第4話:カウントダウン
カレンダーそのものが敵になったようだった。
残された夜明けは、あと七回。
休む間もない長い鍛錬を経て、ケンジはようやく鬼の腕を、一連の連続技を最後まで繰り出せるだけの時間、維持できるようになっていた。天狗の歩法を使えば、相手の視界から一瞬だけ姿を消せる。ぬりかべの甲冑も、必要な瞬間に展開できるようになった。ただし、あまりにも正確な一撃を受ければ、まだ防御を崩されてしまう。冥境拳は相変わらず不安定で、発動にも大きな負担がかかった。それでも、もはや机上の理論ではない。実際に放ち、その反動を身をもって味わい、どれほどの威力を秘めているのかを知ったのだ。
太陽が山の峰へと沈みかけた頃、ケンジは道場の中庭の中央で足を止めた。
両腕を覆っていた緑色の気の投影が、ゆっくりと霧散していく。
入口の敷居にもたれ、ダイチが腕を組んで見つめていた。ぼさぼさの髪が目元に垂れ、手首の包帯は緩んでいる。指の間には、火の消えたハシシが挟まれていた。
「そうだ、それでいい。よくやったな、兄貴」
低い声だった。
ケンジが顔を上げた。その言葉に、思わず動きを止める。
「兄貴……その言葉を聞くのも、ずいぶん久しぶりですね」
ダイチは短く笑った。大げさな仕草で胸に手を当てる。しかし、その目は最後まで冗談めかしてはいなかった。
「兄貴……胸が締めつけられるぜ。もうお前に教えられることも、ほとんど残ってない。第三段階を習得できてないのは不満だが、それ以外は転んで、転んで、また転んで、ここまで積み上げてきた。予選の一回戦で即敗退しない程度の力は身についた。準備はいいか?」
ケンジは拳を握りしめた。
一瞬だけ炎が応え、すぐに消えた。
「できています」
夕暮れの光が、妙に重く感じられた。
ケンジは木々の向こうへ視線を向ける。そして、死者の刀を背負ってこの道場にやってきた日から、ずっと胸の奥に抱え続けていた問いを口にした。
「試合の日程やルールの話をする前に……太陽の里で何が起きたと思いますか?」
ダイチは指先でハシシを回すのをやめた。
表情が引き締まる。答えるまでに、しばらく時間がかかった。
「この地域で、ひとつの里を消し去る命令を正式に出せるのは皇帝だけだ。だが、皇帝自身がお前の祖父の命を望んだとは思えない。フジは名の知れた男だった。尊敬され、恐れられてもいた。だが、誰かが命令を下したのは確かだ。あるいは、皇帝の名を騙って誰かが動いたのかもしれない。真相を知りたければ、皇帝本人に直接尋ねるしかない……もっとも、そこまでたどり着くこと自体、ほとんど不可能だがな」
ケンジの胸に、鈍い衝撃が走った。
「不可能……?」
「ああ」
ダイチは目をそらさなかった。
「七人の戦士がいる。正確に七人だ。その一人ひとりが、普通の人間には想像すらできない力を持っている。この山々に最も近い場所にいるのは、偉大なるネメアだ。世間では七人の中で最強だと言われているが、残りの戦士たちが本気で戦う姿を、はっきりと見た者はほとんどいない。仮に、何らかの方法でそいつらを突破できたとしても……その先にはカーディナル・ウォリアーズが待っている」
ダイチは指を一本ずつ立てた。
「北、南、東、西。四つの方角を支える四本の柱だ。そこまで全部乗り越えて、ようやく皇帝と話せる可能性がわずかに生まれる。あるいは、皇帝に挑戦する機会がな。どちらが先になるかは知らんが」
ケンジは歯を食いしばった。
「そいつら全員が、俺の前に立ちはだかるのか……」
「大会で優勝すれば、突破口くらいは開けるかもしれない。ほんの少しだけな」
ケンジは瞬きひとつせず、ダイチを見つめた。
そして、灰の中から拾い上げた炎を思わせる笑みを浮かべた。
