第一章・五 「外周水路」
外周桟橋は、
中心街とはまるで空気が違っていた。
少し前まで背中に纏わりついていた喧騒が、
ここでは波音に溶けている。
石畳の広場。
低い倉庫群。
縄で固定された小型船。
海面へ伸びる木製桟橋。
魔導灯の数は中心街より少なく、
青白い灯りがぽつぽつと水面へ落ちていた。
潮の匂いが濃い。
風も強かった。
髪が揺れる。
装備の裾がはためく。
遠くでは大型船の灯りがゆっくり動いている。
レグナスは港湾都市だ。
中心街だけを歩いていると、
観光地のように見える。
けれど外周へ来ると、
この街が本当に海と共に生きているのが分かる。
積み上げられた木箱。
網を直す老人。
ロープを肩へ担ぐ港湾労働者。
夜番らしい兵士が欠伸を噛み殺しながら巡回している。
どこかの倉庫から、
魚の匂いと油の匂いが混ざって漂ってきた。
「こっち側って、
あんまり来ないよな」
カナタが桟橋の先を覗き込みながら言った。
「イベントの時くらい?」
ミコトが答える。
「普段はクエストでもないと来ないかも」
「勿体ないな」
ガイは海を見ている。
「この辺の夜景、
結構いいぞ」
「ほんとに景色目的なんだな……」
「大事だろ」
真顔で返すガイに、
ミコトが小さく笑った。
ユウマはその会話を聞きながら、
桟橋の端へ視線を向けた。
先ほど声を掛けてきた港職員の女性が、
小型船の準備をしている。
名前はリアナと表示されていた。
正確には、
頭上に名前が浮いているわけではない。
Astral Ringでは、
プレイヤー名や住民名が常時表示されることはない。
視線を向け、
認識補助を意識した時だけ、
視界端へ薄く名前が浮かび上がる。
それも強制的な表示ではなく、
現実で誰かの顔を見て名前を思い出すような感覚に近い。
だからこそ、
この世界は余計に現実味があった。
頭上に名前が常時浮かんでいたら、
きっともっとゲームらしく見えただろう。
「準備出来ました」
リアナがこちらを振り返る。
小型船は四、五人乗れば少し狭く感じるくらいのサイズだった。
船体には魔鉱石製らしい細い回路が埋め込まれていて、
船尾には小型の魔導推進器が付いている。
船の縁には古い傷がいくつもあった。
観光用ではなく、
本当に港の仕事で使われている船なのだろう。
「外周水路の第三区画です」
リアナは小さな地図を広げる。
羊皮紙のような質感だが、
端には薄い光の線が走っている。
魔法とシステムが混ざったような、
Astral Ringらしい道具だった。
「この辺りで運搬船が止まっています。
積荷は祭り用の灯火石と、店へ運ぶ食材です」
「灯火石?」
カナタが首を傾げる。
「魔導灯の補助に使う石です」
リアナが説明する。
「今夜は祭りで灯りを多く使うので、
予備を運んでいたんですが……」
「シェイドクラブに襲われた?」
「はい。
船員は避難済みです。
怪我人はいません」
そこまで聞いて、
ユウマは少し安心した。
誰かを救助する依頼ではない。
荷物回収と水路の安全確保。
低ランク依頼としてはちょうどいい。
だが。
リアナの表情には、
まだ不安が残っていた。
「ただ、
数が多いようで……」
「シェイドクラブって、
そんなに強くはないよな?」
カナタが言う。
「単体ならな」
ガイが短く返す。
「足場が船の上だと面倒だぞ」
「あー、
水場補正か」
ミコトが頷いた。
シェイドクラブは、
名前の通り影に紛れる水棲モンスターだ。
蟹に似た外殻を持ち、
夜の水辺では視認しづらい。
攻撃力は低いが、
鋏で足元を狙ってくる。
初心者が油断すると転倒し、
水中へ引きずり込まれることもある。
ゲームなら笑い話で済む。
だが、
あの不意打ちの気持ち悪さは、
ユウマもよく覚えていた。
「ユウマ、
どうする?」
カナタが聞く。
「先に船で近付いて、
数見てからでいいと思う」
「慎重だな」
「水場で雑に突っ込むと面倒だから」
「それはそう」
ミコトが素直に頷く。
ユウマは戦闘が嫌いではない。
だが、
無駄に危ないことをするのは好きじゃない。
特に足場が悪い場所では、
思った以上に事故が起きる。
高ランクプレイヤーでも、
地形で崩れることはある。
Astral Ringは、
単純なステータスだけで勝てるゲームではない。
「では、
お願いします」
リアナが深く頭を下げる。
その仕草が、
また妙に自然だった。
依頼を発注する住民。
受ける冒険者。
その関係が、
ただのシステムではなく、
この街の生活の一部として存在している。
ユウマは桟橋から小型船へ足を下ろした。
船が小さく揺れる。
「おっと」
カナタが少しバランスを崩す。
「だっさ」
「今のは船が悪い」
「船のせいにした」
「絶対した」
ミコトとユウマが同時に言い、
カナタがわざとらしく肩を落とす。
ガイは最後に乗り込み、
船尾の魔導推進器を興味深そうに見ていた。
「これ、
旧型だな」
「分かるの?」
ミコトが聞く。
「推進器の魔鉱回路が古い。
