表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
殺された入り婿の二度目の遺言 ~10年前に戻り完璧な美男子となった俺は、未来知識と手料理でクズ妻一族を内側から全て奪い尽くす~  作者: 伊達ジン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/17

第10話 堕ちた秘書、共犯者の誕生

 神崎グループ本社ビル、副社長室。

 始業前の静寂の中、第一秘書のデスクに座る斎藤冴子は、無意識に自分の赤い唇を指先でなぞっていた。

 昨夜、謎の大富豪・井上健太郎のペントハウスで過ごした、甘く危険な密会の記憶が、今も鮮明に全身に焼き付いている。圧倒的な魅力を持つ彼の前で、冴子は冷徹なキャリアウーマンとしての仮面を剥ぎ取られ、一人の女として完全に彼の支配下に堕ちた。彼の腕の確かな熱と、熱を帯びた口づけの余韻は、今思い出すだけでも胸の奥が甘く疼く。

 だが、彼が求めていたのは単なる一夜の火遊びではなく、神崎家を裏切る「内通者」という危険極まりない契約だ。発覚すれば業界から完全に抹殺され、社会的地位の全てを失う。いくら彼に心と体を奪われたとはいえ、長年血の滲むような努力で築き上げてきた自分のキャリアを自ら壊し、極秘データを盗み出すという物理的な『裏切り行為』に踏み切るには、冴子の中にまだ一抹の恐怖と躊躇が残っていた。彼女は昨夜、最後の一線を越える決断を土壇場で保留し、逃げるように帰宅してしまったのだ。


(……彼女は昨夜、女としては完全に俺に堕ちた。だが、優秀な秘書としての最後の鎖を引きちぎるには、内側からの決定的な崩壊が必要だ)


 同じ頃。ペントハウスの書斎で、マルチモニターに映る監視カメラのハッキング映像を眺めながら、健太郎は静かに冷笑を深めていた。

 焦る必要はない。冴子が完全に吹っ切れて、自らの手で神崎家の首を差し出してくることは、健太郎の完璧な計算の内にあった。なぜなら、今日、あの傲慢で愚鈍な女王が、冴子の誇りを決定的に粉砕する出来事が必ず起きるからだ。


「……おはよう、冴子」


 午前10時。重厚なドアが開き、副社長の神崎麗華が出社してきた。今日もハイブランドのスーツを派手に着こなし、己の権力を疑わない足取りで自席へと向かう。


「おはようございます、麗華副社長。本日のスケジュールですが――」

「ああ、その前に。昨日あなたに泥を被ってもらった、ヨーロッパ市場のプロジェクトと法務部の契約ミスの件だけど」


 麗華は冴子の言葉を遮り、デスクに無造作に鞄を投げ出しながら言った。


「昨日の役員会では、見事に私のミスを被ってくれてご苦労様。私が事態を収拾してあげたんだから、今日も私の指示通り、無能な秘書として大人しく下を向いていなさい。分かっているわね?」

「……はい。承知いたしました」


 冴子はギリッと奥歯を噛み締めた。昨日、数ヶ月かけて組み上げたプロジェクトの手柄を奪われた上に、麗華自身の致命的なミスの責任まで押し付けられ、大勢の役員の前でさらし者にされた。その理不尽な屈辱だけでもはらわたが煮えくり返る思いだったが、麗華はそれを「自分が助けてやった」と本気で思い込んでいるのだ。


 だが、麗華の横暴はそれだけでは終わらなかった。

 夕方、麗華のスマートフォンに愛人の黒崎から、今夜のディナーの約束をドタキャンする連絡が入ったらしい。苛立ちを抑えきれない麗華は、八つ当たりするように冴子を怒鳴りつけ始めた。


「ちょっと冴子! 私が頼んでおいた新しいエステサロンの予約、まだ取れていないの!? 昨日のミスといい、本当に気が利かないわね!」

「申し訳ありません、麗華様。あちらのサロンは完全紹介制で、現在一ヶ月先まで――」

「言い訳なんて聞いてないわよ! 私が誰だか分かっていないの!?」


 ヒステリーが頂点に達した麗華は、デスクの上に置かれていた熱いアールグレイの入ったティーカップを掴むと、それを冴子に向かって力任せに投げつけた。


 ガシャァンッ!


