第四章:曇り空と老大樹
次の日の朝、夜明けとともにディルデュランとマーシュマロウは、日が暮れる前に戻ると言って、馬と大きな角鹿に乗って出掛けてしまった。私も老大樹様の所に行くのかと思っていたから、留守番と聞いて泣きそう。
「まだリスには無理だ」
と言われたので、しんなり落ち込む私でしたが、驢馬さんたちが私の側に来て「ヒーホーヒーホー」と鳴いて、首の所を撫でさせてくれたり、森山羊たちも今日は遠くまで行かず、森の際の草を食んでくれているし、子山羊が時々走って来て遊ぼうと私の長衣の裾を引っ張るから、畑の辺りを回ったりして、寂しくはないのですが……一緒に動き回ったら疲れてしまった。
大樹の根っこに座り、ため息を吐くと、その度に光の粒も髪からぽろりと零れ落ちて、私の肩の上で「元気を出して」と跳ねるのが見えるけれども、気持ちはとても憂鬱。
「逞しくなりたい……早く一緒に森に行けたらいいのに……」
二人とも足がとてもしっかりしていて、平気で何時間も乗馬したり歩いたりできるそうで、そこまでなるのに私はどれ位かかるのかと、遠い目をしてしまう。
空を見上げれば曇り空。まるで今の私の気持ちのようだった。独りで食べるお昼は、きっと味気ないだろう。お昼はパンに乳酪と果実を煮詰めたものを挟んで、外で食べないと。理由は分からないけど、そうでもしないと心が折れてしまいそうで、きっと記憶を失う前の私も寂しい思いをしていたからでは……? と少し考えた。だって、誰かと一緒に食べる食事は美味しくて、温かいもので胸が一杯になるのに、それを思い出せない事ってあるのだろうか……。
「午後からは組み紐の練習しないと……」
ディルデュランからそう言われていたので、のろのろとお昼を作りに立ち上がる。私が寝ている間に焼いていてくれてた平たいパンを半分に切って、乳酪と果実を煮詰めたものを挟んで布に包むと、湯冷ましを入れた器を持って、また外に出る。
「寂しいです……」
そう言ってもそもそとお昼を食べていたら、驢馬たちがまた近寄って来て、パンを欲しそうにしていたので、私はそれを驢馬たちと分けて食べることにした。
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「一緒に連れていければ良かったんだが……」
ディルデュランは、置いて行かれるのにしおしおになったリスの姿を思い出して肩を落とす。いつかは老大樹の元へ連れて行くつもりではいたが、今の段階では無理な話で、そこまで行くには馬や鹿の足でも数時間がかり、角鹿に乗る技術が必要だった。
「獣道しかないもんね。もっと体が丈夫にならないと危ないよ」
「その通りだ」
薄い光が差し込む中、二人は喋りながら、大角と馬の背に揺られ、木々と岩の隙間を縫うように進む。大角は慣れたもので、すいすいと前へ進むが、馬の方は時々足を取られそうになる。そのような所では、マーシュマロウがうまいこと誘導して進んでいた。
「……あんた、人嫌いだったのにね。リスちゃんは大事にしてるんじゃん」
「リスは……もう人ではなくなってしまった。………もし……出自が分かったとしても、ここへ捨て置かれる位だ。幸せな生き方では無さそうなのがな」
先を行くディルデュランの顔は見えないが、焦げ茶色のローブの背中が少し丸まっている。ここに至るまで彼なりに悩んだのだろうと、マーシュマロウは察し、言葉を繋ぐ。
「じゃあ、あんたが幸せにすればいいじゃん」
「私が?」
ディルデュランが、なぜという目をして振り返った。色々と人嫌いを拗らせて孤独を選んだ男が、せっせとあの小さな少女の世話をする姿は、正直面白いと思っていた。だが、今の返事を聞いて、思ったより真面目に考えてやらないとこれは駄目だ、とマーシュマロウは真顔になってしまう。
「うん? 他に誰が?」
「……………………」
「固まるなよ~。無理にとは言わないけどさあ~。リスちゃんは、あんたと一緒にいて毎日楽しいって言ってたじゃん」