「俺が優勝するほうに賭けませんか?」
ダイチが首を傾げる。
「何を賭ける?」
「俺が負けたら……一生、兄貴のそばにいます。面倒も見ます。料理もします。必要なら、おむつだって替えてやりますよ。兄貴が思いつくことなら、何でも」
ダイチは目をぱちくりさせた。
次の瞬間、信じられないといった様子で笑い出す。
「おいおい、そこまで言うかよ!」
「じゃあ、俺が勝ったら?」
「俺に自由にさせてください。真実を探しに行きたいんです。里のことも、祖父のことも……誰も語ろうとしない、あの日の真実を」
沈黙が二人の間に長く伸びた。
ダイチは目の前に立つ少年の顔をじっと見つめた。
腫れた目と火傷だらけの手で道場にやってきた少年。あの頃とは違い、今ではまっすぐに相手の目を見据え、決して引き下がろうとしない。
やがて、ダイチは長いため息をついた。
「……本当にいいんだな?」
「もちろんです」
ダイチはうなずいた。
「交渉成立だ」
その日の午後、激しい組み手は行わなかった。
代わりに、細かな修正を繰り返した。鬼の腕を閉じる際の肘の角度。天狗の歩法を発動するときの重心移動。冥境拳を放った後、腕を使い物にならなくしないための呼吸法。
ケンジは耳を傾け、何度も繰り返した。失敗し、修正し、また挑戦する。
やがて、太陽は完全に沈んだ。
その後の日々は、さらに厳しさを増していった。
もう、何もないところから技を覚える段階ではない。必要なのは、思考するより先に技が反応するほど、身体に染み込ませることだった。
第二段階の炎とダイチの技を、同時に扱えるようにすること。
ケンジは一連の動作を何度も繰り返した。鬼の腕を展開し、連続攻撃を放ち、解除する。天狗の歩法で移動し、再び鬼の腕を構築する。
一巡するたびに、集中力が削られていった。
汗が背中をびっしょりと濡らす。筋肉は休息を求めて悲鳴を上げていた。
それでも、ケンジは止まらなかった。
ある朝、ダイチはケンジの実力を本気で測ることにした。
何の前触れもなく、彼の正面に立つ。
ただ、ケンジを見つめた。
それだけで十分だった。
ケンジは、胸を押しつぶすような見えない圧力を感じた。
まだ装甲は現れていない。
そこにあるのは、ただ純粋な威圧感だった。元素の力を持たずに長年戦い続け、最初の一歩を踏み出す前から相手を圧倒する術を身につけた男の気配。
ダイチの周囲で、空気が重くなっていく。
薄く、ほとんど透明に近い緑色のオーラが、彼の身体を包み込むように揺らめき始めた。
「来い」
低い声が響いた。
ケンジは攻撃を仕掛けた。
拳に炎をまとわせ、形成途中の鬼の腕を叩きつける。
だが、ダイチは一歩も退かなかった。
緑色のオーラが強まり、拳が命中する寸前、ぬりかべの甲冑が衝撃を受ける一点に正確に出現した。攻撃の威力が逸らされる。
その瞬間、ダイチは天狗の歩法を発動させた。
ケンジの視界から姿が消え、次の瞬間には背後に立っていた。
殴りはしなかった。
ただ、二本の指をケンジのうなじに添え、わずかに押しただけだった。
それだけで、ケンジの体勢は崩れた。
ケンジは地面を転がり、すぐさま立ち上がって構え直す。
「もう一度!」
再び、二人はぶつかり合った。
一度の攻防が、少しずつ長くなっていく。
ケンジは技をより長く維持できるようになり、相手の動きも以前より読めるようになっていた。
しかし、ダイチが本気を見せるたび、最初に現れるのは緑色のオーラだった。その後に技が続く。
声を荒らげる必要などない。
あの眼差しと、全身から放たれる圧力だけで、ケンジの身体は接触する前から強張ってしまうのだ。
鍛錬を終えた頃には、二人とも荒い息をついていた。
