第二章・十九 「息を潜めて」
ゴリッ。
ゴリッ。
骨を砕くような音が森の奥から響く。
誰も動かなかった。
いや。
動けなかった。
音は近い。
思っていた以上に近い。
ユウマは息を殺す。
短剣の柄を握る手に力が入る。
周囲も同じだった。
護衛達は武器を構えている。
旅人達は青ざめている。
荷馬車を引く馬達でさえ落ち着かない。
鼻を鳴らし。
何度も足を動かしていた。
動物の方が危険を察知しているのかもしれない。
その時だった。
アイリスが片手を上げる。
静かに。
ゆっくりと。
そして口元へ指を当てた。
喋るな。
その合図だった。
全員が息を呑む。
森は静かだった。
風も弱い。
葉の擦れる音だけが聞こえる。
ゴリッ。
また音がする。
少し位置が変わった。
ユウマは耳を澄ませ、目を細めた。
木々の揺れ。
風向き。
血の臭い。
枝の折れる音。
少しでも情報を集めようとする。
その瞬間。
視界の端へ微かな補助表示が浮かんだ。
【スキル補助:《看破》】
だが表示はすぐに揺らぐ。
【魔素濃度不安定】
【補助中断】
表示は霧のように消えた。
上手く作動しない。
危険地帯へ入る前にアイリスから聞いていた。
《ヴェルグ樹海》では漂う魔素霧の影響で、スキル補助や魔法が不安定になることがあると。
だから自分の感覚だけを頼る。
どこだ。
何がいる。
どれくらい離れている。
その時。
風向きが変わった。
血の臭いが強くなる。
獣臭も混じる。
そして。
微かに見えた。
木々の隙間。
少し先。
倒木の向こう側。
巨大な何かが動いている。
黒い。
毛並みだろうか。
いや。
よく見えない。
木々が邪魔をする。
高低差もある。
ただ。
大きい。
それだけは分かった。
「……」
ユウマは喉を鳴らした。
見つからないでくれ。
そう願う。
その時だった。
近くにいた旅人の一人が足を滑らせた。
ガッ。
小石が転がる。
小さな音。
本当に小さな音だった。
だが。
森の奥から響いていた咀嚼音が止まる。
全員の背筋が凍る。
音が消えた。
それが逆に怖い。
何秒だったのか。
一秒かもしれない。
十秒だったかもしれない。
妙に長く感じた。
そして。
木々の向こうで何かが立ち上がる。
大きい。
さっきより大きく見える。
いや。
違う。
立ち上がったからだ。
四足だったものが身体を起こした。
その瞬間。
ユウマは見た。
赤い眼。
獣の眼ではない。
捕食者の眼だった。
ぞわりと全身が粟立つ。
しかし。
その存在はこちらを見なかった。
風下だった。
運が良かった。
巨体は再び別方向を向く。
そして。
ズシン。
ズシン。
ゆっくりと歩き始める。
木々が揺れる。
枝が折れる。
だが。
こちらへは来ない。
森のさらに奥へ消えていく。
誰も声を出さない。
完全に気配が消えるまで。
ただ待つ。
やがて。
アイリスが小さく息を吐いた。
「……行ったわ」
その瞬間。
周囲の緊張が一気に解ける。
旅人の何人かはその場へ座り込んだ。
「寿命縮んだ……」
ケイが真顔で言う。
今まで見た事がないくらい真面目な顔だった。
ユウマも同じ気持ちだった。
戦っていない。
傷も負っていない。
それなのに。
グラヴォルフ戦より疲れた気がする。
「何だったんだ……?」
護衛長が聞く。
アイリスは森の奥を見る。
「分からない」
珍しい返答だった。
全員が驚く。
「分からない?」
「見えなかったもの」
アイリスは腕を組む。
「ただ一つ分かる」
「何だ?」
護衛長が尋ねる。
「ここはもう普通の街道じゃない」
誰も否定しなかった。
それは全員が理解している。
レグナス周辺でもない。
セイル周辺でもない。
ヴェルグ樹海。
ここは魔物達の領域だった。
その時。
生存者の女性が乗る荷馬車から声が聞こえた。
「……黒毛の大喰らい」
全員が振り向く。
女性はまだ顔色が悪い。
それでも起き上がっていた。
「今の?」
アイリスが聞く。
女性は頷く。
「多分……」
そして震える声で続ける。
「私達を襲った奴じゃない」
空気が変わる。
ユウマ達は顔を見合わせた。
「違う?」
「ええ……」
女性は唇を噛む。
恐怖を思い出したようだった。
「私達を襲ったのは……もっと大きかった」
沈黙が落ちる。
ユウマは思わず森の奥を見る。
今のでも十分危険だった。
十分すぎるほど。
なのに。
まだ上がいる。
ヴェルグ樹海は。
まだほんの入口に過ぎなかった。