「……リスはまだ子供だ。ふざけた事を言うな」
そこから前を向いてだんまりになってしまったディルデュランの背中に、マーシュマロウは木の実をぶつけて、
「寿命長くなったんだから、気にせず待てばいいじゃんよ」
と言ったところで話をやめる。別に喧嘩するつもりはなく、寂しい人生をやめてほしかっただけではあるが、彼が言ったようにリスの寿命が長くなっているなら、ゆっくりで良いのかとも思う。
マーシュマロウは頑固な古なじみに「仕方ないなあ」と思いつつ、慣れない場所を歩く馬の手綱を操った。そうして森を奥へ進み、曇ってはいるが、時間にして太陽がてっぺんに差し掛かるころ、二人は一本の巨大な針葉樹が見えてくる場所へと差し掛かり、そこで一旦馬を休めることにする。
「老大樹の元へ来るのは五十年ぶりかなあ……」
マーシュマロウが干した果物をかじりながら呟く。
「私は二十年に一度は挨拶に来ていたが、伺うために来るのは森を閉じた時以来だ」
ディルデュランも同じように干した果物をかじり、小川の水を飲んでいた大角の背を撫でる。もう少し行けば森が開け、男の住む丸太小屋の大樹より遥かに大きい樹が現れる。
太古の森と呼ばれる場所には、必ずその地一帯を統べる特別な大木が存在していて、今から向かう老大樹もその一本。それは一本でありながら木々の全体であり、大地に根差し、不動でありながら、はるか遠くの木々の知るところを知り、それを語る力を持つ特別な樹であった。
「番人の大樹に詳しく聞ければ良いのだが、あの樹はまだうまく話せんからな」
「まあ、あと千年生きないとねー」
固まった背中を伸ばしてマーシュマロウが深呼吸すれば、清らかな森の空気はやはり懐かしく、今は無き故郷を思い出さずにはいられなかった。そうやってしばし休んでいると、
「さて、もう少しだ」
と、ディルデュランに声を掛けられ、後ろを振り返る。すでに大角に跨っているその姿に、日が暮れるまでに帰ると言ってたから急いでるなあ……と苦笑しつつ、マーシュマロウは、
「はいよー」
と返事を返して、自身も馬にまたがる。そうして二人は、老大樹の足元に向かい、足を進めたのだった。
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太古の森のその中心、岩と羊歯に古い樹々が並ぶ一帯は、常にうっすらと靄がかかり、神秘的な静寂に満ちている。特に今は空が曇っているため陽はなおのこと薄く、強い湿気が外套にまとわりつくように流れるのを感じられた。
ディルデュランとマーシュマロウはここで大角と馬から降り、樹間を徒歩でさらに進んでいく。ここからは更に足元が悪くなるので、二人を乗せたまま前に進むのは危なかった。そうしていくらか進むと、徐々に樹々がまばらになり、それが無くなるころには、目の前に巨大な針葉樹が迫っていた。
高く高く伸びた太い幹の根元は羊歯に囲まれ、樹皮はごつごつと固く苔むしている。見上げたその先の樹頭にだけ枝葉が集まっているため寂しく見えるが、枯れた印象は無く、強い命を感じさせる荘厳さがその古木にはあった。
大角は呼べば来るので好きにさせ、馬は繋いで、二人は古木の根元へと歩む。そして、ディルデュランはローブのフードを、マーシュマロウは帽子を取って左の掌を胸に置き跪くと、森人の古式に則った挨拶を老大樹へとおこなった。
「お久しぶりでございます、老大樹どの。旅の鳥マーシュマロウです。相変わらずお元気でそうで何よりです」
「老大樹どの、お変わりなく。森の守護ディルデュランです。本日はお話を聞きたく参りました」
ざわりと枝が揺れる。繋いでいた馬が異変に驚いて嘶き、周りの樹にとまっていた鳥たちが羽ばたいた。老大樹自体が大きく動いているわけではないが、その周りの空気が揺れるような感覚になった。
『おお……息災であったか……森人の子たち……』
