第二章・十八 「危険地帯の洗礼」
獣の咆哮が森の奥から響く。
低い。
腹の底へ響くような音だった。
旅人達の顔色が変わる。
護衛達も武器へ手を掛けた。
だが。
アイリスは首を横に振る。
「まだ遠い」
「今のは縄張りの主張」
「こっちへ来ている訳じゃない」
その言葉に少しだけ空気が緩む。
しかし完全には戻らない。
ここは危険地帯。
休憩所までの街道とは違う。
全員がそれを理解していた。
隊列は自然と密集する。
荷馬車を中央。
護衛を外側。
旅人達はさらに内側。
昨日までより警戒が強くなっていた。
ユウマ達も荷馬車の近くを歩く。
木々が増えていく。
空は見える。
だが少しずつ狭くなる。
森が深くなっているのだ。
風も変わった。
湿っている。
草原とは違う匂い。
土と木と苔の匂いだった。
「なんか静かだな」
ケイが周囲を見回す。
「静か過ぎる」
ユウマも同意だった。
鳥が少ない。
虫も少ない。
森なのに妙だった。
その時。
アイリスが立ち止まる。
全員も止まる。
「どうした?」
護衛長が尋ねる。
アイリスは地面を見ていた。
しゃがむ。
土を触る。
そして顔をしかめた。
「昨日通った痕跡じゃない」
空気が変わる。
「何がいた?」
護衛長が低い声で聞く。
「複数」
アイリスは答える。
「しかも大型」
旅人達がざわつく。
護衛長が周囲を見る。
「どれくらい前だ?」
「数時間」
嫌な沈黙が落ちる。
つまり。
近い。
まだ近くにいる可能性がある。
その時だった。
先頭の護衛が手を上げた。
「止まれ!」
全員が足を止める。
前方。
街道脇。
そこに荷馬車があった。
いや。
正確には荷馬車だったもの。
木材は砕け。
車輪は潰れ。
積み荷は散乱している。
戦闘の跡だった。
しかも新しい。
「昨日か……」
護衛長が呟く。
誰も近付かない。
慎重に周囲を確認する。
ユウマも見る。
血痕。
折れた槍。
割れた盾。
戦った形跡が残っていた。
「盗賊?」
ミナが小さく聞く。
護衛長は首を横に振った。
「違う」
そして壊れた荷馬車の側面を指差した。
そこには巨大な爪痕が刻まれている。
人間には不可能な傷。
「魔物だ」
周囲が静まり返る。
護衛長は荷馬車を調べ始める。
しばらくして。
革袋を一つ拾い上げた。
「金貨が残ってる」
その一言で答えが出る。
盗賊ではない。
魔物だった。
金貨に興味はない。
つまり。
襲われた。
純粋に。
それだけだった。
ユウマの背筋に冷たいものが走る。
レグナス近郊ならこんな事はなかった。
セイル周辺でも稀だ。
だが。
ここでは違う。
街道の真ん中でさえ安全ではない。
危険地帯とはそういう場所だった。
その時だった。
「生存者だ!」
誰かが叫ぶ。
全員が振り向く。
荷馬車の残骸の奥。
倒木の陰。
そこに一人の人影がいた。
女性だった。
肩までの栗色の髪。
革鎧。
弓。
そして全身傷だらけ。
まだ若い。
二十代前半くらいだろうか。
意識はある。
だが限界だった。
ミナがすぐ駆け寄る。
「大丈夫!?」
女性はかすかに目を開く。
焦点が合わない。
それでも。
必死に何かを伝えようとしていた。
「……逃げて」
かすれた声。
「え?」
「逃げて……」
女性は震える手で森の奥を指差す。
その目には恐怖が浮かんでいた。
深い。
本物の恐怖。
「森に……いる……」
そして。
最後の力を振り絞るように言った。
「赤角の……ヴォルグが……」
その名前を聞いた瞬間。
アイリスの表情が変わった。
護衛長も。
周囲の護衛達も。
全員の顔色が変わる。
ユウマ達だけが分からない。
「知ってるの?」
ユウマが尋ねる。
アイリスは答えなかった。
代わりに森を見る。
そして。
今までで一番険しい声で言った。
「全員武器を抜いて」
その言葉と同時に。
森の奥から。
何かが木を倒す音が響いた。




