第96話「名将の罠と名もなき者達の初陣」
大陸歴 2791年 11月 / ドラコニア帝国 西部国境 大要塞前 / ロセリン・マクドレイ(ヴァルクール公国 新人聖騎士 16歳 女性)
冷たい風の吹く荒野をひたすら歩き続け、ついに俺たちの視界の先に巨大な影が姿を現した。
ドラコニア帝国西部国境を塞ぐ『大要塞』。荒野にある小高い丘が丸ごと要塞化されており、黒々とした堅牢な城壁が地平線を遮るようにそびえ立っている。あの中に、歴戦のドラコニア兵が3万もひしめいているのだ。
「……まじで来ちまったよ。地獄の入り口に」
俺、ロセリン・マクドレイは、重い足取りを引きずりながら隣のミレイスにこぼした。 彼女もまた、美しい金髪を兜の中に隠し、絶望的な顔で要塞を見上げている。
俺たち新兵は今、「地獄へ送ってやろう」と宣言したあのヒルダ軍師のすぐ後ろを歩かされていた。 陣形の中央付近、全軍を率いる新王グウェンドリン様の本陣のすぐ近くだ。
ヒルダ軍師は馬を進め、白銀の鎧を纏った巨体の王、グウェンドリン様の傍らへと並んだ。 その会話が、後ろを歩く俺たちの耳にも届いてくる。
「……ヒルダ。いよいよだな」
「ええ。予定通り、グウェンドリン様の率いる最精鋭と、ワシの率いる新兵合わせて5000をこの中央に配置します。そして聖騎士の主力は5000ずつ左右に分け、敵の要塞を避けるように左右へ大きく展開して迂回させましょう」
グウェンドリン様は、獰猛な笑みを浮かべて頷いた。
「よかろう。……では、始めるぞ」
王が愛用の馬上槍を天に掲げると、その身から圧倒的な魔力が立ち昇った。 『Rein(雨)』のWord。 空が急激に暗く淀み、冷たい小雨がパラパラと降り始めた。雨は要塞から自軍の付近にかけてだけ、霧雨のように視界を白く遮り、それが徐々に左右へ広がっていく。
「今じゃ。左右の部隊、移動開始」
ヒルダ軍師の静かな号令で、主力となる5000ずつの兵が音を殺し、小雨に紛れて左右へと散っていった。 残されたのは、俺たち新兵を含む中央の5000のみ。 敵は3万だ。真正面からぶつかれば一瞬ですり潰される。
「さて、残った者たちに命じる」
ヒルダ軍師が、俺たち中央の兵に向かって冷徹な声で指示を出した。
「今すぐ、足元の土を掘り返せ。スコップ三掘分の深さの横溝を、この平原に無数に掘るのじゃ。さらには、それより後方の地面に杭を深く打ち込み、足首の高さに紐を張り巡らせい」
その命令に、周囲の聖騎士たちから不満の声が漏れた。
「なんで敵を目前にして、土木作業なんか……」
誰もが顔を見合わせ、スコップを手に取るのをためらっている。 だが、俺の頭の中では、雷に打たれたように全てのパズルが組み合わさっていた。
(……これだ!!)
俺はミレイスと顔を見合わせた。 彼女も同じ結論に至ったのか、目の色を変えている。
深い横溝と、足元に張られた無数の紐。 これらは全て、機動力を誇るドラコニアの「騎馬軍団」の突撃を殺すための、対騎兵用トラップだ! これさえあれば、圧倒的な数の騎兵が突っ込んできても、足を折って自滅させられる。
「ほんの少しだけだが、生き残る芽が出てきたぜ……!」
俺は背中に背負っていた野戦用のスコップをひったくるように手にし、泥まみれになるのも構わず、狂ったように足元の土を掘り始めた。
「おい、お前ら! 文句言ってねぇで全員本気でやれ!!」
「急いで! 死にたくなかったら一秒でも早く、一つでも多く掘るのよ!!」
俺とミレイスが血相を変えて周囲の聖騎士たちの尻を叩いて回る。 「あ、ああ……!」と、俺たちの必死な剣幕に押された新兵たちが、次々と工兵のように土木作業に取り掛かり始めた。
「ほらそこ! 溝が浅い! 馬の足がすっぽりハマるように深く掘れ!」
「紐の張り方が緩いぞ! 杭は根元までしっかり打ち込め!」
生存第一主義の俺にとって、この穴掘りは文字通り命を繋ぐ作業だ。 泥水が顔に跳ね、爪の中に土が入り込もうが知ったことか。
俺たちが死に物狂いで野戦陣地を構築して300mほどにわたって罠を張った頃だった。
ピィィィィィィィィィィィッ!!
