第9話 大人の密会と、極上の餌
都内の一等地にある外資系超高級ホテル。その最上階の奥深くに、会員制のシークレットバーが存在する。
照明を極限まで落とした店内には、分厚い絨毯が敷き詰められ、足音すら吸い込まれていく。マイルス・デイヴィスのミュートトランペットが静かに流れる中、俺は奥のVIPブースで、オン・ザ・ロックスのグラスを傾けながら『獲物』を待っていた。
約束の時間からきっかり五分遅れて、重厚な扉が開いた。
エントランスに現れたのは、タイトな黒のパンツスーツに身を包んだ斎藤冴子だった。仕事帰りそのままの姿だが、その凛とした佇まいとクラシカルな美貌は、暗いバーの中でもひときわ目を引く。彼女はフロアを一瞥し、俺の姿を認めるなり、迷いのない足取りで近づいてきた。
五分という遅刻は、彼女なりの小さな抵抗であり、完全に俺のペースには乗らないという意思表示だろう。優秀な女だ。
「よく来てくれた。……まあ、座ってくれ」
俺が向かいの革張りのソファを勧めると、冴子は浅く腰を下ろし、警戒心を露わにした瞳で俺を見据えた。
「井上CEO。単刀直入にお伺いします。私をこんな場所に呼び出して、一体何を企んでいるのですか?」
「企み、か。ずいぶんと物騒な言い方をする」
俺はギャルソンを呼び、彼女のためにシャンパンをオーダーした。
「先日、君に言ったはずだ。君の真の価値を評価し、相応の対価を払えると。……単なるヘッドハンティングの話だと思ってもらって構わない」
「イノウエ・キャピタルからの引き抜きですか? 光栄ですが、私は現在、神崎グループの次期トップである麗華副社長の第一秘書です。それを捨てるほどの条件とは、到底思えませんが」
強気の言葉を口にする冴子だったが、その声の端には微かな疲労と苛立ちが滲んでいた。
俺は鼻で笑い、グラスの氷をカランと鳴らした。
「君の口からそんな世辞が出るとは思わなかった。……今日の午後、君が数ヶ月かけてまとめ上げた欧州進出の新規プロジェクト、麗華副社長はそれを全て自分の手柄として役員会で発表したそうだな。その上、自身が引き起こした契約書の致命的なミスを、君の確認不足として全責任を押し付け、泥を被らせた」
「……ッ、なぜ、それを……!」
冴子の美しい眉が跳ね上がり、息を呑んだ。俺の裏のバディである心が、神崎家の社内ネットワークからリアルタイムで引き抜いた情報だ。
「あんな空っぽの女の尻拭いをさせられ、手柄を全て横取りされて、君のプライドは悲鳴を上げていないのか? 神崎という泥船に乗り続けて、いずれあの女と一緒に沈むつもりか?」
図星をえぐられた冴子は、悔しさに唇を強く噛み締めた。昨日俺が蒔いた『誘惑の種』は、今日彼女が受けた決定的な屈辱という養分を吸って、見事に発芽していた。
「俺が欲しいのは、神崎グループの『内側』の情報だ。麗華の非公式なスケジュール、黒崎翔との密会の証拠、裏帳簿のデータ。……俺の目と耳になり、神崎の心臓部に食い込む内通者になってほしい」
「冗談でしょう。そんなことをすれば、私は業界から完全に抹殺されます。リスクが大きすぎる」
「報酬は、君の現在の生涯年収の十倍をスイス銀行の匿名口座に用意しよう」
俺は身を乗り出し、彼女の揺れる瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「それに、金だけじゃない。いずれ神崎麗華を引きずり下ろした後、神崎グループの空いた玉座……その実権を、君に握らせてやる。名ばかりの副社長の影として一生を終えるか、それとも表舞台のトップに立つか。選ぶのは君だ」
