第五章:暖季の訪れと薄荷の香り
季節は巡り、長袖でいると汗ばむようになった。
国の最北にある森の中は、外に比べれば暑くなるような事は無いが、動いていればそれなりに汗はかく。森の木々の隙間から差し込む陽も強く、抜けるような青空の下、森も畑も緑に覆われ、慎ましく咲く花々や蝶の姿が季節を彩り美しい。
そんな時期は畑仕事もいっそう忙しくなり、毎日のように瑞々しい野菜が採れ、食卓も中季のころと比べると大分華やかになる。そのような中、胡桃色の髪をした少女が、こんもりと葉をつけた赤茄子の畑にしゃがみ、大きく実った実をもいでは腕にさげた手提げ籠に丁寧に入れていた。
「たくさん実って偉いですね」
リスは野菜に声を掛ける。毎日畑仕事をしながらそうやって話しかけていたら、喜んだ野菜たちがぐんぐんと育ち、例年よりも多く実りをつけたため、畑を広げなくて良くなった、とディルデュランは呆れていたが、少女が聖女であったことを思えばそうなるだろうと納得して、どんどん実をつけていく野菜たちの収穫に追われている。
その日食べきれなくても、森山羊や角鹿に分けたり、収穫時期が終わる前に色々と加工しておけば、寒季の間も食べられるように保存することもできるとリスは教えられた。相変わらず刻印宝珠を触る事ができず、煮炊きができないままではあるが、その代わり組み紐や裁縫の腕を上げて、今では自身の服を仕立てたり、可愛らしい花の刺繍を刺せるようになっていた。
少女は黙々と収穫をしていたが、赤茄子が手提げ籠いっぱいになったので、立ち上がり右の手で額の汗をぬぐう。その白い肌は少しだけ陽に焼け、こけていた頬はふっくらとした柔らかさを取り戻しており、小柄なのは変わらないが、体の方も幾分丸みが出てきたように見える。毎日栄養価の高い森山羊の乳や、大地の力に満ちた野菜たちを食べたおかげであった。そもそも聖女も森人も大地と共にある存在だった事も大きい。ただの人では同じ食事をしてもこのようにはならず、肉も食べなくては栄養が偏ってしまうだろう。
周りを見渡すと、川上の方でディルデュランが他の野菜を小川の洗い場の側に積んでいるのが見える。リスが赤茄子に掛かりきりになっている間に、もう自分の作業を終えたのだろう。少女はそれに慌てて籠を持ち直すと、男の元へ小走りに駆けて行った。
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あいかわらず仕事が早いです……!
私は赤茄子を落とさないように手提げ籠をしっかりと持つと、足を急がせる。たいして速くないのが悲しいのですが、なるべく急ぐ。自然農法の畑は一区画ごとに高さが違うので、登ったり下りたりで足腰を使う。これでも外に出た時よりは踏ん張れるようになったり、息も切れにくくなっていて、腕の方も少しずつ重い物を持てるようになっていた。
「おまたせしました……!」
小川の側の道を通り、洗い場で私を待つディルデュランへ声を掛ければ、日差しに目を細めながらこちらへ手を伸ばし、手籠を受け取ってくれる。
「たくさん採れたな」
「はい!」
ほんのり目元を緩めてこちらを見て来るのに、私も笑顔で返事をする。
そうですよね! 本当につやつやパンパンに実った赤茄子は美味しそうで、私も頬が緩みます。そのままでも良いのですが、刻んでスープに入れると、爽やかな酸味と旨味が口いっぱいに広がるので、赤茄子はとても好きな野菜だった。
「体を洗ったら洗濯だ」
「はい、そうします」
私の返事にディルデュランは頷く。すでに日課となっているが……独り暮らしの長かった彼は、野菜を洗った後に自分の体と着ていた服を洗ってしまう生活をしており、さすがに私もそうしたらまずいだろうという事で、小屋の中で体を洗わせてもらって着替えたら、服を彼に渡すように折り合いをつけている。私にもっと腕力があったなら洗濯を手伝いたいのだけど……非力すぎて洗ったものを絞れず、挫折することになった。
小屋に戻り、服を脱いで水場で手や顔を洗ったら大きな木桶に水を入れ、洗い豆を使って体を洗っていく。畑仕事の後は汗をかくし、特に足の裏は放っておくと臭くなって、血を吸う虫が寄って来ると聞いているので、足の裏や指の間もしっかり洗う。体と木桶を水で流したら乾いた布で拭いて着替え、午後は畑仕事などはしないので、足用の布を巻き直して、暖季用に編んでもらった植物を使ったサンダルに履き替える。革靴には消毒の作用がある薬草を詰めたら、外の風通しの良い日陰で陰干しする。脱いだ衣類や使った布は小川で野菜を洗って待っているディルデュランの元へと持って行った。
「よろしくお願いします」
「ああ」
そう言って衣類を渡したら、洗ったお昼の分の野菜を渡されるので、平籠に入ったそれらを落とさないように頑張って小屋まで運ぶ。後ろから心配そうな視線を感じますが、だいじょうぶです、だいじょうぶですよ!