皮膚がびりびりするような声が響く。しかし、老大樹の声は耳からは聞こえておらず、直接頭に届いているため、二人は思わず身を竦める。
「老大樹殿……相変わらずお声が大きい!」
五十年ぶりに声を聞いたマーシュマロウは顔を上げると、両手で耳を塞ぐ。直接聞こえるのだから塞いでも仕方が無いのだが、ついそうしてしまっていた。
『ほ……ほ……ほ……』
笑うと幹から瘡蓋のように樹皮がぽろぽろ落ち、|跪く二人の足元へ、こつん、こつんと転がって来る。
『まあ……どこかへ……座って……話は……ディルデュランの……養い子の……ことね……』
ここまで急いで来た二人は疲れていたので、ありがたく座るのによさげな岩を見つけて腰をおろした。ディルデュランは改めて老大樹を見上げ、姿勢を正す。
「やはり、知っておられましたか」
『うん……知ってるよ……あの子を捨てた者……大司祭……と……口にしていた……と……森の入口の……若い大樹……が……言ってた……それを聞きに……来たの……よね……』
「はい」
『あの子……まだ……しゃべれないもん……ね……ほ……ほ……ほ……』
また笑って樹皮が落ちて来る。当たると結構痛いものもあるので、マーシュマロウは器用に体を動かして避けているが、老大樹は構わず枝をさわさわと動かしながら話し続ける。
『そうそう……リス……ね……あの子は……聖女……だねえ……でも……どうしたの……あんな風に……なっちゃって……可哀そうに』
不思議そうにしている老大樹の言葉に、二人は顔を見合わせる。聖女とあれば国教と関りがある事は、これで間違い無くなった。
『聖女は……大地神と……仲良しになれる……特別な子たち……あちこちに……いて……各地を……巡り……豊作を……願って……お祈り……するのがお仕事……そうね……最近見かけない……お祈り……やめちゃった……?』
老大樹にとっての「最近」は数百年単位。ディルデュランはマーシュマロウが話してくれた事を思い返し、腕を組む。
「老大樹どの、もしかしたらヒールニールの国教……大聖堂と王族の間で、刻印宝珠と聖女を悪用した何かが行われているかもしれません」
『なる……ほど……ふむ……』
空気が強くざわめく。老大樹は幹を軋ませ、何かを考えているように枝を揺らしたので、二人は黙って次の言葉を待つことにした。
老大樹は自分の届く範囲の木々に繋がり、感じる範囲の異変を探る。アレンデの辺りまで意識を伸ばせば、南に向かうほど地力が不自然にむらなく上がっているのが分かり、違和感を覚えたところで、意識を根元に座る二人へと戻す。
『遠く……の……方……なんか……変……ね……地の力が……不自然……に……強く……なってるね……』
「そうか……なんとなく掴めてきた」
マーシュマロウは話を聞いて、やはり自分が思っていたことをやらなくては……と表情を曇らせ、立ち上がる。
「ありがとうございます、老大樹どの。これは森人が片付けなくてはいけない問題みたいです」
ディルデュランも頭を振りながら立ち上がる。聖女であったリスを捨てたのは国教の大司祭。不自然な地力の上昇と刻印宝珠との関係性を探れば、間違いなく闇深いものになるだろう。
「リスになんと言えば……」
足元を埋める苔を見つめ、男は呟く。頭に少女の屈託の無い笑顔が浮かぶが、命を奪いかけた原因が、森人が広めた刻印宝珠であるのが濃厚になった今、リスがどう思うだろうと暗い気持ちになる。マーシュマロウを見れば、彼も同じように苦い顔をしていた。
『二人が……広めた……分けでない……よね』
「それはそうだが……」
優しく諭すように語る老大樹へ、ディルデュランは申し訳なさそうにする。マーシュマロウが「えー」と頭をぽりぽりと掻いていると、老大樹はパラパラと樹皮を落とす。
「いてっ! 痛いって!」
『ほ……ほ……ほ……そうね……ハーツイーズ……を……探しな……さい……この辺には……いないけど……あの子は……きっと……人の……側にいる……』