冴子は言葉を失った。莫大な金と、何より彼女の最も深い渇望である『正当な評価と権力』。俺の提示した毒林檎は、彼女の理性を確実に揺さぶっていた。
「なぜ……そこまで神崎を憎むのですか? あなたほどの投資家が、なぜわざわざ神崎家を標的に……」
「ここで立ち話をするには、少し長すぎるな」
俺は立ち上がり、彼女の前に置かれたシャンパングラスを優しく取り上げた。
「……少し、場所を変えよう。私のペントハウスで、君のその美しい頭脳に相応しいヴィンテージワインを開けたい。それに、君の体はひどく空腹を訴えているようだ」
「え……ちょ、ちょっと待って……」
戸惑う冴子の背中に手を添え、スマートにエスコートしてバーを出る。彼女は微かに抵抗する素振りを見せたが、俺の大人の余裕と、先ほどの提案の衝撃から抜け出せず、結局、大人しく俺のマイバッハに乗り込んだ。
港区のペントハウス。
広々としたリビングルームのドアを開け、東京の夜景が一望できる空間に彼女を招き入れる。冴子は息を呑み、数億円は下らない豪奢な内装と夜景を呆然と見渡した。
その時だった。
「みゃあ」
かすかな、甘えたような鳴き声がして、足元に白とグレーの小さな毛玉がすり寄ってきた。
「……え?」
冴子が目を丸くして足元を見る。そこには、生後数ヶ月のスコティッシュフォールドの赤ちゃんが、尻尾を立てて俺の革靴に頭を擦り付けていた。
「おお、起きてたのか」
俺は屈み込み、その小さな体を両手で優しく抱き上げた。丸っこい顔と垂れた耳。ガラス玉のような大きな瞳で俺を見つめ、喉をゴロゴロと鳴らしている。
「俺の同居人の、『ハイ』だ。……先日、ペットショップの狭いケージの中で売れ残って、処分寸前だったところを引き取った」
ハイの柔らかい頭を撫でながら、俺は冴子に向かって言った。
1周目の世界で、俺は孤児として育ち、家族と呼べる存在を持たなかった。神崎家で奴隷のように扱われていた時、俺を慰めてくれたのは、たまに中庭に迷い込んでくる野良猫だけだった。だからこそ、このハイという小さな命に出会った時、他人のように思えなかったのだ。……もちろん、冷徹な復讐鬼である俺がこんな愛らしい子猫を飼っているという『ギャップ』が、ターゲットの女たちの警戒心を劇的に解くための完璧なスパイスになるという打算もあったが。
「……可愛い……」
案の定、冴子の顔からキャリアウーマンの険しい鎧が剥がれ落ち、年相応の柔らかな表情が浮かんでいた。
「触ってみるか?」
俺がハイを差し出すと、冴子は恐る恐る手を伸ばし、その柔らかい毛並みを撫でた。ハイは冴子の指先を小さな舌でペロリと舐め、彼女は「ふふっ」と、これまで見せたことのない心からの笑みを見せた。
「冷酷なファンドのCEOが、こんな可愛い子猫を飼っているなんて……思いもしませんでした」
「俺だって、ただの血も涙もない機械じゃないさ。座って待っていてくれ。すぐに食事を用意しよう」
冴子がハイを膝に乗せてソファに座るのを確認し、俺はキッチンへと向かった。
彼女の目の下に僅かに浮かんだクマ、少し荒れた唇、そしてヒールの高さを庇うような立ち方。連日の麗華のワガママに振り回され、彼女の体は極度の疲労とビタミン・鉄分不足に陥っている。
提供するのは、旬のホタテと真鯛を使ったセビーチェ。そしてメインは、鉄分が極めて豊富な蝦夷鹿のローストだ。