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少女から洗濯物を受け取り、その代わりに渡した野菜の入った平籠をよろよろと持って行く背中を男は見送る。
ここでの生活にも随分と慣れ、日々健康を取り戻していく姿に、ディルデュランは一人頷き、善きことだと思う。表情も随分と増えただけでなく、思った事がすぐに顔に出るのが面白いと思う時もあった。
マーシュマロウを送り出してから、変わらずの平穏な日々を二人は送っていたが、こちらが動いていない間も彼が情報収集などで動いている事について、ディルデュランは表には出していないが心配していた。王族と国教の闇に関わる事を探るとなると相応の危険はあるわけで、何かに巻き込まれてしまわないか、古なじみの無事を祈っている。
「平和に暮らしていて良いのだろうか……」
そう呟きつつマーシュマロウの顔を思い浮かべるが、にやけた顔と「二人で仲良く暮らせばいいと思うよ!」という言葉まで一緒に出てきたので、男は眉間のしわを深くし、首を振ると洗濯をする手に力を込めた。
老大樹に会いに行った際、道中大丈夫だ……と気持ちをごまかしてはいたが、独りになった不安に泣かれてしまった事で、自分はリスに必要とされているのが良く分かり、保護欲が湧いてしまっているのだとディルデュランは考える。大地神に愛される聖女であったリス。本来ならば生まれた地を巡り、大地に癒しと祈りを捧げ、その恩恵を人に与える事で敬われ、終生穏やかに生きるはずだったはずだ。それなのに、成人にも満たない年で命を失うような事になるとは……。
「やはり……人は好かぬ……」
ディルデュランは悶々としながら洗った衣類を籠に入れると、晴天の空をにらみながら独り言ちた。
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お昼を軽く食べた後、私とディルデュランは収穫した赤茄子の中から小さいものを選び、乾燥赤茄子を作ることにする。大きなものはそのまま食べるか、暖季が終わる前に香草などと煮込んで、油や唐辛子、香草などと一緒に壷詰めにし、保存食へと加工すると教えてもらった。
赤茄子はくし形に切ったら水気を取り、カビないように塩を振ってさらに水を抜く。そうしたら平鍋に並べて蓋は完全に閉めず、小さい刻印宝珠を使って上から弱い熱を加え、残りの水分を飛ばす。ある程度乾いたら平籠に入れて数日天日干しにし、それをさらに香草と植物油と共に壷詰めにしたりもする。
単純な工程なのだけど数が多いし、天日干しは天気をよく見て、雨に当たらないようにしなければいけない。私は竈につきっきりになっているディルデュランの背中を見ながら、赤茄子を黙々とくし切りにしていた。小屋の中は窓を開けていても独特の青酸っぱい香りでいっぱいで、何とも言えない清々しさを感じた。
「沢山作るということは、これもマーシュマロウさんが引き取っていくのですか」
「ああ……」
ディルデュランの口が重い。彼が旅立ってからそれなりの時間が過ぎている。そろそろこちらに一度立ち寄る頃だと聞いてはいるけど、知らせがあるわけではないから心配なのかもしれない。森人はとても数が少ないそうだから、表には出していないけれど、きっとそうなのだろう。
私は籠に盛られた赤茄子を一つ手に取り、掌で転がす。自分が命を失いかけた原因を知るのは怖い気もするけれど、私にも家族や親族がいたのだろうか……と思うと、知りたい気持ちも出てくる。私の家族、どんな人たちだったのだろう。でも、私を捨てた人であることも考えられたから、それを思うとちくりと胸が痛むのだった。
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半渇きになった赤茄子がだいぶ溜まる頃、天日干しに適した時期となり、畑に出る前に外へそれを入れた平籠を出し、夕方には作業小屋へしまうという作業が増える。それに合わせてディルデュランは、リスを森の中へと入れることにする。
森の中、と言っても小屋からさほど離れていないので歩いて行け、起伏も少なく比較的安全な道のりである。
「足元に気を付けるように」
「はい」
