第12話 餌付けされた猟犬
東京の眩い夜景を眼下に一望できる、六本木の会員制ラウンジ。
エントランスでの厳重な顔認証と紹介者チェックを経てのみ足を踏み入れることが許されるその空間で、完全なプライバシーが約束された奥のVIP個室に、俺はいた。
深く沈み込むようなイタリア製の革張りソファに腰を下ろし、向かいに座る女性に向けて、静かにバカラのグラスを掲げる。
「お疲れ様、冴子。今日もあの傲慢な女王の相手、ご苦労だった」
「ふふっ……ありがとうございます、健太郎さん」
グラスを小さく打ち合わせ、極上のヴィンテージ・シャンパンを口に含んで艶やかに微笑むのは、神崎麗華の第一秘書・斎藤冴子だ。
彼女が俺のペントハウスを訪れ、神崎家の極秘データが詰まったUSBメモリを手渡し、自らの退路を断って俺と共犯関係を結んでから、すでに数週間が経っていた。
今日のような週末の夜、俺たちはこうして『デート』と称した密会を重ねている。表向きは、正体不明の若き大富豪と、財閥企業の美しきキャリアウーマンによる優雅で親密なディナーだ。だが、その実態は、神崎家の内部崩壊を推し進めるための高度な情報共有の場に他ならない。
「君が命懸けで持ち出してくれたUSBの裏帳簿データ、俺の仲間の解析チームが全てロックを解除したよ。そして、別のルートから掴んでいた黒崎翔の海外口座の動きと、見事にリンクさせることができた」
「本当ですか……! じゃあ、麗華副社長の愛人である黒崎が、会社の資金を数億円単位で横領し、さらに麗華様とは別の女性に貢いでいるという証拠が、完全に固まったと?」
「ああ。君の勇気ある決断が、神崎家の喉元に最も鋭い刃を突きつけたんだ」
俺の言葉に、冴子は安堵と興奮が入り交じったような、深く甘い吐息を漏らした。
現在の彼女の纏う空気は、初めてパーティーの車寄せで声をかけた時の、極度の疲労と理不尽なストレスで今にも切れそうに張り詰めていたものとは劇的に変わっていた。俺という強大な後ろ盾を得たことで、麗華のヒステリーに対する恐怖心は彼女の中から完全に消え失せている。むしろ、「この愚かで底の浅い女は、もうすぐ全てを失うのだ」という暗い優越感を抱きながら日々の業務を完璧にこなしている余裕が、彼女をより美しく、危険な色気のある大人の女へと変貌させていた。
「これを受け取ってくれ」
俺はジャケットの内ポケットから、漆黒のベルベットで覆われた小さな箱を取り出し、テーブルの上を滑らせた。
「……これは?」
「俺の専属の最も優秀なパートナーへの、ささやかな報酬と……一人の美しい女性への純粋な賛辞だ。開けてみてくれ」
冴子がわずかに震える指で箱を開けると、そこにはカルティエの豪奢なダイヤモンドのピアスが、照明を受けて気品のある輝きを放っていた。
「こんな高価なもの……受け取れません。私は、あなたの見せてくれる景色が見たくて、あの家を裏切ったんですから」
「遠慮しないでくれ。君のその知的な美貌には、本物の輝きがよく似合う」
俺はゆっくりと立ち上がり、彼女の隣に腰を下ろすと、その耳元に直接ピアスを着けてやった。
俺の指先が彼女の白く細い首筋に触れるたび、冴子の体が微かに震え、熱を帯びていくのが手にとるように分かる。ピアスを着け終え、そのまま彼女の華奢な肩を抱き寄せると、冴子は一切抵抗することなく、俺の胸に顔を埋めてきた。
「……健太郎さん。私、もう後戻りできません。あの女が絶望して崩れ落ちる瞬間を、早くあなたの隣で見たいわ」
「焦るな、冴子。爆弾は、最も効果的なタイミングで爆発させてこそ意味がある。君は今まで通り、完璧な第一秘書の仮面を被り続けてくれ」
「……はい」
シャネルの甘い香水の匂いを漂わせながら、俺の腕の中で熱狂する冴子を優しく抱きしめながら、俺は冷徹な復讐鬼としての計算を巡らせていた。
黒崎と麗華を社会的に抹殺するための爆弾の製造は、これで完了した。
あとは、この爆弾に火をつけるための『強力な起爆装置』を、完全に俺の支配下に置くだけだ。
★★★★★★★★★★★
それから数日後。
