第一章:死の森の隠者と死にかけた聖女の出逢い
ずいぶん前に、この国の王が人の立ち入りを禁じ、この森を禁足地にしたはずだが――。
男は首をかしげながら、一人獣道を歩いていた。薬草を採りに出ていたのだが、先ほどから妙に森が騒がしい。何かあったのかと、木々の声に耳を傾けながら歩いていくと、森の入口に立つ番人の大樹。その根元に一人の少女が倒れているのを見つけた。少女の周囲では、たくさんの小さな光が跳ね回っている。木々に溶け込むような、こげ茶色のローブをまとった男の姿を見つけると、光たちは「早く、早く」と急かすように輝きを強めた。しかし男はそれを鼻で笑う。
「死にかけではないか。なぜ救おうとする?」
そう呟いただけだった。あまりにもそっけない言葉に、光の粒たちは一層激しく輝き始める。さらに番人の大樹をはじめ、周囲の木々まで枝を揺らし、次々と枝葉を落として抗議を始めた。男は仕方がないとばかりに眉間へ皺を寄せる。そしてようやく、大樹の根元へと歩み寄った。
「うむ……これは……命を使いすぎたようだな」
少女を見下ろし、男は呟く。
「何もしなければ、間もなく死ぬ」
血の気はなく、呼吸も浅い、死人同然の姿だった。しかし身なりには、乱暴に扱われたような痕跡がない。むしろ丁重に扱われていたのか、ほとんど歩いたことすらなさそうな白い足には、泥一つついていなかった。
「生贄にする風習でもできたのか?」
男は、この十年ほどの記憶を探る。そんな風習ができたという話は聞いたことがない。いったい何があったのか――と考え込もうとした、その時。目の前で光の粒がぱちんと強く弾けた。まるで「早くしろ」と言わんばかりに。
「ああ、そういえば急がないと死ぬんだったな」
男は考えるのをやめた。背負っていた籠を地面へ下ろし、無造作に手を突っ込む。そして草木を燃やして作った灰を入れた小袋を取り出すと、その中身を右の掌へ少しだけ落とした。
「命を差し出す者はあるか」
男の声が森に響く。
「命は有限である」
右の掌に灰を乗せたまま、男は続けた。
「命を置き換えれば、片方は死ぬ。それでもこの命を救いたいというのなら――差し出すがいい」
男はまじないの言葉を紡ぎながら、少女の白い胸元へ灰で刻印を描いた。それは、命を入れ替えるための刻印。そして残った灰を左の掌へ落とす。その手を器のようにして、男は頭上へ差し出した。それを見ていた光の粒たちが、空気を震わせながら一つ、また一つと集まり始める。やがて光は一つの大きな塊となり、男の掌へ収まった。その瞬間。少女の胸元に描かれた刻印が、白く燃え上がる。同時に、男の掌にあった光の塊は、瞬く間に消えていった。
「この辺一帯の光の精の命と引き換えか」
男は少女を見下ろす。
「まあ、長生きするだろう」
なぜ、これほどまでに森の者たちがこの少女へ入れ込むのか。男には分からなかった。それでも役目は終わったとばかりに立ち上がり、背負い籠を拾い上げる。その場から立ち去ろうとして、ちらりと少女の方を見た。死にかけの状態からは抜け出している。顔色はまだ白いが、血は通っている。呼吸にも問題はなさそうだった。
「起きたら、自分で帰れるだろう」
男はそう呟き、籠を背負い直そうとした。その途端。あちこちから木の枝が飛んできて、男のローブへ何本もぶつかった。足元では野草がサンダルに絡みつく。大抗議である。男は深々とため息を吐いた。
「……分かった」
鋭い口笛を鳴らす、それから大樹の根元へ腰を下ろした。待っていれば、大きな角鹿がやって来るだろう。嫌がらずにこの少女を運んでくれればいいが。そう思いながら男は、その日の仕事である薬草集めを断念するのだった。
この人間に対してそっけない男は、『死の森の隠者』と呼ばれていた。もっとも、実際にその姿を見ることができる者はほとんどいない。人々の間では、民話の一つに登場する存在として知られているだけだった。死の森が禁足地となった理由も彼にあった。隠者は人を避けて生きるため、森全体へ強いまじないをかけている。森の奥深くへ入ろうとする者がいれば、木々や獣たちが道を阻み、いつしか森の外へ追い返される。当時の国王も、どうにか森を開拓できないかと考えたらしい。しかし、何度人を送り込んでも、森の奥へ辿り着くことすらできなかった。やがて国王は諦めた。そしてこの森を『死の森』と名付け、立ち入り無用の禁足地と定めたのである。