最後の半渇きの赤茄子を入れた手提げ籠を少女は慎重に持ち、空いている手はディルデュランが握って支えている。そうして森の中へ足を踏み入れたリスは、木々が作る光と影の陰影や緑の鮮やかさ、小屋の周りには見られない花やその果実に息をのんだ。
「森の中は気持ちよいですね……それに、綺麗……です」
木々の枝葉がその言葉に呼応するようにさわさわと揺れ、心地よい風が二人の頬をくすぐる。光の精ほど強くはないが、少女は風の精の気配を感じ、目を閉じる。
森には他にも水や土の精霊も多いが、その気配を感じるだけで、基本はこちらに対して何か主張をすることがない。だから、リスに対して光の精が強く反応したことが極めて稀なことなのだというのが、ここで暮らしてみて分かったことだった。あの時、他の精霊たちも少女を救いたいと思っていた。だが、命を差し出すと番人大樹の周辺一帯が枯れてしまうため、一番被害が少ない光の精が命を差し出している。ディルデュランはそれに気づいてはいたが、精霊たちが黙していることを少女に伝えていなかった。
「行くぞ」
「あ、はい。行きましょう」
目を閉じていたリスの手を引き、男は歩く。だいぶ足元がしっかりしてきたとはいえよく転ぶ、歩き慣れない場所では慎重になった方が良い。そう思いながらリスの歩みを見て、前へ進む。
ほどなくして、木が生えておらず陽がさんさんと当たる場所に、小さな作業小屋が見えてきた。ここは乾燥させた薬草なども入れている倉庫でもあり、小川がなく湿気の少ない場所に建てられている。
その周りには、丸太のてっぺんを平らに削った乾燥用の台がいくつも置いてあり、その上に赤茄子を入れた平籠を置いて日に当てるようになっている。次の中期が近づく頃には、干し果物を作る場所にもなった。小屋の中は天井近くまで棚が作られていて、天日干し用の平籠も沢山用意してある。それらを外へ出して丸太の上に置き、赤茄子を並べていく。この後には畑仕事もあるので慌ただしいが、手順を教えられると少女が楽しそうに作業を始めるのが微笑ましい。
「この上へ置けばよいのですね」
「ああ、くっつかないように並べてくれ」
「はい」
忙しくも穏やかな時間が流れていく……。が、赤茄子を並べ終わったあたりで、リスの様子がおかしいのにディルデュランは気づいた。顔がいつもより赤く、足元がおぼつかないうえに、髪の周りで光の精が強く瞬いて異常を知らせている。
「リス、どうした」
「え……」
中腰で平籠を見ていた少女は男の声に顔を上げる。が、その瞬間、眩暈を起こしてその場に崩れ落ちた。
「リス!」
今日は朝から気温が高かったせいだ、とディルデュランは思い、慌てて走ると地面に座り込んだ少女を支える。思った通り、掌を額に当てると熱があり、暑さにやられたのだと分かった。
男はリスを抱きかかえると手提げ籠を拾い、丸太小屋の方へ向かう。この場所には小川がないため、こもった熱を冷ますには水がなかった。
作業小屋に向かった時の何倍も速く丸太小屋に戻ったディルデュランは、リスを涼しい風が通る木陰に座らせ、革靴を脱がせると腰の紐を緩める。そして、お互いの腰に下げていた汗取りの布を小川の冷たい水に浸して濡らし、頭と首の後ろに当てた。ひんやりとした感覚に少女は目を開けると、心配そうな顔をしたディルデュランと目が合う。
「すみません……今日は暑いですね……と思っていたのですが」
「謝らなくていい。暫くここで休んでいろ。頭は痛くないか」
「少し痛いです」
「そうか、少し待っていろ」
そう言ってディルデュランは立ち上がると小屋へと向かう。その背中をリスは見送り、瞼を閉じる。風の精だろうか。涼しい風が自分の所へ向かって吹いてくるのを感じ、体の力を抜く。頭は痛むが、とても気持ちが良かった。
少しすると、水差しと器、木桶などを持った男が戻って来て、少女へ器を渡すと中の液体を注ぎ、飲むように話す。
「これは暑さにやられたときに飲むものだ。水に塩と砂糖を混ぜている。美味いものではないが、飲みなさい」
リスは頷いて器を受け取り、それを飲み込んだ。初めは砂糖の甘みと同時に塩気も感じ、飲み進めると変な甘さが口の中に残って、確かに美味しくはない。しかし、体が水分を欲していたのか、器一つ分をすぐに飲み切り、一息ついて少女はお礼の言葉を述べ、器をディルデュランへと返す。