「ハーツイーズ?」
老大樹は『ハーツイーズ』という名を出してから暫し考えた後、最近見かけなくなった、人に「刻印宝珠を教えた」と話した子を思い浮かべながら枝を揺らし、語り掛ける。
『どんな……子……だったかな……おしゃべり……な……女の子……だった……かな……』
「ヒントそれだけえ?」
マーシュマロウが両手を上にあげて叫ぶが、特殊な感覚だけで生きている樹木は、森人や人の見た目を視覚的にとらえている訳ではなく、根元にいる二人の事も命の輝きでしか認識していないので、見た目に関しては何も言えなかった。
『ほ……ほ……ほ……』
そうして老大樹は穏やかに笑うだけで、それ以上言葉を返すことは無く、二人は顔を見合わせ、これ以上何も出てこないなと頷くと、老大樹へ礼を尽くして別れを言い、大角と馬を連れて急ぎ帰路へとついたのだった。
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あれから私は、小屋の中に一人でいるのが嫌で、外に丸椅子を置いて組み紐の練習をしてしまった。外は曇っていたし、その方が手元が明るくて良かったから、という事にして、黙々と染め分けされた糸を組む。この作業は楽しくて好きだ。ディルデュランが作ったようにはいかないけど。
紐は薄い木の板を円盤の形に切り、その外周に糸を掛けるためのたくさんの溝と、真ん中に小穴が開いたそれを使って編んでいく。まず、4本の刺しゅう糸を一束にして中心から半分に折り、折った方を指先ほどの大きさの輪ができるよう結ぶ。円盤の穴に結び目を通したら、そこへ重りをつけて垂らし、八本となった糸は2本ずつ4方向……十字の形に分けて溝にかける。そうしたら左に回しつつ、糸を向かい側の、すでに糸がかかっているその右の溝へ移動して溝にかける。これを繰り返して細い丸紐を作っていた。
他にも糸の数を増やしたり、違う作り方があるそうだけど、私が教えてもらったのはこの編み方。そうして編み上がった紐に木で作った玉や、鹿角の飾りボタンを通してひと結びすれば、手首を飾るのにちょうどよい長さになった。
そうして、練習を繰り返している内に空が暗くなり始めたので、私は組み紐の道具と丸椅子を片付けると、森山羊と驢馬たちへ声を掛けて回る。
「そろそろ樹洞へ行きましょうね、今日は早く暗くなりますよ」
そう、今日は曇りだ。いつもより早く夜がやってくるから、光り虫の用意もしないといけない。なのに、組み紐の練習をしていた時はおさまっていた不安がぶり返してしまい、私は集まって来た森山羊をぎゅっと抱きしめた。
「暗くなるまでには帰ると言ってましたけど……」
ふかふかの長い毛が温かい。このまま抱き着いていたいけれど、森山羊が困ったように鳴くので、私は樹洞へ入っていくのを切なく見送ると、出入り口の柵を閉じる。
「早く帰って来てください……」
そう言って、外の草むらに置いておいた光り虫の籠を取りに向かった。
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曇りの日の夜は早い。ディルデュランはマーシュマロウの馬の足に合わせて大角を走らせていたが、リスに伝えていた時間より帰るのが遅くなりそうだと空を見上げる。森の最奥を抜けた事でだいぶ足元が良くなってはいるが、人の手が入らない森の地面は起伏があり、平地を行くのに向いている馬は早く疲れるので、休みを入れながらだとどうしても時間がかかった。
「俺、ここの鹿角と仲良くないからなー」
後ろをついてくるマーシュマロウが、自身の愛馬の首を撫でながら、先を行くディルデュランへ声を掛ける。角鹿は気性が荒く、慣れてないものを背中に乗せることは無いので仕方が無い。
「気にするな、良い馬だ」
「ありがとさん。それにしても、森の中はやっぱり暗くなるの早いなあ。光の刻印宝珠、出しちゃお」