この国の人々は、聖女の力によって安寧を得ていた。新天地を求める必要もなく、他国へ攻め入る必要もなかった。加えて、国の王の言葉によく従う気質もあったため、そのお達し以降、森へ足を踏み入れる者はいなくなった。こうして森は長い間、人に荒らされることなく、静かに北の大地を覆い続けている。
そんな森の中を、男――死の森の隠者と、一頭の大きな角鹿が静かに進んでいた。角鹿は堂々とした体格の雄だった。普通の角鹿よりも二回りほど大きく、長く生きてきたことが分かる。その瞳は賢く、深い色をしていた。
「いやはや。大角が嫌がらなくて良かった」
隠者は歩きながら、大角と呼んだ角鹿の背へ視線を向ける。濃い赤茶色の艶やかな背には、一人の娘が括りつけられていた。少女はうつ伏せになっているため、顔は見えない。しかし、手足も細ければ首も細い。いったい、どんな生き方をすれば、ここまで細くなるのだろう。この辺りで暮らす娘なら、幼い頃から貴族として育った者であっても、もっと日に焼けているはずだ。隠者はそんなことを考えながら、黙々と歩いた。すると、どこからともなく光の精たちが集まり始めた。少女の柔らかく伸びた、胡桃の実のような色をした髪の周りを跳ね回り、ちかちかと瞬いている。
「光の精や木々に、やけに好かれるな……」
隠者は少女を見る。
「大角まで嫌がらないときた。ふむ……分からん」
少し考え込んだ後、ぽつりと呟いた。
「老大樹ならば、何か知っているだろうか」
聖女という存在を、隠者が知らないわけではない。しかし、これまで一切関わりがなかった。だから、この少女が聖女であるとは思い至らなかった。そもそも、この森は聖女の恩恵を受けていない。彼女たちの祈りの力は、この北の果てまで届いていなかった。そして森そのものが太古からの姿を保っている。人間の考える『豊穣』とは、もともと縁遠い場所だったのだ。
森の奥へ進むにつれ、木々の背丈はどんどん高くなっていく。陽の光は、遠くなった枝葉の隙間から細い線を描くように差し込んでいた。もう少しすれば日が傾き、森は闇に飲まれるだろう。少女の胡桃色の髪で遊ぶ光の精たちを眺めながら、隠者は先ほどのことを思い出す。命を差し出した光の精たち。彼らが最後に伝えてきた意思。それを思い出し、森の隠者は愚痴をこぼした。
「ああ……しかし……人は嫌いだ」
深いため息を吐く。
「光の精め。何が『私のため』だ」
その言葉を聞いた木々は、一斉に枝を揺らした。そして次々と小枝を落とし、彼の身を覆うローブの裾をぺしぺしと叩いて抗議する。隠者はさらに深いため息を吐いたのだった。
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真っ白な世界に、私はいた。
瞼を閉じているはずなのに、光の粒が舞い散る様子が見える。見ていないのに見えているという、不思議な感覚だった。光の粒は遊ぶように私の髪の間をすり抜け、ちかちかと瞬いている。
遠く、遠くで誰かの声が聞こえた。父の声だろうか、それとも大司祭様だろうか、けれど、その声さえ聞こえなくなろうとした時、強い閃光が胸元で弾けた。光が、私の中へ入ってくる。石壁につけられた小さな窓から差し込む陽の光よりも、何倍も強い光だった。それなのに決して不快ではない。
私は戸惑いながらも、ぼんやりとこれまでの自分の人生を思い返していた。冷たい石壁に囲まれた部屋、閉ざされた窓、その向こうに広がっているはずの世界を、一度も知らないまま過ごした聖女としての人生を。
生まれてすぐに選別を受けた時から、私にはそれしかないのだと言い聞かされてきた。聖女として生きること、国のために祈ること、それが私の役目であり、それが私の人生なのだと疑問を持つことすらなく、それを当たり前のものとして受け入れてきた。
けれど――。それは本当に、生きていたということになるのだろうか。
遠くに聞こえる子供たちの遊ぶ声、外の世界の喧騒、眩しい陽の光。それらはすべて、冷たい石壁と曇ったガラス窓に閉ざされ、とうとう私の元へ届くことはなかった。
人のために、多くのものを捧げてきたのに。私は、何も受け取ることがなかったのね。
寂しかった、辛かった、聖女でなければ良かったのだと思うことさえ許されなかった。使い捨てられるために生まれた、悲しい聖女。人に利用され、それだけで終わる人生。だけど――。その最後に、こんなにも眩しい光を見ることができて良かった。
白く輝く世界の中で、だんだんと意識が薄れていく、とうとう死ぬのだ。
もし、また生まれ落ちることがあるのなら、聖女だけはもうごめんだわ。
そう思いながら、少女は静かに意識を手放した。
しかしその時、子供のような声がかすかに聞こえた。
