第14話 猛毒のフルコース
東京の夜景が、黒いビロードの上に宝石を散りばめたように煌めいている。
港区の一等地に位置する俺のペントハウス。その分厚いマホガニー製の玄関ドアのチャイムが、約束の時間きっかりに鳴り響いた。
「こんばんは、井上CEO。今夜の『法務の打ち合わせ』、楽しみにしていましたわ」
エントランスのドアを開けると、そこには夜に咲く毒花のように妖艶な笑みを浮かべた森舞永が立っていた。
先日、この部屋で俺が振る舞ったアレパとラム酒によって、互いに腹を探り合う危険なゲームの幕を開けた彼女。今夜の彼女は、その勝負の決着をつけるべく、前回以上に気合いが入っていた。身体のラインを極限まで強調する、背中が大きく開いた漆黒のホルターネックドレス。深く入ったスリットからは、歩くたびに白く滑らかな太ももが覗く。濃密なイランイランとムスクを調香した重い香水が、彼女の周囲の空気を官能的に染め上げていた。
彼女の目論見は明白だった。底知れない『捕食者』である俺とのゲームに自ら身を投じ、その自慢の色香と肉体を武器にして、俺を完全にベッドで組み伏せる。そして、自分よりも強大で危険な男の手綱を握り、真の支配者として君臨することだ。
「よく来てくれました。さあ、中へ」
俺は紳士的な笑みを浮かべてエスコートし、彼女を広大なリビングルームへと招き入れた。
「相変わらず、生活感の欠片もない完璧な空間ね。でも、今日はこの静かな部屋を、もっと熱くて甘い色に染め上げてみせるわ」
舞永は二度目の訪問となるリビングを悠然と見渡し、挑発的な視線を俺に向けながら艶やかな足取りで中央へと進み出た。
だがその時、彼女の足元に向かって、小さな白い影がトコトコと駆け寄ってきた。
「みゃあ」
生後数ヶ月のスコティッシュフォールドの赤ちゃん、『ハイ』だ。
見知らぬ来客にも物怖じせず、丸い頭を舞永のピンヒールの先へすり寄せている。
「……え? 猫……? 前回は気づかなかったけれど」
舞永は予想外の生き物の登場に、毒気を抜かれたように目を丸くした。
「すまない、俺の同居人です。先日は寝室でずっと眠っていたものでね。少し待っていてください、料理の最後の仕上げがある」
俺はハイの頭を優しく撫でてから、キッチンカウンターの奥へと向かった。
舞永はソファに腰を下ろし、俺が火を扱うのを興味深そうに眺めていたが、その視界の端で、ハイがちょこまかと動き回っていた。俺は傍らに置いてあった羽飾りのついた猫じゃらしを手に取り、料理の合間に軽く床へ向かって振ってみせた。
シャカッ、シャカッ。
羽の擦れる音を聞いた瞬間、ハイの動きがピタリと止まった。
丸いガラス玉のような瞳の瞳孔が、一気に真っ黒に広がる。ぴんと立っていた尻尾を床に水平に倒し、極限まで姿勢を低くして、ソファの陰から猫じゃらしの羽をじっと見据える。
そして、短い前足で床をしっかりと踏みしめながら、ぷりっ、ぷりっ、と小さな丸いお尻を左右に小刻みに振ってタイミングを計り――。
「ニャッ!」
短い声を上げて、見事な跳躍で猫じゃらしに飛びかかった。小さな両手でしっかりと羽を抱え込み、後ろ足でケリケリと連続キックを繰り出している。その必死で愛らしい狩猟本能の現れに、張り詰めていたリビングの空気がふわりと緩んだ。
「……ふふっ、可愛い」
無防備なハイの姿に、舞永の口から思わず素の笑い声がこぼれた。
彼女はキッチンに立つ俺と、無邪気に遊ぶ子猫を交互に見つめ、微かに困惑の表情を浮かべた。
冷酷で底知れないオーラを纏った謎の大富豪が、エプロン姿でフライパンを揺らしながら、小さな命を愛おしそうに猫じゃらしであやしている。その強烈なギャップが、男を支配しようと息巻いていた彼女の闘争心を、気づかないうちに少しずつ削ぎ落としていたのだ。