 陶器が砕け散る音と共に、淹れたての熱湯のような紅茶が、冴子の純白のシルクブラウスに激しくぶちまけられた。


「きゃっ……!」


 火傷しそうな熱さと鋭い痛みに、冴子は思わず床にうずくまった。茶褐色の染みが、上質なブラウスに無残に広がっていく。


「さっさと床を拭きなさい! 私の目につくところでうろちょろしないで。ただの秘書の価値なんて、私の代わりに泥を被って、足元に這いつくばることくらいしかないのよ!」


 麗華は汚れた冴子をゴミでも見るように見下し、ヒールを高く鳴らしながら部屋を出て行った。


 床に散らばった陶器の破片と、こぼれた紅茶。

 冴子は震える手で雑巾を握りしめ、床に這いつくばって汚れを拭き取り始めた。熱い紅茶を浴びた胸元がヒリヒリと痛み、惨めさと怒りで視界が滲む。

 長年、どれだけ身を粉にして働いても、実績は奪われ、失敗の責任だけを押し付けられ、感情のサンドバッグとして扱われる。自分はこの女の踏み台であり、都合のいいゴミ箱でしかないのだ。


(……同じだ)


 その光景をマルチモニター越しに見下ろしながら、健太郎は暗闇の中で静かに目を伏せた。

 1周目の世界。熱湯のような味噌汁を頭から浴びせられ、大理石の床に這いつくばって掃除をさせられたあの日の痛みが、鮮明に蘇る。


『ただの秘書の価値なんて、私の代わりに泥を被って這いつくばることくらいしかないのよ』


 神崎家の人間にとって、自分たち以外の人間は全て、失敗を吸収させるための単なる「モノ」に過ぎないのだ。その傲慢で腐りきった血は、10年前も今も、全く変わっていない。


(神崎という腐敗した王国に仕え続け、いずれあの女の道連れになるつもりか?)


 昨夜の健太郎の言葉が、冴子の脳裏で痛烈に木霊した。

 床を拭き終えた冴子は、ゆっくりと立ち上がった。その瞳から、迷いや恐れは完全に消え失せていた。あるのは、自分を人間として扱わなかった愚鈍な上司への、絶対的な憎悪と決別だけだ。

 彼女はすぐさま自身のデスクのセキュリティ端末に向かい、麗華の裏のスケジュール、黒崎との密会に使われているホテルの領収書データ、そして裏金の流れが記された極秘ファイルにアクセスし、全てを暗号化して小型のUSBメモリにコピーした。


 その日の夜。

 港区のペントハウスのチャイムが鳴った。

 健太郎がドアを開けると、そこにはブラウスを着替え、鋭い覚悟を宿した瞳の冴子が立っていた。

 彼女は挨拶もそこそこにリビングへと足を踏み入れると、バッグの中から厳重にロックのかかった黒いUSBメモリを取り出し、健太郎の胸元へと突きつけた。


「麗華の裏のスケジュール。黒崎とのホテルでの密会記録。そして、法務部を通さずに動かしている裏金のリストです」


 それは、神崎グループの次期社長候補の首を完全に取るための、最も鋭利な刃だった。

 冴子は自らUSBメモリを健太郎の手の中に押し当て、その瞳を真っ直ぐに射抜いた。その手はもう微塵も震えていない。


「あなたの真の目的が、神崎家の乗っ取りでも、一族の破滅でも構わない。……私は、あなたに賭けるわ」


 過去も未来も全てを投げ打つ、共犯者としての明確な宣言。

 健太郎は冷たい笑みを浮かべ、その小さな手を強く握りしめた。


「賢明な判断だ。君は俺の、最高のパートナーだ」


 健太郎は冴子の腰を引き寄せた。

 昨夜のような、甘く理性を溶かすための誘惑のキスではない。二人が交わしたのは、共犯者としての退路を断つような、深く熱狂的な口づけだった。冴子は自ら健太郎のネクタイを強く引き寄せ、己の意志でこの男と共に地獄へ堕ちることを選んだ女の熱を、その口づけに込めた。