『私たち、あなたみたいな子が来るのを待っていたの』
『特別なのに孤独で』
『人のことを嫌っている子』
『あの子もそう』
『だから、ちょうどいいと思うのよ』
『命をあげるわ』
『あの子の側で』
『聖女以外のあなたになって』
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「げほっ……うっ、げほっ……」
窓際の天井から天井へと張った紐に、乾燥させるための薬草を吊るしていた時だった。小屋の奥から、誰かがむせて咳き込む音が聞こえてきた。男は手を止め、少女をここへ運び込んでから何日経ったのかを思い出す、今日で三日目の昼。命を繋いだのだから、その日のうちに目を覚ましてもおかしくはなかった、だが少女は飲まず食わずのまま、三日間ずっと昏々と眠り続けていた。
まあ、むせるのも当然か。
そう考えながら、男は窓を背にして炊事場へ向かった。戸棚から器を取り出し、火の刻印が施された小さな宝玉を置いた竈へ近づく。鍋の中でゆるく湯気を立てている湯を木匙ですくい、器へ注いだ。それから左へ向きを変え、広くはない小屋の奥へと歩いていく。突き当たりの扉を開けると、そこに置かれた寝台の上で、少女が苦しそうに咳き込んでいた。何度見ても不健康そうな見た目で不愉快だ。そんなことを考えながら、男は寝台の横に置かれた丸椅子へ腰を下ろし、器を差し出した。
「ぬる湯だ。飲むといい。ただし、ゆっくり飲み込め」
突然現れた見知らぬ男の姿に、少女は怯えたように身を固くした。それでも小さく頷き、差し出された器を受け取る。胡桃の実のような柔らかい色をした髪が、陽の光を受けてきらきらと輝いていた。いや。正確には、光の精が髪の間に潜り込み、ちかちかと瞬いているのだろう。少女が目を覚ましてからも、光の精たちは彼女の側を離れようとしなかった。彼らが少女に懐いている理由について、男はすでに考えることを諦めていた。払っても払っても、また寄ってくるのだから仕方がない。
「ありがとうございます……」
声は掠れているが、言葉はしっかりしていた。ぬる湯を受け取り、ゆっくりと口へ運ぶ仕草にも粗野なところはない。育ちは悪くないのだろう。初めて少女が目を開けた状態でその顔をまともに見て、男は一つだけ感想を抱いた。明るい茶色の瞳のせいだろうか。迷子になった山栗鼠の子のような顔をしている。思ったのはそれだけだった。
光の精が命を差し出してまで生き延びさせたものを、そのまま放り出すわけにもいかない。理由は気に食わないが。少女をここまで運んでくる途中で気づいたことがある。彼女が着せられていた服には、死者のために用意される別れの言葉が刺繍されていた。そして、どうやら自らこの森へ入り込んだのではなく、誰かによって置き去りにされたらしいことも。おそらく、彼女に帰る場所はない。こうなったら、山栗鼠を一匹拾ったと思ってやり過ごすしかない。男は内心でそう結論づけた。それに、森のものたちがこれほどまで少女に懐いている理由も調べなくてはならない。長く森と共に生きてきたが、ここまでのことは一度もなかった。少女が動けるようになるまで養生させ、その後は老大樹の元へ連れて行く必要があるだろう。そう考えたところで、男は口を開いた。
「薬草採りの途中で、お前を拾った」
少女が器を持ったまま、こちらを見上げる。
「命を救った光の精に感謝するといい」
「……え?」
山栗鼠のような少女は、目を丸くした。その顔には、ちょっと何を言っているのか、よく分からないです、とでも書いてあるようだった。
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目を覚ますと、知らない場所の寝台の上だった。
建物の中であることは分かる、けれど、その部屋はなんとも不思議な造りをしていた。寝台の左手側だけはがさがさとした質感の壁面が緩やかな弧を描いている。残りは丸太を組んだ壁と一枚の扉、太い梁と板で組まれた天井だけという、ひどく質素な部屋だった。
寝台の足元には小さな炉のようなものがあり、枕元には木の丸椅子が一脚、身体には上掛けが掛けられている。見えるものはそれだけだった。床はまだ見えていない、身体を起こしていないからだ。土の匂いがするので、おそらく床は土間なのだろう。けれど、この場所には一切見覚えがなかった。
そもそも、どうして私はこんな場所にいるのだろう。
心臓が大きく跳ねる。混乱しながらも窓のない薄暗い部屋の中で、私は必死に思考を巡らせた。
ここはどこですか?