俺は、今日彼女が麗華から屈辱を受け、俺の誘いに乗ってこの部屋へ来ることを完全に予測していた。そのため、蝦夷鹿の塊肉はあらかじめ絶妙な温度で真空低温調理を施し、芯まで美しいロゼ色に火を通した上で、肉汁を完全に落ち着かせてある。あとは提供する直前に、表面を強火で香ばしく焼き上げ、ベリーと赤ワインを煮詰めた濃厚なソースを絡めるだけだ。
神崎家の地獄のキッチンで培った段取りの完璧さと、スイスの三ツ星シェフから叩き込まれた『相手の心を支配する料理』の哲学。俺の無駄のない包丁捌きは、魔法のように数分で極上の一皿を生み出していった。
「お待たせした」
ダイニングテーブルに料理を並べ、ヴィンテージのピノ・ノワールをグラスに注ぐ。
冴子は美しい盛り付けと、そこから立ち上る本能を直接揺さぶるような芳醇な香りに、ゴクリと息を呑んだ。
「……あなたが、これを作ったんですか?」
「俺のささやかな趣味でね。さあ、食べてくれ。君の体は今、良質なタンパク質と酸味を欲しているはずだ」
冴子はフォークを手に取り、蝦夷鹿のローストを口に運んだ。
その瞬間、彼女の瞳が見開かれ、全身が微かに震えた。
「……美味しい……」
ただの称賛ではない。絶妙な火入れによって極限まで柔らかくなった肉の旨味と、ベリーソースの酸味が、彼女の疲労困憊した肉体に麻薬のように染み渡っていく。彼女は夢中でナイフとフォークを動かし、俺の注いだワインを飲み干した。
「信じられない……。これほどの料理、星付きのレストランでも味わったことがありません。体が、内側から熱くなっていくみたい……」
頬をほんのりと朱に染め、恍惚とした表情を浮かべる冴子。ワインのアルコールと、極上の料理がもたらす多幸感が、彼女が纏っていた強固なキャリアウーマンの鎧を、内側から甘く脆く崩していた。
俺はグラスを持って彼女の隣の席へと移動し、至近距離に座った。
彼女のシャネルの香水と、ほのかな汗の匂いが混ざり合った、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「……人は、美味しいものを食べている時が、一番素直になれる」
俺は低い声で囁き、彼女の耳元に顔を近づけた。
「君はずっと、一人で戦ってきたんだろう。自分を正当に評価しない人間たちの中で、誰にも弱みを見せずに」
「……井上、さん……」
冴子の瞳が潤み、俺の顔を真っ直ぐに見つめてきた。その瞳には、もはや秘書としての警戒心はない。あるのは、自分を完全に理解し、包み込んでくれる圧倒的な大人の男に対する、抗いがたい熱と渇望だった。
「俺の元へ来い、冴子」
俺は彼女の細い顎に指を添え、その赤い唇を指の腹でゆっくりと撫でた。
「神崎麗華という呪縛から解き放たれて、俺の隣で全てを手に入れろ。君のその美しい頭脳と野心は、俺の隣にいてこそ輝く」
「……私を、利用するつもりですか?」
「ああ、お互いに、な。……だが、俺は君に、最高の景色を見せてやれる」
俺の言葉に、冴子は小さく吐息を漏らし、自ら目を閉じた。
抗うことをやめた彼女の赤い唇を、俺はゆっくりと塞いだ。ワインの甘い味と、極上の肉の余韻が交じり合う、深く官能的な口づけ。
冴子の腕が俺の背中に回り、スーツ越しに俺の体にすがりついてくる。冷徹に生きてきた彼女の孤独が熱狂へと変わり、ただ一人の女としての身の預け方がそこに生み出されていた。
リビングの片隅では、子猫のハイが丸くなって静かに眠っている。
東京の夜景を背に、俺は冴子の体を抱き寄せながら、心の中で冷たい笑みを深めた。
これで、神崎家の心臓部に潜り込む最強の『内通者』は、完全に俺の支配下に落ちた。
大人の密会と極上の餌によって、ゲームはさらに加速していく。




