第二章・二十 「樹海の掟」
ヴェルグ樹海は静かだった。
静か過ぎた。
誰も大声を出さない。
荷馬車の車輪が軋む音。
馬の鼻息。
革鎧の擦れる音。
それらだけが森の中へ溶けていく。
先程の巨大な魔物との遭遇から一時間ほど。
隊列は慎重に進んでいた。
誰も気を抜いていない。
ユウマも同じだった。
森を見る。
左右を見る。
上を見る。
木の上から襲ってくる可能性もある。
地面の穴へ落ちる可能性もある。
何が起きてもおかしくない。
そんな空気があった。
「肩に力入り過ぎだぞ」
ケイが小声で言う。
「そうかな」
「そうだ」
ケイは笑った。
「まぁ俺もだけどな」
そう言いながら戦斧を握る手にはしっかり力が入っていた。
説得力はあまりない。
ミナが小さく笑う。
その時だった。
前方を歩いていたアイリスが立ち止まる。
今度は全員がすぐ反応した。
誰も喋らない。
アイリスは近くの木へ触れていた。
幹を見る。
根元を見る。
そして地面を確認する。
「……どうした?」
護衛長が尋ねる。
「古い爪痕」
アイリスが答える。
全員が近付く。
巨大樹の幹には深い傷が残っていた。
縦に三本。
まるで巨大な鉤爪で抉ったような傷。
かなり高い位置まで続いている。
「デカいな」
ケイが見上げる。
傷は人の身長より高い場所にまで届いていた。
「何の魔物だ?」
「分からない」
アイリスは首を振る。
「でも最近の傷じゃない」
少しだけ空気が緩む。
今そこにいる訳ではない。
それだけでも違う。
その時だった。
生存者の女性が乗る荷馬車から声がした。
「その傷……」
全員が振り向く。
女性はまだ顔色が悪い。
だが昨日よりは少し回復しているようだった。
「知ってるの?」
ミナが尋ねる。
女性は頷く。
「ヴェルグ樹海では有名」
一度息を整える。
「縄張り印」
聞き慣れない言葉だった。
「縄張り印?」
「魔物によって違う」
女性は続ける。
「爪で付けたり」
「角で削ったり」
「臭いを残したり」
「縄張りを示す印」
ユウマは改めて傷を見る。
ただの傷ではない。
意味がある。
そう思うと見え方が変わる。
「つまりここは誰かの縄張りって事か」
ケイが嫌そうに言う。
「そういう事」
女性は頷いた。
そして少し苦笑した。
「ヴェルグ樹海では人間の街道なんて関係ない」
「ここは魔物達の土地」
その言葉は妙に印象に残った。
確かにそうだ。
人間から見れば街道。
だが魔物から見れば違う。
勝手に横切っているだけなのだ。
その時だった。
ユウマは違和感を覚えた。
風。
ほんの僅か。
何かが変わった気がした。
立ち止まる。
耳を澄ませる。
周囲を見る。
「ユウマ?」
ミナが首を傾げる。
「……待って」
小さく呟く。
何だ。
何かある。
見えない。
だが妙だった。
鳥の声がない。
風も止まった。
森が静か過ぎる。
その瞬間。
ガサッ。
右斜面の茂みが揺れた。
全員が武器を抜く。
護衛達も。
アイリスも。
ユウマも。
緊張が走る。
しかし。
飛び出してきたのは小さな魔物だった。
犬ほどの大きさ。
灰色の毛。
細長い身体。
鋭い牙。
「なんだ?」
ケイが眉をひそめる。
弱そうだった。
だが。
アイリスは弓を構えたまま下ろさない。
「違う」
静かな声。
そして。
その魔物もこちらを見ていなかった。
後ろを見ている。
怯えたように。
震えながら。
次の瞬間。
魔物は全力で走り出した。
ユウマ達とは逆方向へ。
必死に。
逃げるように。
「……逃げてる?」
ミナが呟く。
その瞬間だった。
森の奥。
さらに深い場所から。
複数の咆哮が同時に響いた。
一つではない。
二つでもない。
五つ。
六つ。
それ以上。
空気が震える。
逃げた小型魔物はさらに速度を上げた。
そして。
アイリスの顔色が変わる。
「全員急いで!」
今までで一番強い声だった。
「群れの狩りが始まる!」
その言葉と同時に。
樹海の奥で木々が激しく揺れ始めた。