ただし、ダイチの呼吸はまだ余裕があった。
ケンジは膝に手をつき、肩で息をする。
「成長してるな」
ダイチが言った。
「まだ足りない部分はある。だが、確実に前へ進んでる」
「あと七日です」
ケンジは息を整えながら答えた。
「たった七日しかない」
「七日もあれば、何か月もかけて築いたものをぶっ壊すには十分だ。油断するな。飯を食え。眠れ。明日も続けるぞ」
夜は日に日に短くなった。
ケンジは暗闇の中で、何度も技の動きを頭の中で反復した。ときには中庭へ出て、前腕が痛み始めるまで鬼の腕の発動だけを繰り返した。
また別の日には、冥境拳がただの爆発ではなく、力を内側に閉じ込めた球体へと変わる、その境界を探るために座り込んだ。
ダイチは何度も、戸口からそんなケンジを眺めていた。
いつも声をかけるわけではない。
指の間にハシシを挟みながら、ただそこに立っていることもあった。
ほとんど偶然のような形で弟子にした少年が、今では自分自身を打ち砕きかねない大会に向けて、必死に準備を進めている。
その姿を、黙って見守っていた。
大会まで、あと三日。
休憩中、ケンジは再び、頭から離れない話題を持ち出した。
「もし俺が勝ち進んだら……誰かが里の真実を教えてくれると思いますか?」
ダイチはすぐには答えなかった。
しばらく考えてから、ゆっくりと口を開く。
「真実ってのは、向こうから差し出されることなんて、ほとんどない。自分の手で引きずり出すか、それだけの力で買い取るしかないんだ。七人の戦士やカーディナル・ウォリアーズがお前を本気で見るところまで行けば、誰かが口を開くかもしれない。あるいは、二度としゃべれないように消されるかもしれない。そこまでは俺にもわからん」
ダイチはケンジを見据えた。
「だが、答えを探すことだけを考えて大会に出るな。お前は、自分に向けて放たれる拳が突きつけてくる問いに、耐え抜けるだけの力を持ってリングに上がらなきゃならない」
ケンジはうなずいた。
その日の午後、彼はそれ以上何も尋ねなかった。
最後の日は、これまでに身につけたものをすべて組み合わせることに費やした。
第二段階の炎。鬼の腕。天狗の歩法。ぬりかべの甲冑の発動。そして最後に、冥境拳を二度、制御しながら放つ。
一度目は途中で崩壊し、腕を痺れさせた。
二度目は、太い木の幹に長い亀裂を刻み込めるところまで形を保った。
ケンジは呼吸を整えながら、その亀裂を見つめていた。
ダイチは一度だけ、静かにうなずいた。
「残された時間で、これ以上は伸ばせない。今のお前にないものは、大会の中で自分で見つけ出すしかないな」
その夜、二人は言葉少なに夕食を済ませた。
食事の後、灯りの消えた部屋で、ダイチが自分の寝床から声をかけた。
「賭けはまだ有効だからな。負けたら一生、俺のそばでこき使ってやる。料理に掃除に説教、それから俺が思いついたこと全部だ」
ケンジは天井を見つめたまま答えた。
「俺は負けません」
「負ける前は誰だってそう言うんだよ。背中から地面に叩きつけられるまではな。さっさと寝ろ。明日は予選会場まで下りるぞ」
ケンジは目を閉じた。
皮膚の下で、炎が静かに脈打っていた。
その火は眠っているのではない。
ただ、時が来るのを待っているのだ。
外では、山々が沈黙を守っていた。
そして七日後に迫った場所で、二百周年記念トーナメントが、まだ閉ざされた門の向こうで待ち構えていた。
誰が先へ進み、誰が脱落するのか。
それを決める時が、刻一刻と近づいていた。
大首都の別の屋根の下では、ブルーノもまた、残された日数を数えていた。
だが、その物語が再びケンジの物語と交わるのは、もう少し先のことだった。