分かりません。
どうしてここにいるのでしょうか?
分かりません。
ここへ来る前、私は何をしていましたか?
分かりません。
私は……。
え……私は……もしかして、私のことを――。何も分からないのでは……?
いくつか自分自身に問いかけてみた。けれど、どの問いにも答えが返ってこない。まるで頭の中を誰かに綺麗に空っぽにされてしまったようだった。
冷たい水を頭から浴びせられたような気持ちになり、私は勢いよく身体を起こした。しかし、身体がその動きについてこない。呼吸が乱れ、派手にむせてしまう。
「げほっ……うっ、げほっ……!」
そこへ隣の部屋から、知らない大人の人が入ってきた。そして、咳き込む私を介抱してくれた。
差し出された器に入ったぬる湯を、ゆっくりと喉へ流し込む。少し落ち着いてから、私は枕元に置かれた丸椅子へ腰を下ろしたその人を見た。
座っているのでよく分からないが、おそらく背は高い方なのだろう。生成り色の下履きに、濃い緑色の長衣、腰の位置で革のベルトを締め、そのベルトにはいくつかの小袋が下げられている。まず目に入ったのはそんな服装だった。
開け放たれた扉から差し込む光が逆光になっていて、顔は少し見えにくいが、鋭い目つき、深い彫りの顔。何を考えているのか分かりにくい表情。眉間と目尻にわずかな皺があるくらいで、それほど年を取っているようには見えなかったが、後頭部で一つにまとめられた髪は、見事なまでに真っ白だった。
思わず目を瞬く。不躾にその人を見てしまったが、向こうもこちらをじっと見ていた。
何か話した方がいいのだろうか。重い沈黙の中、器を持つ手が小さく震える。話すといっても、こちらは自分が何者なのかすら分からない。どうすればいいのか、まったく見当もつかなかった。
そうして、しばらくの沈黙のあと、先に口を開いたのは向こうだった。
「薬草採取の途中でお前を拾った」
低く落ち着いた声だった。耳に心地よく響く声なのに、言葉そのものはひどく簡潔である。
「命を救った光の精に感謝するといいだろう」
……何を言っているのか、ちょっとよく分からなかった。
「あの……大変申し訳ないのですが」
潤いを少し取り戻した喉から、なんとか声を出す。
「私を拾った、というのは……いったい、どういうことでしょうか」
私は何も知らない。けれど、この人は何かを知っているのだろう。そう考え、聞くしかないと思った。
「命を救った光の精というのも分かりません。いえ……それ以前に」
言葉を選びながら続ける。
「どうやら私は、自分自身のことが何も分からないみたいなのです」
目を覚ましてから気づいたことを、側に座る男へ説明した。
名前も、身分も、生まれた場所も、ここへ来るまで何をしていたのかも、何一つ思い出せない、ここにいる理由さえ分からない。
なんとかそれだけを伝えると、また喉が掠れてきた。それに気づいたのか彼は立ち上がった。隣の部屋へ行くと、しばらくして小さな器を持って戻ってくる。中には何かの飲み物が入っていた。もしかしたら、この人は見た目に反して優しい方なのかもしれない。
「薬草茶だ。喉枯れに効く」
差し出された器を持つ指は長かった。細かな切り傷がいくつもあり、薬草を採取しているという話が少しだけ現実味を帯びる。けれど、それは間違いなく大人の男の人の手だった。
「ありがとうございます……」
お礼を言って受け取り、一口飲む。ほんのりと甘く、温かい。それなのに、なぜか喉の奥がすうっとする。不思議なお茶だった。
こんなものを飲んだことがあるだろうか。……分からない。
飲んだことがあるかどうかすら、思い出せない。
その事実に、また不安が胸へ押し寄せてくる。押しつぶされそうになりながら、私はもう一口お茶を飲み込んだ。
その間、丸椅子へ座り直した男の人は腕を組んでいた。首を少し傾けしばらく考え込む。そして口を開いた。
「話を聞いて、大体の状態は理解した」
少し間を置く。
「だが、私もお前がここに来る以前のことは分からない」
胸が嫌な音を立てた。
「分かっているのは、瀕死のお前がこの森に捨てられていたこと」
一つ。