「お待たせしました。今夜の打ち合わせを始めましょうか」
俺は猫じゃらしを置き、ダイニングテーブルに舞永を案内した。
今日、俺がこの強欲な悪女を完全に屈服させるために用意したのは、彼女が長年憧れ続け、最も愛してやまない『至高の組み合わせ』だ。
1周目の世界で、神崎家の顧問弁護士として屋敷に出入りしていた彼女が、貴子との談笑の中で「人生の最後に食べたい最高の贅沢」として熱弁していたメニュー。ただの家政夫として扱われていた俺は、その会話を一言一句、脳裏に刻み込んでいたのだ。
アレパで俺の技術の底知れなさを知った彼女に、今度は「なぜ自分の心の最も深い渇望を知っているのか」という精神的な戦慄を与えるためのフルコースである。
「前菜は、北海道産ボタンエビと、最高級ベルーガ・キャビアの冷製カペッリーニです」
氷水でキンキンに締めた極細のパスタに、昆布と白ワインで旨味を抽出したジュレを絡める。その上に、ねっとりと甘いボタンエビの身を乗せ、まるで黒い真珠のような大粒のベルーガ・キャビアを惜しげもなく山盛りに乗せた一皿。
そして、その傍らに注がれたのは、ボルドーの五大シャトーの中でも「ワインの女王」と讃えられる『シャトー・マルゴー』の1990年ヴィンテージだ。
「……嘘でしょ。どうして、これを……? 私がこの世で一番思い描いていた組み合わせ……誰にも言ったことがないはずなのに」
舞永は信じられないものを見る目で、冷製パスタとワイングラスを見つめた。
「あなたのその強欲な瞳の奥を覗き込めば、何を一番渇望しているかくらい簡単に分かりますよ」
俺は涼しい顔で大嘘をつき、彼女にフォークを勧めた。
舞永が震える手でパスタを巻き取り、キャビアと共に口へと運ぶ。
その瞬間、彼女の背筋に電撃のような衝撃が走ったのが分かった。
ボタンエビの濃厚な甘みと、極上のキャビアが舌の上で弾けて放つ芳醇な磯の香りと塩気。それが冷たい極細麺の喉越しと共に一体となり、完璧なバランスで押し寄せてくる。そこへ、十分にデキャンタージュされて華やかに開いたシャトー・マルゴーを流し込む。
熟したカシスやスミレ、そしてシガーやトリュフのニュアンスを持つ複雑でエレガントなワインの香りが、キャビアの塩気と見事に結びつき、彼女の理性を完全に焼き切るような強烈なマリアージュを生み出した。
「美味しい……っ。ただ美味しいだけじゃない、これ、本当に私がずっと夢見ていた……」
彼女は我を忘れ、夢中でグラスを傾け、冷製パスタを平らげた。美味しいから堕ちるのではない。自分の魂の奥底にある欲望すら、この男には全て見透かされ、完璧な形で提供されてしまうという全能感への絶対的な敗北感。それが彼女の精神の主導権を奪っていくのだ。
立て続けに出される温菜は、バターと少量の生クリーム、そして削りたての白トリュフをたっぷりと乗せたリゾット。メインディッシュは、最高級A5ランクの黒毛和牛のフィレ肉に、分厚いフォアグラのソテーと黒トリュフを重ねた『ロッシーニ風』。マデイラワインとトリュフの香りが視界を霞ませるような、王道のペリグーソースだ。
「……はあ、はあ……っ」
フルコースを食べ終える頃には、舞永の顔はワインのアルコールと、極上の美食がもたらす多幸感で、妖艶な薄紅色に染まっていた。
これまで自らの美貌と話術で男を意のままに操り、頂点に立ってきたと自負していた悪女。その彼女が、自らが最も望むものを寸分の狂いもなく完璧に提示され、抗う間もなく精神の根底まで完全に満たされてしまったのだ。
自分が支配するはずだったゲームの盤面は、いつの間にか俺という絶対的な強者によって、完璧な檻として作り替えられていた。
「さて、美味しい食事で身も心も満たされたことだし、そろそろ『大人の時間』にしない?」