「ありがとうございます……」
「ここに置いておく。少しずつ飲むと良い」
虫が入らないように持ってきた木桶の中へ水差しと器を入れて布をかけると、少女の傍らに置く。いつでも飲めるようにしていると、申し訳なさそうなリスと視線が合う。それにディルデュランは「気にするな」と頷き、それから少女の頬を安心させるかのようにそっと撫でた。
それからリスの様子を見ながら畑仕事を終わらせたディルデュランは、リスを小屋の寝台へ運んで休ませる。いつも通り洗濯まで済ませると、体温を下げる作用のある赤茄子と胡瓜をすり下ろし、塩と香草で味を調えた冷たいスープを作って食べさせた。そして、元気でいるからと油断したことを猛省し、夜なべをして草藁を使った日よけの帽子を編み、次の日にはリスに手渡したのだった。
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大失敗をしてしまいました……。
私は寝台に横になりながら、風通しのため開けられたままになっている寝室の扉へ視線を移す。すでに時間は夜なので、光り虫のほのかな明かりが入って来て部屋の中は明るいが、私の気持ちはそうではなかった。
昼に続いて夜も、暑さにやられたときに食べると良い食事を少し、森の中から採取した小さな柑橘の実のすっぱい果汁と、糖蜜を水で割ったものをいただいたりしていて、甲斐甲斐しく世話を焼かれている。だけど、ディルデュランは私が倒れたことに責任を感じているのだろうと思うと、申し訳なさでいっぱいになる。
「暖季の暑さというものを甘く見ていました……」
ここに来てから、だいぶ健康になってきたと思っていたのだけど……陽に当たることについては光の精が好むので問題なくても、暑さは駄目だった。記憶を無くす前の私は、この時期どうしていたのだろう?いや、外に出たことがなかったのだろうから、暑さにやられる……ということがなかったのかもしれない。そんな風にとりとめのないことを考えていたら、ディルデュランが様子を見に来てくれた。
「眠れないか」
心配を含んだ優しい声。心配をかけるのは嫌なのだけど、私にかけてくれる優しい声はとても好きだから、複雑な気持ちになる。
ふと、木陰に座って休んでいた時に頬を触れられたことを思い出し、ああ、あれは気持ちが良かったな……また触れて欲しいな、という気持ちが湧いたのには驚いた。けれど、それは子供みたいな甘えではないかと思ったので、私は言葉を飲み込む。
「大丈夫です、もう眩暈もしないですし」
「そうか……」
体に籠った熱もすっかり引いている。昼と夜に食べた物が良く効いていて、薬草だけでなく、全ての食べ物には様々な栄養や効能があるから、と教えてくれるディルデュランは、博識なのだとつくづく思った。それに比べて私は、本当に空っぽで。だけど、だからこそ沢山のことを知ることが嬉しく、ディルデュランは頓着せず私が不思議に思うことを教えてくれるから、毎日が楽しくて。
彼といる時間は、言葉にするのが難しいのだけど、大切な宝物のような……かけがえのない時間……今ではそう思えていた。
「良く休め」
「はい」
そう言って部屋から出る背中を、私は名残惜しく見てしまう。だけど、今は彼の言う通りに休んで早く体調を直さなくては、もっと心配をかけてしまうと思い、私は深く息をつくと、眠るために瞼を閉じたのだった。
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倒れた次の日の朝。
夜なべして編んだ草藁帽子を渡された少女は、それを受け取ると目を丸くして男を見上げた。
「自分が大丈夫でも、リスはそうでないことを失念していた。すまない」
「ディルデュランさんは悪くないです。私があのくらいの暑さに負けてしまうことは、お互い知らなかったじゃないですか」
「しかし……」
自分が体調を悪くするたびに責任を感じるディルデュランについて、それは過分だとばかりに首をぶんぶんと振って、少女は男の言葉を否定する。
「心配してくれるのはありがたいのですが、あまり気に病んではいけないと思います。だいぶ良くなりましたし……あと……帽子をありがとうございます。嬉しいです!」