「死者のための衣を着せられていたこと」
二つ。
「光の精に命を救われたこと」
三つ。
「それだけだ」
以上、とでも言いたげに簡潔な説明だった。目の前が真っ暗になる。結局のところ、私は、自分のことを何も知らない。この人も、私のことをほとんど何も知らない。
「私は……誰なんでしょう……」
思わず、そう呟いていた。
「知らぬ」
即答だった。
情け容赦のない返事に、さっき優しい人かもしれないと思った自分を訂正する。やっぱり優しくない…。思わず泣きそうになった時だった。視界の端が、ちかちかと瞬いていることに気づく。思わず横を向いた。ふわふわとした胡桃色の髪。その髪の間が、なぜか光っている。
「え……なに……?」
左側も同じだった。そう思った次の瞬間。光の粒が髪の間から、跳ねるように飛び出した。小さな光は部屋の中をふわふわと飛び回り、薄暗かった室内を瞬く間に明るくしていく。私は驚き、目を見張った。
「ああ」
男が小さく呟く。
「これが、さっき言った光の精だ」
彼は宙を漂う光の粒を見ながら続けた。
「この森に住まうもの。人の目には見えぬものだ」
そして、何かに気づいたように一人で納得する。
「そうか……お前は光の精から命を貰った。だから見えるのだな」
一人で納得されても、こちらは理解が追いつかない。けれど、どうやらこの光の粒が私の命を救ったらしい。そのことだけは、とりあえず飲み込むことにした。私は光の精たちを見つめ、それから男へ視線を戻した。そして気づく。
分からないということは、とても怖い。
何も知らない、何も思い出せない、自分が誰なのかさえ分からない。だからこそ、私はこの言葉の少ない人から根気よく話を聞かなければならないのだろう。何となくそう悟った。
光の精によって部屋がちかちかと明るくなっている中、私は震える気持ちを奮い立たせる。そして寝台の上で姿勢を正した。
「すみません」
一度、息を吸う。
「私を拾った時のことを、もう一度」
そして、できるだけ丁寧に言葉を続けた。
「詳しく、お話しいただけますでしょうか」
男は私の決意を聞いても、表情を一つも動かさなかった。
ただ、深く一度だけ頷いた。
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あれから、具体的に私の身に何が起こったのかを根気よく聞いたのだけれど、分からないことが多すぎて、ふんわりとしか理解できなかった。記憶がないためなのか、それとも、そもそも知らなかったのか。
きっと、そのどちらかなのだとは思うのだけれど……。
「おそらく、お前に帰るところはないだろう。光の精だけでなく、木々までがやけに同情的でな。連れて行けと、私にしつこかった」
「それは……大変、ご迷惑を……」
「ああ、迷惑だ」
男の人は嫌そうに眉間へ皺を寄せ、はっきりとそう言った。表情が少ない人でも、これは心の底から面倒だと思われているのだと分かってしまう。私は上掛けの上に置かれた自分の手へ視線を落とした。白く、細い。どう見ても力仕事には向いていない、貧弱そうな手だった。
「……ご迷惑をかけず、自分で生きなければならないとは思うのですが」
そこで一度言葉を切る。
「あの……きっと、無理ですよね」
節の目立たない傷一つない細い指を動かしてみる。薄い爪は少し固いものにぶつけただけで、すぐに割れてしまいそうだった。
「記憶もそうですが、知識もおぼつかないように感じています。この手も、この指も見慣れなくて、なんだか変な感じで……」
自分の手なのに、自分のものではないような感覚がする。
「私は光の精に命を貰った時に、色々なものを失ったのかもしれない……です」
思うままに、自分の気持ちを伝えてみた。言葉だけは、こうして当たり前のように出てくる。それが不思議で仕方がなかった。どこか現実味のない様子で自分の手を見つめる私に、男の人は一つため息を吐いた。
「……生まれ落ちたばかりと思えばいい」
低い声で、そう言う。
「拾ったからには、面倒は見る」
それだけを告げると、彼は再び部屋を出て行った。