腰のベルトに結びつけていた小袋から半透明の宝珠を出す。それには紐が結びつけてあり、首にかけてまじないを唱えると明かりが灯り、自分の周囲が明るくなった。ディルデュランも同じように刻印宝珠を使う。二人で明かりを灯した分、周囲はかなり明るくなった。
「暗いと獣が寄って来るからね」
「大角はともかく、馬は狙われる」
「だねえ」
夕刻を過ぎ、鳥たちの囀りが無くなると静寂が訪れる。その代わりに夜行性の獣たちの遠吠えが聞こえ始め、森は夜に包まれていく。ディルデュランは一人で留守番をしているリスを思う。今まで一人にさせたことが無かったので心配ではあるのだが、最低限の事は教えてきたつもりで、もし獣が来ても少女には光の精がついているから守られるはず……と、心配を振り切るように独り言ちた。
「ディルデュラン、国教と刻印宝珠の件は俺が一旦調べていいか?」
そうして黙々と進んでいたら、ふいにマーシュマロウが話し始める。
「ハーツイーズの事も探さないといけないし、今所在が分かっている同胞にも声かけたくてさ」
「それは……構わんが」
刻印宝珠と国教について動くとなれば、綿密な計画と人手がいるのは間違いなく、老大樹が教えてくれたハーツイーズという名の森人からも詳しい話を聞かないといけないだろう。ディルデュランは頷き、今回ばかりは自分も外へ出て何かしなくてはならないか……と思い、口を開きかける。
「そうそう、一旦準備が整ったらあんたの所に集まるから、それまでリスちゃんと仲良くしててな!」
「……おい!」
思わず後ろを振り返り、鋭い目でマーシュマロウを睨む。またそんな事を……と言う風に、ディルデュランは眉間に皺を寄せた。
「あれ? 手伝う気だった? いやだって、あんたリスちゃん置いて森出れる? もう少し引きこもっててよ、役目は色々考えとくからさ」
苦い顔をしている同胞に、にっこり笑いながらマーシュマロウは片手をひらひらと振る。今だってリスの事を案じて急ぎ足で進んでいる古なじみの焦りは手に取るように分かっていて、大変良い事だと思いつつ手綱を操る。
「どうせ商売で各地を回るんだ、寒季が来るまでは準備期間だと思って」
「……分かった」
そうしてしぶしぶ返事をし、前を向いてまただんまりになってしまったディルデュランに苦笑しつつ、マーシュマロウは馬を進めたのだった。
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夜が……来てしまいました……。
肌寒さを感じた私は、寝室に置いておいた毛糸で編んだショールを手に取ると肩にかけ、光り虫が出す仄かな明かりの下、小屋の中をうろうろとする。本来なら夕食の支度をする時間なので、自分にできる事だけはと思い、葉野菜と根菜類を綺麗に洗っておいて、昼に食べなかった果物と一緒に卓の上に出したりしていたのだけど、あっという間にやることが無くなって落ち着かなくなった。
外からは夜行性の鳥の低い鳴き声だけでなく、森の奥から獣の遠吠えも聞こえだし、不安感が募ってしまう。窓の外は雲で星も見えないので、森の際と空の間が分かるか分からないかの暗さに、首を竦めて部屋の真ん中にある卓の方へと後ずさった。
「独りの夜がこんなに怖いなんて!」
口が重いディルデュランでも、いるといないでは大違い……。落ち着き払っている姿があるだけで、どれだけありがたい事なのか……と、私は卓の周りをぐるぐると周って心を落ち着けようと頑張ってみるけれども、焼け石に水でした。それから一時間ほど落ち着かない時間を過ごし、もう泣いていいかな! と思ったところで馬の嘶きが聞こえ、私はいてもたってもいられず出入り口の扉を開けると、暗闇の中こちらに向かっている二つの光に向かって大きく手を振った。
「……おかえりなさい!」
髪から光りの精も飛び出し、私の周りを明るくしてくれたので、きっと向こうもこちらが見えるだろう。
「リス!」
