5話、6話
「……結衣、どこ行ったんだよ」
放課後の教室に、一人きり。
机の上に残されたノート。
そこに書かれた「ごめんね」の文字が、頭から離れなかった。
(あんな顔、初めて見た……)
無理に笑って、突き放して。
でも最後に残したのは謝罪。
「……探すか」
気づけば、海里は走り出していた。
保健室、屋上、校庭——
思いつく場所を全部回る。
でも、どこにもいない。
「……くそ」
最後に思い浮かんだのは、あの商店街の近くの道だった。
昨日、結衣が足を止めた場所。
(あそこなら……)
息を切らしながら、そこに向かう。
夕方の空は、昨日と同じように赤く染まっていた。
そして——
「……結衣!」
道の端に、しゃがみ込むようにして座っている結衣の姿があった。
肩で息をしている。
明らかに様子がおかしい。
「大丈夫か!?」
駆け寄ると、結衣はゆっくり顔を上げた。
「……海里くん」
弱い声だった。
「なんで……来たの」
「そんなの、探したに決まってるだろ」
「……バカだね」
そう言って、少しだけ笑う。
でもその直後——
「っ……!」
苦しそうに胸を押さえ、体がぐらりと揺れた。
「結衣!?」
支えた腕の中で、体温がやけに熱い。
「……だめ、ちょっと……」
言葉にならない声。
そのまま、意識が遠のくように力が抜けた。
「おい、結衣!しっかりしろ!」
返事は、なかった。
——気づけば、海里は必死に走っていた。
結衣を背負って。
「大丈夫だ……大丈夫だから……!」
誰に言っているのかもわからないまま。
ただ、必死だった。
病院の白い廊下。
無機質な空間に、時計の音だけが響く。
海里は、壁に背を預けていた。
手は、まだ震えている。
(……なんなんだよ)
あんな風に倒れるなんて。
ただの疲れじゃないのは、もう明らかだった。
しばらくして。
診察室の扉が、静かに開いた。
「月見海里くん、でいいかな」
白衣の医者が、静かに声をかける。
「あ、はい」
「少し、話がある」
その一言で、胸がざわつく。
椅子に座ると、医者は一瞬だけ言葉を選ぶように沈黙した。
そして、ゆっくりと口を開く。
「白石さんのことなんだけど——」
空気が、重くなる。
「彼女は、以前から持病を抱えていてね」
「……持病?」
「心臓の病気だ」
頭が、真っ白になる。
「正式には、重度の心疾患。かなり進行している」
海里は、言葉を失った。
「……それって」
声が、うまく出ない。
「治るんですか」
その問いに、医者は少しだけ目を伏せた。
そして——
「……正直に言うと、かなり厳しい」
その一言が、すべてだった。
「今まで普通に生活できていたのが、不思議なくらいだ」
「……そんな」
「無理をすれば、命に関わる」
静かに告げられる現実。
逃げ場なんて、どこにもない。
(じゃあ、あいつは……)
昨日、笑っていた結衣。
「やりたいこと全部やろうよ」って言っていた結衣。
「後悔しないさよなら」って——
(最初から、分かってたのかよ……)
胸が、締めつけられる。
気づけば、海里は立ち上がっていた。
「……結衣は」
「今は安静にしている。意識は戻るはずだ」
「……会えますか」
「短時間なら」
病室の前。
ドアに手をかける。
でも、開ける勇気が出ない。
(……何て顔して会えばいいんだよ)
知らなかったとはいえ。
何も気づけなかった自分が、悔しかった。
それでも。
ゆっくりと、ドアを開ける。
白いベッドの上。
静かに眠る結衣の姿。
あまりにも、弱々しくて。
昨日までの笑顔が、嘘みたいだった。
「……結衣」
小さく名前を呼ぶ。
そのとき。
まぶたが、ゆっくりと動いた。
「……海里くん?」
かすれた声。
それでも、確かに彼女は笑った。
「来てくれたんだ」
その一言で——
海里の胸は、いっぱいになった。
(なんでだよ……)
こんな状況なのに。
どうして、そんな顔で笑えるんだよ。
海里は、拳を握りしめる。
そして、静かに言った。
「……話がある」
もう、知らないふりはできなかった。
6話