最近のやつはもっと細い」
「なんで知ってんだよ」
「前に船買おうとした」
「何してんの?」
カナタが呆れる。
ガイは平然としていた。
「海路探索用に欲しかった」
「買えたの?」
「金が足りなかった」
「だろうな」
小さな笑いが船上に広がる。
リアナが桟橋からロープを外した。
「第三区画までは水路沿いに進めばすぐです。
私はここで待機しています。
どうか気を付けて」
「任せてください」
カナタが軽く手を振る。
小型船がゆっくり動き出した。
魔導推進器が低く唸る。
水面が静かに割れ、
船は外周水路へ滑り出していく。
中心街の灯りが、
少しずつ背後へ遠ざかる。
それに合わせて、
祭りの音も薄くなっていった。
太鼓。
笛。
人々の笑い声。
遠くの花火。
全部が波音の向こう側へ滲んでいく。
代わりに、
夜の海の匂いが濃くなった。
冷たい風。
軋む船板。
水面を叩く小さな波。
ユウマは船の縁へ手を置き、
水路の先を見る。
レグナスの外周水路は、
都市を囲うように作られている。
片側には石造りの護岸。
もう片側には暗い海。
護岸の上には倉庫が並び、
所々に古い階段が水面まで伸びていた。
魔導灯の光が届かない場所は、
黒い穴みたいに見える。
「いいな」
ガイが呟いた。
「何が?」
「こういうとこ」
「説明不足すぎ」
ミコトが笑う。
「街の中心じゃなくて、
端っこって感じがするだろ」
ガイは海を見たまま言う。
「こういう場所に、
知らない入口とかあるんだよ」
「あー、
また探索者脳」
カナタが苦笑する。
だがユウマは少し分かる気がした。
華やかな広場やイベント会場もいい。
けれど、
こういう人気の少ない水路には、
別の魅力がある。
誰も気付いていない何かが、
ひっそり隠れていそうな気配。
まだマップに載っていない扉。
古い地下水路。
忘れられた祠。
Astral Ringには、
そういうものが本当にある。
そして時々、
誰かが見つける。
攻略サイトが騒ぎ、
プレイヤー達が集まり、
やがて新しい物語になる。
その繰り返しで、
この世界は広がってきた。
「……昔さ」
カナタがふと思い出したように言う。
「初めてレグナス来た時、
俺ら迷子にならなかった?」
「なった」
ユウマは即答した。
「中央広場から宿に戻れなくなったやつ」
「あれミコトが地図読めなかったからだろ」
「違う。
カナタが変な路地入った」
「俺?」
「俺も覚えてる」
ガイが言う。
「魚市場の裏に出た」
「あー……」
カナタが気まずそうに笑った。
「あったな」
ミコトがじとっと睨む。
「あの時、
三十分くらい魚の匂い取れなかったんだから」
「ゲーム内なのに?」
「気分の問題」
そんな何でもない会話が、
妙に心地よかった。
夜の水路。
小さな船。
遠ざかる祭り。
友人達の声。
こういう時間があるから、
ユウマはAstral Ringをやめられないのだと思う。
ふと、
視界端に小さな通知が浮かぶ。
【簡易依頼:外周水路の荷物回収】
【推奨人数:三〜五名】
【推奨ランク:低〜中】
いかにも普通の依頼だ。
だが、
その普通さが少し楽しかった。
世界を救うような大冒険ではない。
派手なレイドでもない。
誰かの荷物を取り戻すだけ。
けれど、
この街で暮らす人にとっては必要なことだ。
そう思うと、
小さな依頼でも少し意味が変わって見える。
「見えてきたぞ」
ガイが低く言った。
水路の先。
暗がりの中に、
一隻の小型運搬船が停まっていた。
船体が斜めになっている。
灯りは半分消えていた。
積荷らしい木箱が、
甲板にいくつも置かれている。
その周囲で、
黒い影が動いた。
「いたな」
カナタが剣へ手を伸ばす。
水面近く。
護岸の影。
小さな赤い光が、
いくつも瞬いている。
シェイドクラブ。
夜の水辺に溶け込むような黒い甲殻。
鋏。
細い脚。
数は六。
いや、
奥にもいる。
「八……九?」
ミコトが細剣を抜く。
「意外と多いね」
「だから人手足りなかったのかもな」
ユウマも剣の柄へ手を掛けた。
片手剣。
《蒼刃アステル》。
まだ鞘から抜かない。
まずは見る。
水面。
足場。
敵の位置。
船の揺れ。
風。
シェイドクラブは弱い。
だが、
油断すると足を取られる。
特に船上戦では、
攻撃力より転倒が怖い。
「カナタ、
正面出過ぎないで」
「はいはい」
「ミコトは右の護岸側。
ガイは奥見て」
「了解」
「おう」
冗談混じりだった空気が、
少しだけ引き締まる。
小型船が運搬船へ近付く。
シェイドクラブ達が、
一斉にこちらを向いた。
カチカチと鋏が鳴る。
甲殻が月明かりを鈍く反射した。
ユウマはゆっくり息を吸う。
まだゲームだ。
まだ遊びの中だ。
そう分かっているのに、
戦闘前の緊張は本物だった。
その瞬間。
一体が水面を跳ねた。
「来る!」
黒い影が飛び上がる。
カナタが前へ出る。
剣が青白く光を帯びた。
金属音。
水飛沫。
夜の外周水路で、
小さな戦闘が始まった。