港区の一等地にある、俺のペントハウスのチャイムが鳴った。
俺がエントランスの厳重なセキュリティを遠隔で解除すると、重厚なドアが開き、フリージャーナリストの山崎桃子が姿を現した。
フレンチシックなトレンチコートを無造作に羽織り、気怠げな瞳を持った彼女は、挨拶もそこそこに俺の広大なリビングへと足を踏み入れた。先日、新宿の場末のバーで接触し、神崎家の致命的な特ダネを餌に俺の『専属スピーカー』となる契約を結んだ猟犬だ。今日は、彼女に渡した暗号化スマホを通じ、記事の公開に向けた詳細な打ち合わせと称してここへ呼び出したのだ。
「へえ、いい部屋じゃない。家賃いくら?」
桃子は勧められたソファに座ろうともせず、部屋の調度品や壁に掛けられた抽象画、そして俺の書斎の入り口に至るまで、油断のないジャーナリストの嗅覚で鋭く観察して回っていた。
「指紋ひとつない、生活感の欠片もない部屋。完璧に作り込まれたモデルルームみたいね。あんたの素性を示すような個人的なエピソードや生活の痕跡が、見事に何一つ見当たらないわ」
「俺の素性を探るような真似はよせと言ったはずだが」
「職業病よ。どこのファンドのCEOか知らないけど、巨大財閥である神崎家の心臓部にここまで深く食い込める人間なんて、そう多くはないわ。……あんた、本当はどこの誰?」
獲物を狙う猛禽類のような鋭い視線を向けてくる桃子に対し、俺は涼しい顔で肩をすくめた。
「だから、ただの投資家だと言っただろう。ジャーナリストの嗅覚は、神崎家のスキャンダルを追うためだけに使ってくれ」
俺はそう言って、オープンキッチンへと向かった。
「まあ、座れ。少し酒でも飲もう。腹も減っているだろう?」
「……毒でも入ってるんじゃないでしょうね?」
桃子は疑心暗鬼の壁を崩さないまま、キッチンカウンターの向かいにある高いスツールに腰を下ろした。
「そんな無粋な真似はしないさ。俺は、仕事のパートナーには美味いものを振る舞う主義でね」
俺は巨大な業務用冷蔵庫から、あらかじめ数日前から仕込んでおいた料理を取り出した。
今日彼女に振る舞うのは、ビストロ風の気取らない、だが極限まで手間暇をかけたフランスの郷土料理だ。
まずは前菜の『自家製パテ・ド・カンパーニュ』。新鮮な豚の肩肉と鶏レバーを粗挽きにし、ピスタチオと数種類のスパイス、そして芳醇なコニャックをたっぷりと効かせてテリーヌ型でじっくりと焼き上げ、数日間熟成させたものだ。分厚くスライスしたパテに、コルニッションと、軽くトーストしたバゲットを添える。
そしてメインは『鴨のコンフィ』。骨付きの鴨もも肉を、ハーブやニンニクとともに低温の鴨の脂の中で何時間も煮るように火を通し、肉の繊維を極限まで柔らかくしたものだ。俺はそれを提供の直前にフライパンに乗せ、皮目だけを強火で香ばしく、パリッと焼き上げた。付け合わせには、鴨の旨味が溶け出した脂でローストしたホクホクのじゃがいもをたっぷりと添える。
「さあ、どうぞ」
野性味あふれるスパイスと、焼けた鴨の香ばしい脂の匂いが、広大なリビングルームに一気に広がった。
俺は果実味が豊かでスパイシーな、コート・デュ・ローヌ地方の重厚な赤ワインをグラスに注ぎ、彼女の前に置いた。
桃子は信じられないものを見るような目で、目の前に並べられた本格的なビストロ料理と、俺の顔を交互に見た。
「……嘘でしょ。これ、あんたが自分で作ったの?」
「俺のささやかな趣味だ。遠慮せずに食べてくれ」
桃子はフォークを手に取り、恐る恐るパテ・ド・カンパーニュを切り分けて口に運んだ。
その瞬間。彼女の気怠げだった瞳が、驚愕に見開かれた。
「……何これ」
豚の濃厚な旨味と、レバーの全く臭みのない深いコク。それがコニャックの甘い香りと数種類のスパイスによって見事に調和し、口の中でとろけていく。そこに赤ワインを流し込めば、肉の脂とワインのスパイシーな果実味が完璧なマリアージュを引き起こし、脳髄を痺れさせるような強烈な旨味の連鎖が爆発する。
続いて、鴨のコンフィにナイフを入れる。ナイフが皮を突き破る『パリッ』という小気味良い音の後、骨からホロホロと崩れ落ちるほど柔らかな肉が姿を現した。