雨空を切り裂くように、鋭い笛の音が鳴り響いた。 同時に、シトシトと降っていた小雨が、まるで天の底が抜けたかのような猛烈な土砂降りに変わった。 グウェンドリン様が本気を出し始めたのだ。
「来たぞ……!」
雨音の向こう側から、地鳴りのような轟音が響いてくる。 ドラコニア軍だ。 要塞に籠るのではなく、こちらが少ないと見て、自慢の騎馬軍団で一気に蹂躙しに打って出てきたのだ。
「新兵は後ろに下がれー!!」
「第一騎士団、最前線に槍衾構築完了!! 第二、第三も接敵用意急げ!!」
前線の指揮官たちの怒号が、土砂降りの雨の中で飛び交う。 俺とミレイスはスコップを放り投げ、転がるようにして後方へと下がった。
陣形の後方、ほんの3mほど周囲より高くなっている場所。 そこには、雨避けの外套を深く被ったヒルダ軍師が、馬上で静かに前線を見下ろしていた。俺たちはそのすぐ近くに陣取り、息を潜め槍を構えた。
ドドドドドッ!!
大地の震えが、足の裏から胃袋まで伝わってくる。
「殺せぇぇぇっ!!」
「一歩も通すな!! 盾を構えろ!!」
前線の方から、絶叫と、金属と肉が激しくぶつかり合う凄惨な音が響き始めた。 視界の悪い土砂降りの中、最前線に配置された精鋭の重装歩兵と槍兵が、押し寄せるドラコニアの騎兵と激突しているのだ。
だが、敵は万を優に超える騎馬の波。 こちらの精鋭がどれほど強くとも、数の暴力と質量の前には耐えきれない。
「ぐわぁぁっ!」
「なんじゃこりゃあ!!」
前方で、先頭を突っ走ってきた敵の騎兵が、雨で見えなくなった泥濘の堀に前脚を突っ込み、あるいは見えない紐に引っかかって次々と派手に転倒していくのが見えた。後続の馬もそれに巻き込まれ、馬と人が重なり合って泥の中に倒れていく。
(よし、トラップが効いてる!)
俺は一瞬だけガッツポーズをしそうになった。だが、それを見て「よっしゃ」と喜ぶ余裕はすぐに消え去った。 転倒した被害などものともせず、敵の騎兵の波はあまりにも厚く、後から後から無限に湧き出してくるように押し寄せてくるのだ。
怒号と剣戦と共に、ヴァルクールの白き陣形が、少しずつ、少しずつこちらへと押し込まれてくるのが見えた。 分厚い防衛線が徐々に押され、俺たちが必死に掘ったトラップ地帯を、うちの精鋭部隊がじりじりと後退してくる。
「……マズい、このままじゃ突破した敵がここまでくる!」
隣でミレイスが恐怖で声を震わせた、その時。
「……前線がゆっくりとこっちに近づいてきてるね」
頭上から、ヒルダ軍師の落ち着き払った声が降ってきた。 見上げると、老軍師は自軍が押し込まれているというのに、全く焦る素振りを見せていない。
「全員、20歩後退」
ヒルダ軍師が静かに、しかし周囲の新兵たちによく通る声で指示を出した。
「……やはり敵に押されているということですか?」
隣でミレイスが、雨に打たれながら青ざめた顔で問いかけた。
「そう見えるかい?」
ヒルダ軍師は馬上で冷徹に前線を見据えたまま、事もなげに言った。
「よく聞いてみな。さっきから前線で叫んでいる味方の声は、ずっと変わっていない。それはつまり、前線の兵が死んでいないということだ。対して、相手の悲鳴や怒号は声の主が変わり続けている。どんどん死んで、入れ替わっているということだ。……今、味方が後退しているその道には、敵の死骸が大量に転がっているだろうさ」
(……!)
