは、ミラ様が厳しい顔をしている。
「エレン。昨日も、配膳された食事の数が合わないと女官を呼び止めたそうですね」
「一人分多かったので、お伝えしただけです」
「その前は、洗濯物を運ぶ順番を変えれば往復を減らせると」
「皆さんが忙しそうでしたから」
「休むように言われた人が、なぜ離宮の仕事を観察しているのです」
答えに詰まった。
何もせずに過ごしていると、落ち着かないのだ。
誰かが困っていることに気づけば、手を出したくなる。頼まれてもいないのに、どうすれば早く終わるか考えてしまう。
それが以前からの癖なのかは分からない。
「このままでは、寝台ごと窓のない部屋へ移しますよ」
「それは困ります」
「ならば、今日はおとなしくしていてください」
ミラ様が言い終わるのと同時に、扉が叩かれた。
「レオンハルト殿下がお見えです」
女官の声に、私は姿勢を正した。
「動くなと言われたことを、もう忘れたのですか」
ミラ様に肩を押さえられ、そのまま椅子へ座り直す。
扉が開き、レオンハルト殿下とオスカー様が入ってきた。
殿下の手には、数枚の書類がある。
「具合はどうだ」
「もう問題ありません」
「患者の言葉は信用するなと、ユリウスから聞いている」
短く返され、私は黙った。
どうやら先回りされていたらしい。
「熱は下がりました。ただし、長時間の作業はまだ許可できません」
ユリウス先生が答える。
「一日に一刻までです。それ以上は休ませてください」
「分かった」
殿下は窓辺の小卓に書類を置いた。
「エレン。仕事をしたいと言ったな」
「はい」
「その申し出を受ける」
思わず殿下の顔を見上げた。
「本当ですか」
「ああ。ただし、好き勝手に離宮の書類を触ることは許可しない」
「もちろんです」
「私が指定した文書だけを扱え。閲覧した内容を外部へ漏らすな。疑問があれば、勝手に判断せず確認しろ」
冷静な声で、条件が一つずつ告げられる。
助けてもらったうえに仕事まで与えられるのなら、どのような条件でも受け入れるつもりだった。
「承知いたしました」
「まだ話は終わっていない」
殿下は書類の一枚を私の前へ置いた。
上部には「臨時文書係雇用契約」と書かれていた。
仕事内容、作業時間、扱える文書の範囲。さらに、週ごとに支払われる賃金まで記されている。
「賃金……?」
「読めないのか」
「いいえ。読めます。ですが、必要ありません」
答えると、殿下の眉がわずかに寄った。
「なぜだ」
「命を助けていただき、治療も受けています。衣服や食事まで用意していただいているのですから、そのお返しとして働かせていただければ十分です」
「それでは雇用ではない」
「でも、私は身元も分からず、こちらへご迷惑を――」
「エレン」
名を呼ばれ、言葉が止まった。
「働いた者が報酬を受け取るのは当然だ」
殿下は、私が断ることなど考えていなかったように言った。
「衣食と治療は、保護している者に対する帝国の負担だ。仕事への報酬とは別に扱う」
「ですが、この金額は多すぎます」
「先日の指摘で、離宮が不要な物資を買い入れずに済んだ。その能力を基準に決めた」
「一度、数字の間違いに気づいただけです」
「ならば、同じ働きができなければ契約を見直す」
慰める言葉はなかった。
私を哀れんで高い賃金を与えるつもりもないらしい。
働きに見合えば支払い、見合わなければ改める。ただそれだけのこととして扱われている。
「受け取らないという選択はありますか」
「ない」
即答だった。
オスカー様が、わずかに口元を緩めた。
「殿下に無償で働かせたという噂が立てば、帝国の評判に関わります。諦めて受け取ることですね」
私はもう一度、契約書へ目を落とした。
「この、作業時間を超えた場合は、翌日の仕事を減らすという項目は……」
「女官長が入れました」
ミラ様が答えた。
「あなたは止めなければ、いつまでも働きそうですから」
「一刻では、途中になるかもしれません」
「途中でやめろ」
殿下が言った。
「終わらなければ、翌日に続ければいい」
「急ぎの文書でもですか」
「急ぎなら、別の者にも割り振る」
「私が始めた仕事を、ほかの方へ渡すのですか」
「一人にしか分からない仕事を作るな。それは能力ではなく、危険だ」
胸の奥に、何かが引っかかった。
一人にしか分からない仕事。
なぜか、その言葉が自分へ深く刺さる。
これまで私は、誰にも頼らずに多くのことを抱えていたのだろうか。
そう考えたが、記憶の霧は晴れなかった。
「質問はほかにあるか」
「契約書の最後に、署名が必要なのですね」
「そうだ」
右手で筆を取った。
署名欄を前にして、手が止まる。
本当の名前は分からない。
今の私にあるのは、この離宮で与えられた仮の名だけだった。
「エレンでよいのですか」
「今のお前の名は、それだ」
殿下の声に迷いはなかった。
「記憶が戻れば、改めて本名で契約を結び直す」
私は署名欄へ、ゆっくりと「エレン」と書いた。
初めて書くはずの名なのに、文字は不思議なほど滑らかに並んだ。
殿下は署名を確認すると、もう一枚の書類を差し出した。
「こちらにも同じ名を書け」
「二通作るのですか」
「一通は離宮で保管する。もう一通はお前のものだ」
「私が持つのですか」
「契約の内容を、雇う側だけが持っていてどうする」
その言葉に、私は返事ができなかった。
仕事の条件を記した書類を、自分が持つ。
それが当然のことだと、考えたこともなかった気がする。
「この書類は、私のものなのですね」
「そう言っている」
殿下は少しだけ不機嫌そうに答えた。
「何度も同じことを言わせるな」
「申し訳ありません」
「謝る必要もない」
謝罪を止められ、また言葉を失った。
殿下は残る書類を小卓へ並べた。
「最初の仕事だ。北部の三つの村から、冬季の備蓄について要望が届いている。内容を整理し、どれを優先すべきか意見を書け」
「私が決めてよいのですか」
「決定するのは私だ。お前には、判断に必要な情報をまとめてもらう」
「承知いたしました」
「作業は明日からだ」
「今からではなく?」
「今から始めれば、女官長に私まで追い出される」
殿下がミラ様へ視線を向ける。
「当然です」
ミラ様は平然と答えた。
ほんの一瞬だけ、殿下の口元が緩んだように見えた。
けれど、確かめる前にいつもの無表情へ戻っていた。
「明日、一刻だけだ。それ以上は許可しない」
「はい」
殿下は踵を返しかけ、ふと足を止めた。
「もう一つある」
小卓に置かれた文書の表紙を指す。
そこには、担当者の名を記すための空欄があった。
「お前が作成した文書には、必ず自分の名を書け」
「殿下のお名前ではなく、私の名を?」
「なぜ、私の名を書く」
「採用されれば、殿下のご判断になるからです」
「決定した者と、案を作った者は別だ」
殿下は当然のことのように言った。
「誰が考えたのかを隠せば、内容について問う相手を間違える。仕事には、名が必要だ」
胸の奥が、わずかに揺れた。
理由は分からない。
ただ、その言葉をずっと待っていたような気がした。
殿下が出ていったあと、私は契約書に記された仮の名を見つめた。
エレン。
本当の名前ではないかもしれない。
それでも明日から、私がした仕事は、この名で残る。