私の声にディルデュランの大きな声が返って来て、それに酷く安心したせいか涙がこぼれる。ここへ来てから泣いたことが無かったので自分でもびっくりしたけど、それよりも二人がもっと驚いてしまうのでは……と思い、慌てて手の甲で涙をぬぐったのですが、これがなかなか涙が止まってくれず、私はどうしよう……と困ってしまったのだった。
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ようやく大樹に寄り掛かり建つ丸太小屋が見えたと思ったら、その扉が開かれ、ほの明るい室内からの光を受けて、影でしか見えない少女の姿が見えた。先ほど馬が嘶いたので、その音で二人が帰って来たのに気付いたのだろう。大きく手を振ると、髪から光の精が飛び出して光り、その姿がはっきり見えるようになった。
「おかえりなさい!」
大きくはない声だが、森人のディルデュランの耳にはリスの声が聞こえ、無事で良かったと息を吐く。そうして光の精の輝きで、そこだけに陽がさしているような光景に、なんともむず痒い気持ちになり、男はそれを打ち消すように声を上げ、自身の帰還を告げる。大角も光に向かって足を速める。
「おー! お出迎えか、嬉しいなあ」
マーシュマロウも馬の足を速め、ほっとしたような声を出す。馬に不慣れな道を行かせてしまった事もあり、ようやくしっかり休ませてやれるという気持ちも出たのかもしれない。しかし小屋へ近づくにつれ、少女が顔をぬぐうように手を動かしているのに気付いた二人は顔を見合わせる。
「……もしかして……リスちゃん泣いてる?」
「……………」
ディルデュランはすぐに顔を強張らせ、大角の首を軽く叩く。大角も男の気持ちを分かっているかのように、疲れをものともせぬ走りで小屋へと向かった。
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「遅くなった」
大角から降りたディルデュランに声をかけられ、大きくて温かい手が肩に乗せられた瞬間、怖くて仕方が無い気持ちが落ち着いていく。今、自分の顔がどうなっているのか考えたくないけど、今の私にとって彼の存在の大きさを感じて、安心したのにもかかわらず次々と涙が出てしまった。
「暗くなったら怖くなってしまいました、すみません」
ああ、泣いたら迷惑がかかってしまうのに、どうして止まらないんだろう。何度も手の甲で顔をぬぐってしまったので、頬がひりひりしてきた。
「謝らなくて良い」
低く優しさを含む声でそう言われ、何度も頷く。側にいた大角も鼻先をこちらに向け様子を見ていて、その深い色の瞳は何を考えているか分かりにくいけど、きっと気にかけてくれているのだろうと感じて、私は俯き、涙を一生懸命止めることにする。夜行性ではない角鹿が暗くなるまで頑張ったのに、泣くほど動揺してしまった自分が恥ずかしく、気持ちを入れ替えるために深呼吸して最後の涙をぬぐい、顔をあげた。
「……大角さん、お疲れさまでした」
少し声が震えたが、こちらをまだ見ている大角に声を掛ける。私の肩から手を放さないディルデュランも、空いている方の手でその背を撫でつつ、
「今日はここで休んで、明るくなったら森へ帰るといい」
と労りの声をかける。そうして私が泣き止んだのと、ディルデュランからかけられたその言葉に、大角はその身を小川の方へ向けると水を飲みに行き、そこへマーシュマロウと馬が追い付いた。
「リスちゃん大丈夫!?」
馬から降りて心配そうにこちらを見て来る彼の姿に、再びいたたまれなくなった私は、
「もう大丈夫です!」
と声を上げ、二人に背を向けて顔を洗うため小屋の中へと飛びこむ。これ以上情けない姿を見られるのは、本当に恥ずかしかった。後ろから、「ほら~、離れない方がイイって~」というマーシュマロウの声と、低く唸るディルデュランの声が聞こえたが、何の事だか分からない私は不思議に思いつつ、急いで水瓶から柄杓を使って木桶に水を移して、顔をじゃぶじゃぶと洗ったのでした。