俺はハッとして前線を見た。 トラップと泥濘で敵の騎馬の足を折り、機動力を殺したところを味方の重装歩兵が確実に仕留めている。そしてあえて少しずつ後退することで、敵の死骸を乗り越えようとする後続の騎兵の足をさらに鈍らせ、罠の奥深くへと引きずり込んでいるのだ。
(すげぇ……。鬼ババアなんてとんでもない。この人は、本当の名将だ)
もうどれくらいの時間がたったのだろうか、一言も発せずに、豪雨で前が見えなくても、ただただ音がする前線を見つめていた。
やがて、前線から聞こえていたドラコニア兵の凄まじい怒号と馬のいななきが、目に見えて少なくなってきた。 代わりに、土砂降りの雨を切り裂くように、左右の奥深くから「おおおおっ!!」という全く別の大きな怒号が響き渡った。
「左右の兵が突っ込んだね」
ヒルダ軍師が口角を上げる。迂回していた味方が、敵の側面と背後を突いたのだ。
「さあ、新兵たち。邪魔になるから前線には絶対に入るな。左右を広げて、敵が抜けて来たら正面に立たず、横から討て!」
その指示の直後だった。 前線の歩兵の隙間、比較的兵士の薄い箇所を抜けて、血まみれのドラコニア騎兵3騎が、狂ったように武器を振り回しながらこちらへ突撃してきた。
トラップを辛うじて抜け、泥だらけになった馬が迫る。
「ひぃっ!?」
俺とミレイスは悲鳴を上げそうになりながらも、ヒルダ軍師に言われた通り、反射的に左右に分かれて道を開けた。 正面に立たない。すれ違いざまに、横から槍を突き出す!
「うおおおおっ!!」
俺の槍が、ドラコニア兵の脇腹に深く突き刺さった。 だが、敵は尋常ではない生命力で、槍が刺さったまま俺の方へ凶刃を振り下ろそうとしてきた。
「小娘が!!よくも!!」
「危ないっ!」
逆側から回り込んだミレイスの槍が、敵の背中を深々と刺し貫き、その衝撃で敵兵は馬から泥の中へと転げ落ちた。 だが、まだ動いている。俺たちを道連れにしようと立ち上がろうとしている。
『人は刺しても切っても、すぐには死なずに動き続ける。確実に仕留めるなら、頭を潰せ』
新兵訓練で、あの鬼ババアに何度も何度も叩き込まれた教え。 それが、極限状態の頭の中で反射的にフラッシュバックした。ミレイスも同じだったのだろう。
俺たちは声も出さず、泥にまみれた敵兵の頭をめがけて、同時に槍を突き降ろした。
肉を裂き、骨を砕く嫌な感触が両手に残る。 初めての、人を殺した感触。 敵兵はビクンと一度痙攣し、そのまま動かなくなった。
俺は荒い息を吐きながら、槍を引き抜き、次の敵に備えて構え直した。
どれくらいの時間、そうして警戒していただろうか。数秒だったのか、数十分だったのか。沸騰したアドレナリンが脳を焼き、もう時間感覚は完全に狂っていた。一瞬とも、永遠ともとれるような狂気に支配されたような感覚だった。
いつの間にか、周囲を見渡しても、もう突破してくる敵の姿はなかった。雨音の向こうから聞こえていたドラコニア兵の威勢の良い声も、もはや完全に消え失せている。
「……初戦は勝ったが、ここからが本番だよ」
ヒルダ軍師が、周囲の新兵たち全員に向けて告げた。
「このまま、大要塞に肉薄する」
(まだあるのかよ……!)
俺は心の中で毒づき、その言葉をなんとか飲み込んだ。 だが、震える両手を見つめ、泥に沈んだ敵騎兵の死骸を見下ろした時、恐怖とは別の、奇妙な感情が湧き上がってくるのを感じた。
勝った。 あの最強と名高いドラコニア兵を相手に、俺たちみたいな新兵混じりの半分の軍勢で、正面から打ち勝ったのだ。
(……俺たち勝ってる。これ、本当にあの要塞を落とせるんじゃないか?)
心臓が、恐怖ではなく熱い高揚感で早鐘を打つ。さっきまで土砂降りだった雨はまた霧雨に変わり、戦場の喧騒を覆い隠すように冷たく静かに降り続いている。 だが、俺たちは泥だらけの顔を上げ、熱い魂に導かれるままに、巨大な要塞へと歩みを進めるのだった。
出張で投稿できない状況で2回分飛ばしてしまいましたが、今日から投稿再開です。
戦争パートが本格的にスタートです。