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少女から話を聞く限り、ここへ来る以前の記憶は、かなり失われているようだった。しかし、言葉に問題はない。飲み物を飲むこともできる。身体も動かせる。人として最低限のことはできるだろう。おそらく失われているのは、出自やそれまでの人生に関わる記憶のすべてだ。
そう考えながら寝室の扉を抜け、陽の当たる部屋へ戻る。扉の隣に作り付けられた棚を開き、目の粗い明るい緑色の布で作った簡素な袖なしの長衣と、その下に着る生成り色の薄手の下着を一枚取り出した。さすがに、死者のための衣を着せたままにしておくのは不快だった。そのため手持ちの布を裁ち、とりあえず身につけられるものを仕立てておいたのである。
長い間一人で暮らしてきた男にとって、衣服を作ることはそれほど難しいことではない。ここにある物のほとんどは、自分の手で作ったものだった。
少女の面倒を見るかどうか。この三日の間、男はずっと悩んでいた。しかし、少しでも嫌そうな態度を見せれば、光の精や木々から一斉に抗議を受ける。仕方なく、少女が目を覚ました時に必要そうなものを準備する羽目になった。当然気分は良くない。これで少女が生意気だったり、礼儀知らずだったりしたなら、森の外へ放り出していただろう。しかし、あいにく言葉遣いは丁寧で、礼もきちんと言えてしまった。そのためそれも叶わなかったが。
男は取り出した衣類を持ち、寝台に座ったままの少女の元へ戻る。そしてそれらを差し出した。
「それに着替えてくれ」
それだけを言うと、部屋を出て扉を閉める。光の精がいるのだから、暗くはないだろう。
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「服だ……」
手渡された衣類を見て私は目を見張った。大きさを見る限り男の人のものではない、下着と袖なしの長衣を私のためにわざわざ仕立ててくれたのだと分かった。眠っている間に用意してくれたのだろう。
「……明るい緑色」
これは何で染めたのだろう。そう思ってからふと気づく。
「あ、染めるっていうことは分かるんだ……」
それなら着方も分かるかもしれない。私は慎重に寝台から降り、まず自分が立てることを確認した。少し足元は頼りないけれど、倒れそうというほどではない。それから、美しい刺繍が施された衣へ手を伸ばした。
『生きている人が着てはいけない』服。
そんなことだけは、なぜか分かる。そっと衣を脱ぎ、自分の身体を見下ろした。
「わ……これは、貧相では……」
上から見ても分かるほど、身体は薄く、白い。何歳くらいの身体なのか、それ以前の問題だ。いったい、どんな生き方をしていたら、こんな身体になるのだろう。多少胸の膨らみがあるところを見ると、十五歳前後……なのだろうか。けれど、それも判断がつかなかった。
「ええと……こっちが下着で……前は……」
手に取って、しばらく考える。
「あ、どっちでも良さそう?」
どうやら分からないながらも、着ること自体はできるらしい。もぞもぞと考えながら、下着と長衣を身につけた。どちらも丈は膝下あたりまである。長衣は左右の脇が腰の辺りまで縫い付けられていないため、足を動かすのにも不便はなさそうだった。見える範囲でおかしなところがないか確認する。
たぶん。おそらく。変なことにはなっていない……と思う。
「また、お礼を言わないといけないですね」
小さく呟く。私は脱いだ服を手に取り、隣の部屋へ続く扉を開けた。
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「着方は、間違っていないでしょうか?」
少女は部屋から出てくると、おずおずと男へ声を掛けてきた。立っている姿を見れば、やはり背は低い。明るい場所では、不健康そうなほど白い肌がいっそう際立って見えるのは残念だったが、手入れはされていたのだろう、背中まである胡桃色の柔らかな髪は艶があり、明るい茶色の大きな瞳に、小ぶりな鼻と口が品よくおさまっていた。