「座ってくれ。君の決断と、俺たちの新たな門出を祝して、最高の食事を用意してある」


 唇を離した後、健太郎は優しく彼女をダイニングチェアへとエスコートし、オープンキッチンへと向かった。

 昨日、彼女が最終決断を保留にして逃げ帰った後も、健太郎は今日彼女が完全にこちら側に堕ちてくることを確信していた。だからこそ、全てを捨ててきた彼女の覚悟に報い、疲弊しきった心と体を満たすための特別な料理の仕込みを、昨夜から密かに進めていたのだ。


「今日君に提供するのは、ハワイの伝統的なソウルフード……『カルーアピッグ』だ」


 健太郎は、巨大な豚肩ロースの塊肉を取り出した。

 本来は土の中で長時間蒸し焼きにする料理だが、健太郎の調理法は極めて現代的かつプロフェッショナルなものだった。豚肉の表面に、ミネラルを豊富に含むハワイ産のアラエア・レッドシーソルトを丁寧にすり込み、ヒッコリーの天然リキッドスモークを数滴垂らして深い燻香を纏わせる。それをバナナの葉とティリーフで何重にも包み込み、真空パックにしてから、最新の低温調理器に沈めた。


「温度は正確に74度。昨夜君が帰った後から、丸24時間かけてゆっくりと火を通しておいた。豚のコラーゲンが完全にゼラチン化し、極限まで柔らかくなっているはずだ」


 健太郎が真空パックを開封し、バナナの葉を解いた瞬間。

 部屋中に、野性味あふれるスモークの香りと、豚の濃厚な脂の甘い匂いが爆発するように広がった。冴子は思わず息を呑み、喉を鳴らした。

 健太郎は2本のフォークを使い、塊肉をほぐしていく。刃物など必要ない。フォークを軽く入れるだけで、肉の繊維がほどけるように崩れ、中から熱い肉汁が溢れ出していく。細かくシュレッドされた豚肉を、彩り豊かなロミロミサーモンと新鮮な葉野菜とともに皿に盛り付けた。


「そして、この料理に合わせる酒だが……」


 健太郎がグラスに注いだのは、ワインではなく、ほんのりと黄金色に色づいた透明な液体だった。


「日本酒……ですか?」

「ああ。長期熟成させた『山廃純米酒』を、40度前後のぬる燗にしてある。だまされたと思って、一緒に口に運んでみてくれ」


 湯気を立てる極上の一皿を前に、冴子はフォークを手に取り、柔らかなカルーアピッグを口に含んだ。

 瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。


「……っ!」


 噛む必要すらないほどの柔らかさ。豚の強烈な旨味とアラエアソルトのまろやかな塩気、そして鼻腔を突き抜ける芳醇なスモークの香りが、疲労困憊した彼女の細胞の隅々にまで染み渡っていく。

 続けて、健太郎に勧められるままに山廃純米酒のぬる燗を口に含む。


「信じられない……。お肉の濃厚な脂が、お酒の酸味で綺麗に流されて……それなのに、燻製の香りと日本酒の複雑な旨味が、口の中で完璧に調和している……」


 西洋のワインではなく、山廃仕込み特有の乳酸由来の太い酸味と旨味が、豊かな豚の脂を優しく包み込み、昇華させる。その温度帯も完璧に計算されており、ぬる燗の温かさが、全てを失う恐怖で強張っていた冴子の身体の芯をじんわりと解きほぐしていった。

 理不尽な上司への怒りも、明日からの不安も。全てがこの至高の美味と多幸感の中に溶けて消えていく。


「最高のパートナーに、乾杯」


 健太郎はグラスを掲げ、優しく微笑みかけた。

 冴子はほんのりと頬を朱に染め、極上の美酒を喉の奥へと流し込んだ。もはや彼女を縛る強固な鎧は、一片も残っていなかった。


 大人の男女が静かに盃を交わすペントハウスの夜景の向こう側で、神崎グループの本社ビルが冷たくそびえ立っている。

 精神的にも肉体的にも、最も有能な第一秘書を完全に籠絡した健太郎。

 こうして彼は、神崎家の心臓部の最も深い場所に、『内通者』という絶対に抜けない死の楔を打ち込むことに成功したのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