白い病室に、静かな時間が流れていた。
窓の外では、春の光がやわらかく差し込んでいる。
なのに、その空気はどこか冷たかった。
ベッドの上で、結衣はゆっくりと体を起こした。
「……ごめんね」
最初に出てきた言葉は、それだった。
「また、迷惑かけちゃった」
「……そういうの、やめろ」
海里は低い声で言う。
「迷惑とか、そういう問題じゃないだろ」
結衣は少しだけ目を伏せた。
しばらく沈黙が続く。
何から話せばいいのか、分からなかった。
でも——
「……聞いた」
海里が、ぽつりと口を開く。
「病気のこと」
その瞬間。
結衣の肩が、わずかに震えた。
「そっか……」
小さく、息を吐く。
「バレちゃったか」
いつものように笑おうとする。
でも、その笑顔は——もう隠しきれていなかった。
「なんで言わなかったんだよ」
「……言えなかった」
「なんで」
少し強くなる声。
結衣は、ゆっくりと海里を見た。
「だって——」
一瞬、言葉が止まる。
そして、震える声で。
「普通に、過ごしたかったから」
その一言で、胸が締めつけられる。
「病気のこと話したらさ、みんな優しくなるでしょ?」
「それの何が悪いんだよ」
「……それが、嫌だったの」
結衣は、ぎゅっとシーツを握る。
「“かわいそう”って思われるの、嫌だった」
「……」
「最後くらい、普通の高校生でいたかった」
その言葉は、静かで——でも、痛いほど重かった。
「じゃあ、“やりたいことリスト”は……」
海里が聞くと、結衣は少しだけ笑った。
「全部、本気だよ」
「海里くんとやりたかったの」
まっすぐな目だった。
逃げ場なんて、どこにもないくらいに。
「……どれくらいなんだよ」
海里は、震える声で聞く。
「時間」
その問いに、結衣は一瞬だけ黙った。
窓の外を見る。
桜の花びらが、ひらりと舞った。
「……長くて、半年くらいだって」
その言葉は、あまりにもあっさりしていた。
まるで、他人事みたいに。
「は……?」
理解が追いつかない。
「ちょっと待てよ……半年って……」
「うん」
「ふざけんなよ……!」
思わず声を荒げる。
「そんなの、短すぎるだろ……!」
結衣は、何も言わなかった。
ただ、静かに微笑んでいた。
「……だからね」
ぽつりと、結衣が言う。
「後悔したくないの」
「全部、ちゃんと終わらせたい」
「ちゃんと、“さよなら”したい」
その言葉を聞いた瞬間。
海里の中で、何かが壊れた。
「……できるわけないだろ」
低く、震える声。
「そんなの、受け入れられるわけないだろ」
「海里くん——」
「半年で全部終わるなんて、納得できるかよ!」
結衣は、少しだけ驚いた顔をした。
でもすぐに、優しく笑う。
「……だよね」
その笑顔が、逆に苦しかった。
「でもね」
結衣は、ゆっくりと言葉を続ける。
「悲しいだけで終わるの、嫌なの」
「泣くだけの時間なんて、もったいないでしょ?」
「だから——」
「笑って終わりたい」
その言葉に、海里は何も言えなかった。
しばらくの沈黙。
時計の音だけが響く。
「……なんで俺なんだよ」
やっと出てきた言葉。
「他にもいただろ」
「友達とか」
結衣は、少しだけ考えてから言った。
「……直感かな」
「は?」
「海里くんなら、一緒にいてくれる気がした」
「最後まで」
胸が、強く締めつけられる。
逃げたくなる。
でも——
目の前の結衣は、逃げさせてくれなかった。
「……ずるいよな」
海里は小さく笑う。
「そんなこと言われたら、断れないだろ」
そして、ゆっくり顔を上げた。
「……やるよ」
「え?」
「そのリスト」
結衣の目が、大きく開かれる。
「全部、付き合ってやる」
「半年だろうが、なんだろうが——」
拳を握りしめる。
「絶対、後悔させねえ」
その言葉に。
結衣の目から、ぽろっと涙がこぼれた。
「……ほんとに?」
かすれる声。
「約束する」
その瞬間。
結衣は、泣きながら笑った。
「ありがとう……海里くん」
春の光が、二人を包む。
それは、とても優しくて——
そして、とても残酷な光だった。