もう少し肉がつけば、それなりに愛らしい顔になるのではないか。
そんなことを考えてから、男は自分が長年ほとんど人と接していなかったことを思い出した。美醜についての判断材料が、あまりにも少なすぎる。しいて言うなら、明るい緑色はこの娘にはあまり似合わないような気がした。それと、腰の辺りが少し緩い。このままでは腹が冷えるかもしれない。
男は棚から幅広の組み紐を取り出すと、少女の前へ歩み寄った。少し身をかがめ、腰の辺りに隙間ができないよう二巻きし、しっかりと結びつける。
「これでいい」
そう言って姿勢を戻し、一歩後ろへ下がった。少女は驚いたような顔をしていたが、その理由は分からない。
「あ、はい。ありがとうございます。お手数をおかけしました」
慌てて礼を言った少女は、腰に巻かれた組み紐へ視線を落とした。そして、それにそっと触れながら男へ話した。
「これは知っています」
「そうか」
服の着方も組み紐の使い方も知っていた。この分なら生活に関わる基本的なことは問題ないかもしれない。そう考えながら、男は部屋の中央に置かれた大きめの卓へ少女を連れて行く。卓の周りには、丸椅子が二つだけ置かれていた。その片方を指差し、座るよう促す。
「その足で外へは出せん。履物を何か作るから、それまでは中にいてくれ」
「はい」
少女は素直に頷いた。家の中の土間は掃き清められているため、足を傷つけることはないだろう。しかし、外ではそうはいかない。男自身はすでに足の皮が固くなっている。脛まで布を巻き、植物で編んだサンダルを履くだけで何の問題もなかった。だが、この森には固い木の枝や石だけでなく、毒虫や蛇もいる。ひ弱な人間が裸足で歩くには危険すぎる場所だった。ましてや、あんな柔らかすぎる足ではなおさらだ。
男は、やれやれ、と小さく息を吐く。そしてもう一つの丸椅子へ腰を下ろした。履物を作る前に、まず決めておかなければならないことが一つあった。
「まず、とりあえずの名を決める」
簡潔にそう告げると、こちらを見ていた少女は目を丸くした。それから、納得したように頷く。
「それは……無いと不便ですね」
「そうだ」
本人が思い出せないというのなら、便宜上の仮の名が必要だった。何か指示をするたび、どう呼ぶか考えるのは不便で仕方がない。何か希望があればそれにすると伝えてみたが、少女は非常に困ったような顔をした。
「何も、思い浮かびません」
それだけが返ってくる。
「ならば、『リス』と呼ぶことにする」
「リス……ですか?」
山栗鼠の子のような顔だから、リス。単純すぎるかとも思ったが、他に思い当たるものがない。短く、分かりやすく、呼びやすい。それが一番だろう。
名前の由来を尋ねられたので、そのまま説明した。すると、リスは山栗鼠という生き物を知らないことが分かった。人里にも姿を現す生き物だというのに。これまで、ほとんど外の世界を見ることなく暮らしていたのだろうか。深窓の令嬢だったのかとも思うが、それならば、こんな森に捨てられていた理由が分からない。いったい、どんな事情があったのだろう。
「あの……」
考え込んでいると、声を掛けられた。リスが遠慮がちにこちらを見ている。しかし、この娘はわりと何でも聞いてくる。実のところ、遠慮というものがないのかもしれない。生まれたばかりも同然とはいえ、分からないことばかりの中で必死なのだろう。そう思うことにして、聞かれたことには答えるようにしていた。
「なんだ」
「あの、申し訳ないのですが……あなた様のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
そういえば、まだ名乗っていなかった。男は思わず、指で顎の下を撫でる。誰かに自分の名を告げることなど、長い間なかった。そのため一瞬、自分の名は何だったかと考えてしまった。忘れかけるとは不覚である。
「私の名は、森の守護・ディルデュラン」
男はそう答え、一度立ち上がった。そして左の掌を右胸へ当て、森人の古式ゆかしい礼の形を取る。
「人には『死の森の隠者』と呼ばれている」
静かな声で、少女へ自らの名を告げたのだった。