帽子を胸に抱えたリスは、困ったように眉根を寄せるディルデュランへ、柔らかくふわりとした笑顔を向けた。それを見た男は少し目を見開いた後、視線を逸らして黙ってしまう。自分の責任だと頭を悩ませていたのに、少女の言葉と笑顔一つで気持ちが軽くなってしまったとは、言えなかったのだ。
「どうしました?」
「……いや、気に入ってくれたなら良かった」
こちらを不思議そうに見つめてくる少女へ不器用な言葉を返し、男は気恥ずかしさを隠すように朝食の支度を始める。
赤茄子に玉葱と青豌豆、森山羊の乳を使ったスープに、暑さ負けに効果のあるという、薄ピンクの花を咲かせる野茨の実を、糖蜜と水を加えて煮たものをお湯で割ったのを出そうと考える。ディルデュランにとって、リスのための食事を作ることは苦ではなく、むしろ独りでいた頃に雑に食事をしていたことを反省する機会にもなった。
少女が来てから短い時間で、色々なことが変わった……。そう感じたディルデュランは、卓の上の野菜籠へ手を伸ばすリスの方へ視線を移す。視線が合うと少女は苦笑しながら赤茄子を一つ手に取って、
「食事の支度くらいは手伝わせてください。あとは休んでますので」
そう言ってきた。
正直、何もせず休んでいて欲しいとディルデュランは内心思う。だが、できることはしたい、という少女の気持ちは無下にしてはいけないと考え直し、戸棚から器を出すと少女に手渡す。
「赤茄子は私が刻む。青豌豆をさやから出してくれ」
「……はい!」
器を受け取り嬉しそうにする少女を見て、少し目元を緩める。少女に青豌豆を任せた男は、赤茄子へと手を伸ばす。こういうやり取りもすっかり当たり前になっていること。それがこの先も続いていくことは、自分にとって良いことなのか……。独りで生きてきたディルデュランの悩みと戸惑いは、尽きなかった。
それから二日ほど休んだリスはすっかり体調を戻し、日々の作業をまたできるようになった。その頭にはディルデュランが編んだ草藁帽子が乗せられ、それが少女を暑さから守っている。帽子はかぶっているといないとでは大違いで、さらに薄荷水で濡らした布を首に巻くことで、だいぶ涼しくなった。
薄荷は日当たりがよく、少し湿った場所を好む多年草。その葉や茎には強い清涼感があるため、葉にお湯を注いで爽やかなお茶として飲んだり、水の中で葉を揉み、その水で布を濡らして体を拭いたり、それを首に巻いて暑さよけにしたりする。そして、その香りは虫よけになるので、暖季の間はかかせない薬草である。
リスはそういった森の知識を一生懸命に聞いて、少しずつそれを自分のものにしている。だが、気持ちが急いていると感じていたディルデュランが「急がなくて良い」と言ったところ、
「早くディルデュランさんみたいに博識になって……そして心配かけないように……同じくらい強く逞しくなりたいです……!」
と返され、男は言葉を失い、視線を彷徨わせる。知識はともかく、自分と同じように強く逞しくなるのは無理ではないか。そう思ったことは、決して口に出しはしなかった。だが、少女が力強く握りこぶしを握り、キラキラした瞳でこちらを見上げてくるのが案外面白かったので、思わず笑いが漏れ出てしまった。
「ゔっん……いや、うん、立派な志だ」
「え、え……今……笑いました?」
しまったと思い、咳払いでごまかして右手で口元を隠す。リスが驚いてこちらに近寄り、一生懸命に顔を見ようとするのを避け、最小限の動きで逃げていると、業を煮やした少女が背中に抱き着くというより、体当たりでディルデュランの動きを止めてくる。
「リス……!」
「隠さないで良いと思います」
「いや……」
「私、笑ってもらって……嬉しかったです。だから、もっと笑ってください!」
そんなことまで言われた男は驚き、後ろを振り返る。小さいので、帽子とふわふわした光の粒を孕んだ胡桃色の髪しか見えなかったが、真剣なのだろう。
暑気よけの薄荷の香りと、服を少女なりに強く引っ張っているのを感じて、これ以上ごまかすのは良くないと考えたディルデュランは、どうしようかと空を仰ぎ、
「検討しておく」
と、なんとか返事を返したのだった。