それから簡単な夕食を作り、三人で食卓を囲み、その後、腰を据えて今日の事を話そうという事になった。二人ともそれぞれ難しい顔をしていたので、胸騒ぎを覚えながら野菜のスープとパンを口に運んだのだが、味が良く分からなくなった。老大樹の元で何を聞いてきたのか、恐らく良い話ではないのだろう……と思いつつ、私はスープを飲み込んだ。
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「そう……でしたか……」
どんな表情をしたら良いのか分からない……といった面持ちで、リスは首をかしげる。三人は食後の薬草茶を飲みながら、昨日の様に長椅子にリスとマーシュマロウ、丸椅子にディルデュランが座る形で、今日の出来事を話していた。
「聖女……であることは……何一つ覚えていないのですが……老大樹さまのお話ですと、間違いないのですね」
「ああ」
少女の言葉に二人は頷く。ディルデュランがなかなか話し出せなかったので、ほぼマーシュマロウが話をしたのだが、聖女だったころを何も思い出せないリスには難しい話で、それに対して申し訳なさそうに肩を落とす。
「思い出せれば詳しい事が聞けてよいけども、事情が事情だから気にしなくていいよ。そうだな、逆に表立ったところにリスちゃんを出す方が危険だと俺は思ってる」
マーシュマロウは右の人差し指を顎に添え、視線を床に落として暫し考え込むと、そのまま口を開く。
「ここに捨てられて死んだと思われているリスちゃんが生きているという情報が、もし中央に届けば、恐らく大司祭は再びリスちゃんを消そうとするだろうな」
たとえリスが記憶を失っていると言われても、存在が残っているという事だけで向こうは危険と判断するだろう。国の安寧の為には、この先も刻印宝珠の悪用も、何人もの聖女を葬って来た事も秘匿とするはずだった。
「はい……」
少女は膝の上に置いた拳をぎゅっと握り、自分の身に襲い掛かるかもしれない危険に思わず青くなる。そんなリスの様子にディルデュランに睨まれるが、それには目をそらし、顎から指を外すと地面を指さしてにやりと笑う。
「でも……それはここにいる限り大丈夫なんだよねー。だってこの森は、そこにいる引きこもりのまじないで、人は入れないからさ!」
「あっ……はい」
目をぱちくりさせたリスは、彼の酷い言いように苦い顔をしているディルデュランを見てしまう。確か前にそんな話を聞いていたので、確かにそうです……と、胸をなでおろした。
「まあ……俺はとりあえず暖季の間は情報収集と元凶探しと同胞への声掛け」
「あの、私は何かしておくことはないでしょうか?」
生真面目な少女は、自分が何か憶えていたなら多くの手間が減るはずなのに、という思いで心配そうにマーシュマロウを伺うが、それににっこり笑うと、
「二人でっ」
仲良く暮らせばいいよ! と言いかけたところ、又もディルデュランに顎を掴まれ、容赦なく締め上げられた。
それから2日ほどマーシュマロウは森で羽を休め、その間、暖季の中までに使う二人分の食料などを、ディルデュランが準備していたものと引き換えて、それらを驢馬たちに載せて旅立って行く。
「……マーシュマロウさん、賑やかな方でしたね」
その姿を見送った後、そう言って隣で少し寂しそうに笑うリスを見下ろし、ディルデュランは口を開く。
「寂しいか」
それにこちらを見上げて来る少女と視線が合った。明るい茶色の瞳はどこまでも澄んでいて、光の精を孕んだ柔らかな髪は風でふわふわと揺れる。
「そうですね……そう……でも……ディルデュランさんがいてくれますから大丈夫です!」
少しの間の後、そう言ってリスは目を細め笑う。その輝くような笑顔に思わず見惚れかけたディルデュランは、確かに少女は「聖女」であったのだろうと苦笑すると、晴天の空を見上げたのだった。