舞永は微かにろれつの回らない声で甘く囁き、ふらつく足取りで椅子から立ち上がった。
彼女は俺の隣に座り込み、その柔らかな胸を俺の腕に押し当てながら、指先で俺のネクタイをゆっくりとなぞり始めた。
「あなたの完璧なエスコートと、恐ろしいほどの洞察力には感服したわ。でも、最後に私をひざまずかせるのは、ベッドの上で私の心をどう狂わせてくれるかよ。……私を、飼い慣らしてみる?」
上目遣いで、最も官能的な視線を俺にぶつけてくる舞永。
数多の権力者たちを骨抜きにしてきた彼女の、最後にして最大の武器だ。
だが。
「……勘違いするな」
俺は氷のように冷たい声で言い放つと、俺のネクタイを弄んでいた彼女の手首を、容赦のない力でガシッと掴んだ。
「痛っ……!」
舞永が顔を歪めた瞬間、俺は彼女の顎をもう片方の手で強引に持ち上げ、至近距離でその目を真っ直ぐに見据えた。
大人の余裕を湛えていた俺の瞳の奥から、分厚い氷を叩き割るようにして、どす黒く冷酷な本性が姿を現す。
1周目の世界で、俺から全てを奪い、俺の死を鼻で笑いながら揉み消したこの女に対する、底知れない憎悪と暴力的なまでの支配欲。ここから先は、紳士的な『あなた』などという敬称は不要だ。
「俺はお前に飼われるつもりもないし、甘いロマンスを演じるつもりもない。お前が俺の檻に入るんだ、舞永」
「……ッ」
至近距離でぶつけられた、絶対零度の殺気と悪のオーラ。
これまで彼女が出会ってきたどんな権力者や悪党も、これほどの純粋な闇と冷酷さを持っていなかったはずだ。舞永の瞳の奥に、明確な『恐怖』が走った。
自分が手玉に取ろうとしていた男は、ただの大富豪などではない。自分よりも遥かに巨大で、残忍で、一切の容赦を持たない本物の『捕食者』だったのだ。
「俺は、お前の全てを奪い尽くして俺の駒にする。神崎グループの飼い犬の首輪を外し、代わりに俺が絶対の首輪を嵌めてやる。お前の法的な知識も、その強欲な野心も、そしてその美しい肉体も、全て俺の復讐のために使い潰せ」
低く、地を這うような声で囁きながら、俺は彼女の顎を掴む手にさらに力を込めた。
恐怖。だが、それと同時に、舞永の体は熱を持ったように微かに震え始めていた。
他者の欲望を搾取し、常に自分が優位に立ってきた彼女にとって、自分を力と圧倒的な恐怖で完全にねじ伏せようとする絶対的な『強者』の存在は、初めて味わう劇薬だった。
俺が振る舞った手料理とワインによって理性のタガが外れていた彼女の心に、俺の放つ危険な色気と悪のオーラが、逃れられない呪縛となって深く染み込んでいく。
「……私の全てを、奪う……?」
舞永のハスキーな声が、熱を帯びて震えていた。
恐怖に震えながらも、彼女の瞳は俺の深い闇に完全に魅入られ、かつてない本能的な悦びと熱狂に染まっていた。強固なプライドも、弁護士としての理性も、もはや一片も残っていない。
「あなたの思い通りになんて……ならないわよ……」
最後の強がりを口にする彼女の赤い唇を、俺は力任せに深く塞いだ。
赤ワインとトリュフの芳醇な香りを孕んだ息ごと、暴力的な熱で全てを支配し尽くす。
舞永は一瞬だけ抵抗する素振りを見せたが、すぐに力が抜け、自ら俺の首に腕を回して深く舌を絡ませてきた。彼女の体から、完全に主導権を明け渡した女の甘い吐息が漏れる。
視界の端では、遊び疲れたハイが柔らかなクッションに沈み込み、無防備な寝息を立てていた。
その小さく穏やかな命のすぐ傍らで、俺はかつて自分を葬った冷徹な弁護士の精神を完全に砕き、己の意のままに動く狂信的な手駒へと堕とすことに成功した。
神崎グループを根底から合法的に乗っ取るための、最も鋭利な『法的な剣』が、今、俺の手の中に完全に収まったのだった。