「美味しい……けど、ただ美味しいだけじゃない。なにこれ、気味が悪いくらい完璧すぎる。私がパリに取材に行った時に三ツ星のビストロで食べたものより、ずっと……」
桃子はフォークを置き、鋭い視線を俺に向けた。
ただの美味しい料理に酔いしれるような、安い女ではない。彼女は常に特ダネを追って神経をすり減らし、あらゆる人間の嘘や欺瞞を見抜いてきた敏腕ジャーナリストだ。彼女の張り詰めた疑心暗鬼の壁は、料理の美味さ程度で崩れるものではない。
だが、彼女はこの一皿から、俺が隠し持つ『異常性』を確かに嗅ぎ取っていた。
「金持ちの道楽や趣味で到達できるレベルじゃないわ。食材の選定、火入れの秒数、ソースの乳化……全てが狂気じみた執念で計算し尽くされてる。まるで、相手を完全に屈服させるためだけに、人生のすべてを懸けてこの技術を磨き上げたみたいな……」
その通りだ。俺は神崎家で地獄の家政夫として生きた十年間と、スイスでの血を吐くような訓練の全てを、この一皿に込めている。
言葉や金で人を動かすことには限界がある。だが、相手の魂を直接揺さぶる至高の一皿は、あらゆる理屈を圧倒的な説得力でねじ伏せ、強制的にこちら側の領域へと引きずり込む力を持っているのだ。
一時間後。
見事に平らげられた皿を前に、桃子はリビングの特注のソファに深く体を預け、気怠げに足を組んで寛いでいた。ジャーナリストとしての張り詰めた糸は適度に緩み、一人の女としてのアンニュイな色気が無防備に放たれている。
「……はあ、食った食った。まさか料理一つで、ここまで圧倒的な説得力を見せつけられるとは思わなかったわ。こんなどこまでも底知れない執念を持った男が持ってきたネタなら、ただのガセや見掛け倒しじゃないって確信が持てたわよ」
桃子はグラスに残った赤ワインを揺らしながら、ソファの隣に座る俺に向かって、ふっと不敵な笑みを向けた。
「でも、大富豪さん。あんた、ひとつだけ嘘をついてるわね」
「嘘、とは?」
「あんた、神崎家を潰すのは『ただの趣味だ』って言ったけど、あれは嘘よ」
桃子のハスキーな声が、再びジャーナリストとしての鋭さを帯びた。
「あんたのその完璧な笑顔の奥……瞳の一番深いところに、私がかつて取材で嫌というほど見てきた、全てを理不尽に奪われた『被害者』と同じ色がこびりついてる。底知れない喪失感と、血を吐くような深い私怨の匂いがするのよ」
俺は僅かに目を細めた。
天才ハッカーの心にも、優秀な秘書の冴子にも見抜けなかった、俺の最も深く暗い部分。かつて神崎家に全てを奪われ、虫けらのように殺された『神崎修平』としての凄絶な怨念を、この女はジャーナリストの本能だけで見抜いてみせたのだ。
「……あなた、神崎家に何か深い恨みでもあるんでしょ?」
桃子は俺の顔を真っ直ぐに覗き込み、核心を突いてきた。
俺は数秒の沈黙の後、いつもの大人の余裕を湛えた笑みを崩さずに、ゆっくりとワイングラスを傾けた。
「ご想像にお任せするよ、優秀なジャーナリストさん。だが、俺が奴らに深い恨みを持っていようといまいと、君が長年追い求めた『神崎家の闇を暴く特ダネ』の価値が下がるわけではないだろう?」
「……ふふっ。そうね、その通りだわ」
桃子はそれ以上、俺の過去に深く踏み込むことはしなかった。
彼女はグラスのワインを飲み干し、ソファから立ち上がると、俺に向かって右手を差し出した。
「まあいいわ。あんたが本当は何者でも、過去に何があっても、このネタは最高に面白いから乗ってあげる。神崎家を地獄に突き落とす記事、私のペンで最高に派手に書いてあげるわよ」
「期待しているよ、桃子」
俺はその手を強く握り返した。
恋愛感情でも、主従関係でもない。互いの心の奥底の領域には決して深入りせず、ただ同じ標的を仕留めるためだけに背中を預け合う、対等な「大人の戦友」としての共犯関係。
最強のジャーナリストという『表の拡声器』を完全に味方につけた俺は、いよいよ神崎家を破滅させるための最初の爆弾のスイッチに、静かに指をかけた。




