無力な手
一夜開けた空は快晴で、雲ひとつない。
なのに、こんなに気分が晴れないのは、身震いするほどのざわつきのせいだろう。
逃げないと、と伊澄の心の奥底で本能が警鐘を鳴らし続けている。
ここに留まるのは危険だ。
そう思い立ったら、伊澄は弾かれるように窓から離れアルスの元へ駆け寄った。
未だ眠っているアルスを起こすのは忍びない。
けれど、このままでは伊澄の身も、アルスの身も危ないだろう。
「起きて、お願い……!」
心の中で、ごめんと謝罪を繰り返しながらアルスの肩を揺さぶった。
しかし、いくらアルスの肩を揺さぶろうともアルスの目が開かれることはなかった。
嘘、と伊澄はアルスの顔に耳を近づける。
(大丈夫、呼吸はしてる)
冷や汗が額に滲むが、アルスの呼吸音を捉えるとよかった、と息を吐いた。
そんな安堵した伊澄を、嘲笑うかのように背後で無情にも錠前が落ちる音がした。
無機質な、金属の音。
そして、複数の足音。
それは、伊澄にとってにじり寄る死の音に聞こえた。
身を縮め小さくなった体で、伊澄は振り返る。
ゆっくりと開かれるドアを睨みつけた。
入ってきたのは、顔色の悪い住民たちだった。
あまり眠れていない、という訳でもなさそうだった。誰も彼もが伊澄たちを見つめ、ゆっくりと近づいてくる。
何かを、覚悟した目で。
一瞬にして、ろくな事ではないと伊澄は悟った。
アルスの前に仁王立ちで立ち塞がると、やっと住民たちは足を止めた。
「何用ですか?」
伊澄はできるだけ、悪意を込めて低い声を出した。威嚇のつもりだったが、それは一切聞かないようで、誰一人立ち去ったり、たじろぐ様子もない。
それがとても歯がゆくて、伊澄は地面をいっそう踏みしめる。
「あなたたちに、して欲しいことがある」
住民のひとりが、そう声を上げた。
どこからともなくわらわらと湧き出すように、納屋の中に人がなだれ込んでくる。
有無を言わさずに、住民たちがアルスを伊澄をどこかへ連れていこうと手を伸ばす。
(そんなこと、させない!)
もちろん、伊澄は抵抗した。
手袋を手早く外し、素手で容赦なく住民の手を、足を、体の柔いところを掴んだ。
間髪挟まず、ぐっと息を飲み込みきれずに漏れた声が聞こえる。
それは、体が溶けて耐え難い苦痛に歪む住民の声だった。
その声が耳から離れず、心の奥底に疼き続ける傷跡に触れる。
──あぁ、忘れていたかったのにな……。
その苦悶に満ちる声が重なり合って、過去と現在で交差する。
自分の手には、ベッタリとした感触がする。
この感触を、伊澄は知っている。
ずっとずっと前、伊澄は見た。
赤い海に沈む──両親の姿を。
誰でもない、伊澄が作り出した。
生暖かい、それは──。
重なって、反響しあって、伊澄の反応が遅れた。
背後に迫る人に気が付かなかった。
背中に強い衝撃と、鼻につく土の匂い。自分が押し倒されたのだと気づくにはそう時間はかからなかった。
「ど、いて!!!」
肺が押しつぶされそうだ。
息も苦しくて、身動きが取れないなか伊澄はありったけの力を込めて叫んだ。
地面に伏した伊澄の上に、誰かがのしかかっている。伊澄は這い出そうともがくが、その手も後ろに回されて縄で縛られる。
いよいよ完全に身動ぎひとつできない。
唯一の武器である自分の手も、封じられてしまえばただの手でしかない。
ほぼ一般人の伊澄には元々戦闘能力なんてものはない。
唯一、動く首で辺りを睨みつけて威嚇する。
「アルスをどうするつもり!? やめて、怪我してるの!」
比較的がたいの良い男たちが、意識のないアルスを担いでいた。
傷口なんてきにする様子も見せず、米俵か何かを肩に乗せるように。
「おねがい、雑に扱わないで!」
伊澄の叫びは、届かなくとも。
それでも伊澄は叫び続けた。




